大判例

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熊本地方裁判所八代支部 昭和47年(た)1号 判決

本籍《省略》

八代拘置支所在監

無職 免田榮

大正一四年一一月四日生

右の者に対する住居侵入・強盗殺人、同未遂再審被告事件について、当裁判所は、検察官清水鐵生、同伊藤鉄男出席のうえ審理を終わり、つぎのとおり判決する。

主文

昭和二四年一月二八日付起訴状記載の公訴事実(住居侵入・強盗殺人、同未遂)について、被告人は無罪。

同二五年一月一六日付起訴状記載の公訴事実(窃盗)につき被告人を懲役六月に処する。

この裁判の確定した日から一年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用中、証人犬童清作に支給した分は被告人の負担とする。

理由

(略語及び表記方法)

一、事件の表示

「原第一審」=熊本地方裁判所八代支部昭和二四年(リ)第一一号、同二五年(わ)第五号被告人に対する住居侵入・強盗殺人、同未遂、窃盗被告事件をいう。

「原控訴審」=福岡高等裁判所昭和二五年(う)第一一一〇号同被告事件をいう。

「三次」=熊本地方裁判所八代支部昭和二九年(た)第二号被告人に対する強盗殺人等事件の確定判決に対する再審請求事件をいう。

「四次」=同支部昭和三六年(た)第一号同再審請求事件をいう。

「六次棄却審」=同支部昭和四七年(た)第一号同再審請求事件をいう。

「六次抗告審」=福岡高等裁判所昭和五一年(く)第三一号右再審請求棄却決定に対する即時抗告申立事件をいう。

「民事」=東京地方裁判所昭和三九年(ワ)第一三五九号原告免田榮(被告人)、被告国の有体動産引渡請求事件をいう。

「民事控訴審」=東京高等裁判所昭和四六年(ネ)第二一六六号控訴人免田榮(被告人)、被控訴人国の有体動産引渡請求控訴事件をいう。

「再審」=熊本地方裁判所八代支部昭和四七年(た)第一号被告人に対する住居侵入・強盗殺人、同未遂被告(再審)事件をいう。

二、場所等の表示

「俣口」=熊本県球磨郡一勝地村(現球磨村大字一勝地)大字那良口字俣口のこと。

「丸駒」=人吉市駒井田町一〇五七番地にあった特殊飲食店のこと。

「孔雀荘」=同市中青井町二五九番地にある旅館のこと。

「高原(たかんばる)」=熊本県球磨郡木上村(現錦町)所在の高原滑走路付近のこと。

三、人名の表示

「又市」=兼田又市のこと。

「文子」=石村文子のこと。

「山並」=山並政吉のこと。

「榮策」=被告人の父免田榮策のこと。

「トメノ」=被告人の義母免田トメノのこと。

「アキエ」=本件発生当時被告人の妻であった段村アキエのこと。

「角藏」=被害者白福角藏のこと。

「トギヱ」=被害者白福トギヱのこと。

「イツ子」=被害者白福イツ子のこと。

「ムツ子」=被害者白福ムツ子のこと。

「半仁田」=半仁田秋義のこと。

以上は、場所等及び人名とも主たるものを掲げた。なお証拠または裁判書等から原文を引用する場合、なるべくそのままを引用するが、人名等の固有名詞については統一した。また昭和の年号は、原則として省略した。

四、証拠の表示

「巡面調書」=司法巡査に対する供述調書

「員面調書」=司法警察員に対する供述調書

「検面調書」=検察官に対する供述調書

「裁面調書」=裁判官に対する供述調書

「証人調書」=証人の公判廷における供述を録取した公判調書中の供述記載部分及び証人の公判準備(期日外証人尋問)等における供述を録取した証人尋問調書

〈例〉 文子の原第一審二回証人調書……原第一審第二回公判調書中の証人石村文子の供述記載部分

又市の原第一審証人調書……証人兼田又市の原第一審公判準備における供述を録取した証人尋問調書

又市の三次証人調書……証人兼田又市の三次における供述を録取した証人尋問調書(なお馬場止の三次証人調書等のことを単に馬場三次証言などということもある。)

船尾忠孝の再審証人調書……証人船尾忠孝の再審公判準備における供述を録取した証人尋問調書

半仁田の再審八回証言……証人半仁田秋義の再審第八回公判における供述

「本人調書」=被告人の再審請求事件等における供述を録取した尋問調書

〈例〉 四次本人調書……四次における請求人尋問調書

民事本人調書……民事における原告本人尋問調書

「気象記録」=人吉測候所長作成の気象状況に関する捜査関係事項照会に対する回答書

「24・3・4」=例えば昭和二四年三月四日をこのように表示し、証拠等の作成日付を表す場合に便宜使用する(なお、証人尋問あるいは検証などについてその実施日を表す場合には日付の下に((実施))と記載する。

〈例〉 又市の24・3・4原第一審証人調書……証人兼田又市の原第一審公判準備における供述を録取した昭和二四年三月四日付証人尋問調書

(無罪の説明)

第一本件公訴事実

本件公訴事実(24・1・28起訴状記載)は「被告人は球磨郡免田村の中流農家に生れ幼時母と死別して爾来順次数人の継母に養育されたが性格何時しか陰気となり異母弟妹等もあって家庭生活必ずしも面白くなかった等のことから実家に在って家業に従事することを厭い昭和二一年頃には八代郡方面に土工稼ぎに出た事があり其の后実家に復帰して同二十二年十二月頃アキエと結婚後も炭坑坑員或は山林伐採人夫として出稼しようと焦慮し些少の病気療養等に名を藉り家業に怠り勝ちであった為親子夫婦の間も兎角融和を欠き昭和二十三年十二月十二日頃その妻アキエは無断生家に逃げ去り同月二十七日頃には正式に離婚の請求をなすに至ったので半ば自暴自棄となり同月二十九日いよいよ山林伐採人夫を志し所持金二千四百円位の外作業衣若干及び山鉈一本を携え無断実家を家出し知人を頼って同郡一勝地村方面に赴く途次人吉市に途中下車したのであったが途中列車内で同市旅館孔雀荘の女中溝辺ウキヱから飲食掛代金の催足を受け所持金が少額であって今後の生活を憂えた末所携の山鉈を以て通行人等を脅迫して金品を奪取しようと決意し荷物を民家に預けて山鉈丈を所持し同日午後十時頃から市内各所を歩き廻ったが適当な通行人に廻り会はなかったので此の上は予ねて金廻りが良いと聞いていた白福角藏方に押入って金品を強取しようと決心し同日午后十一時三十分頃同市北泉田町二二五番地前記白福方住家表の雨戸をこじ開けて不法に屋内に侵入し家人就寝中を奇貨として金品物色中家人に気付かれた為矢庭に家人を殺害する意思を以て所携の山鉈を振い順次前記角藏外家族三名に滅多打ちに斬りつけた上有合せの刺身包丁を以て角藏の咽喉部に止めを刺した結果同人(当時七十六歳)をその場に即死させその妻トギヱ(当時五十二歳)に対し脳割創等の重傷を負はせて翌三十日午前八時三十分頃同市山口病院において頭蓋内出血により死亡するに至らせて各殺害したが長女イツ子及次女ムツ子に対しては同人等を即死したものと誤認していた為治療日数三週間乃至三十日位を予想される頭部割創又は頭蓋内部切創を負はさせたに止り殺害の目的を遂げなかったものである。」というのである。

第二再審公判開始までの経緯

再審公判が開始されるに至った経緯については記録上つぎのとおり認められる。

一  確定判決の存在及び内容

1 被告人は、昭和二五年三月二三日熊本地方裁判所八代支部において住居侵入、強盗殺人、同未遂及び窃盗罪により、死刑の判決を受けた。これに対し、被告人は控訴の申立をしたが、昭和二六年三月一九日福岡高等裁判所において、控訴棄却の判決を受け、さらに上告を申立てたが、同年一二月二五日最高裁判所において、上告棄却の判決が宣告され、右死刑判決は昭和二七年一月五日確定した。

2 右確定判決が認定した犯罪事実の要旨は、つぎのとおりである。

被告人は

第一  昭和二三年一二月一三日午前二時ころ、熊本県球磨郡免田町犬童清作方籾干場において、同人所有の籾約二石八斗を窃取した

第二  同月一九日午後一一時ころ、同町酒井喜代治方納屋において、同人所有の四斗入玄米一俵を窃取した

第三  同月二九日実父の馬売却代金四〇〇〇円を実父に無断で取立てて使用した残金二四〇〇円位及び衣類若干、鉈(証第二号)を携え、実父に無断で家出し、知人を頼って同郡一勝地村方面に向う途次同県人吉市に下車したが、途中列車内で同市旅館孔雀荘の女中溝辺ウキヱに出会い、同女からかっての同旅館における飲食掛代金一四〇〇円余りの請求を受けたので、やむなく右所持金の中から一〇〇〇円を支払ったため残金が僅少となったところから、辻強盗を思い立ち、右鉈を携え、同日午後一〇時ころから人通りの少ない同市泉田町方面の通称中学通りに至り、通行人を物色したが、適当な人に行き会わなかったので、偶々同市北泉田町二二五番地白福角藏(死亡当時七六年)が祈祷師として流行っている旨かねて聞知していたのを思い起し、同人方から金員を窃取しようと決意し、同夜一一時三〇分ころ、右白福方住家古家の表雨戸を所携の鉈でこじ開けて不法に同家屋内に侵入し、家人就寝中を奇貨として金品物色中、角藏の妻白福トギヱ(死亡当時五二年)が物音に目覚め「泥棒」と叫び、その声に角藏が起き上がろうとしたので、事発覚して逮捕されんことをおそれ、これを免れるため、とっさに家人全部を殺害しようと決意し、所携の鉈を振るって、まず角藏の頭部を滅多切りに切りつけ、続いて右トギヱ及び同人等の長女白福イツ子(当時一四年)、次女白福ムツ子(当時一二年)の頭部に前同様滅多切りに切りつけた上、その場に有り合わせの刺身包丁(証第一号)をもって角藏の咽喉部に止めを刺し、よって白福角藏に対し、その頭部に長さ約一三・五センチメートル、創底において一〇・〇センチメートルの間同一方向に頭蓋骨を挫滅状に切創し、深さ約五・〇センチメートル、大脳実質を挫滅し創面に露出する割創ほか九個の割創を、その頸部に長さ約三・五センチメートル、創洞の長さ約八・〇センチメートルの刺創等を負わせ、その頭部割創に基づく脳挫滅並びに失血のためその場に即死させ、白福トギヱに対し、その頭部に長さ約八・〇センチメートル、創底の深さ約一・九センチメートルを算し、長さ約七・〇センチメートルの間頭蓋骨を切創し、大脳実質を挫滅状に截断する割創ほか六個の割創等を負わせ、その頭部割創に基づく脳挫滅並びに失血のため、翌三〇日午前八時三〇分ころ同市大工町二七番地山口外科病院において死亡させたが、白福イツ子に対しては、その頭頂部に入院治療一三日間を要した、長さ三ないし五センチメートル、深さ骨に達する切創三個を、白福ムツ子に対しては、入院治療二九日、通院治療約一か月を要した、長さ約七センチメートル及び五センチメートル、その一創は頭蓋骨を割断し脳実質の一部を露出する二個の割創を負わせたが、いずれも所期殺害の目的を遂げなかった

ものである。

というのである。

二 再審開始決定

1  被告人は、確定判決に対し、前後六回にわたって再審請求をなしたが、被告人の再審請求は、第一次から第五次までいずれも棄却された。

なお、第三次の再審請求については、昭和三一年八月一〇日熊本地方裁判所八代支部において、再審開始の決定(以下三次再審開始決定という)がなされたが、検察官が即時抗告の申立をした結果、昭和三四年四月一五日福岡高等裁判所は、右決定を取消し右再審請求を棄却する旨の決定をし、これに対し被告人が特別抗告を申立てたが、昭和三六年一二月六日最高裁判所は、右特別抗告を棄却した。

2  その後被告人は、第六次の再審請求をし、昭和五一年四月三〇日熊本地方裁判所八代支部は、右再審請求を棄却する旨の決定(以下六次再審棄却決定という)をしたが、被告人が即時抗告の申立をした結果、昭和五四年九月二七日福岡高等裁判所は、右決定を取消し再審を開始する旨の決定(以下六次再審開始決定という)をした。これに対して、検察官が特別抗告を申立てたが、昭和五五年一二月一一日最高裁判所は、右特別抗告を棄却し、右再審開始決定は確定するに至り、本再審公判が開始されることとなった。

なお、六次再審開始決定が再審開始の対象とした犯罪事実は、前記確定判決の犯罪事実中、第一、第二の各窃盗の事実を除いた第三の住居侵入、強盗殺人、同未遂の事実である。

第三はじめに

当裁判所は、当再審公判の対象となった24・1・28起訴状記載の住居侵入、強盗殺人、同未遂の本件公訴事実(以下本件という)について、全証拠を検討した結果、被告人にはアリバイが成立するとの結論に達したので、被告人に対し無罪を言渡すものである。

すなわち、証拠によれば、被告人が昭和二三年一二月二九日(以下年号を省略する)か同月三〇日かそのいずれの日かに熊本県人吉市駒井田町の特殊飲食店「丸駒」(以下丸駒という)に登楼し宿泊したことは、動かしがたい事実として認定されるところ、本件事件が発生した当時の被告人の行動を証拠によって間違いなく認定できる事実から逐次固めていくと、被告人が右丸駒に登楼宿泊した日として検察官が主張する二三年一二月三〇日には、被告人は同県球磨郡一勝地村大字那良口字俣口(以下俣口という)の兼田又市(以下又市という)方を訪れ、同人方に宿泊していることが明らかとなり、したがって前記のように二九日か三〇日のいずれかの日に丸駒に宿泊している以上必然的に被告人が同所に登楼し宿泊したのは同月二九日ということにならざるをえず、事件当夜である同日夜から翌三〇日朝までの同被告人が丸駒に登楼宿泊したとすれば、被告人にはアリバイが成立することになる。

よって、本件においてその余の争点とされている被告人の自白の信用性及び鉈の血痕鑑定等について判断するまでもなく、被告人は無罪との結論になるが、自白の信用性や血痕鑑定の信用性は、アリバイの成否と裏腹の関係にあるともいいうること、したがってこれらの点を検討することは、被告人にアリバイが成立し無罪であるとの当裁判所の結論が正しいことを検算するという意味を有することになること、またこれらの点が再審開始決定の根拠とされ、再審公判でも重要な争点として審理されてきた経緯に鑑み、特に判断を示すことにする。

第四アリバイ

一  被告人のアリバイ主張の内容等

被告人は、原第一審第二回公判(二四年三月二四日)における石村文子(以下文子という)の証人尋問ののち、裁判長から意見を求められて、自分が丸駒に登楼したのは二三年一二月二九日である旨アリバイを主張するかのような発言があったのち、同第三回公判(二四年四月一四日)における被告人質問で裁判長の「一二月二九日の夜一一時半頃窃盗の目的で人吉市北泉田町二二五番地の白福角藏方に押し入ったことはないか。」との問に対し「ありません。」と答えたことを皮切りに、「二九日の晩白福角藏方に金を盗りに入ったが家人に気付かれ、家人に傷つけて逃げたことはないか。」との問に対し「ありません。」と答えるなどして本件各犯罪事実を否認し、二三年一二月下旬から二四年一月一〇日ころまでの自己の行動につき、裁判長の質問に答えて順を追ってつぎのように供述し、その後一貫して犯罪事実を否認するとともにアリバイを主張している。

1 二三年一二月一二日ころ

問「段村アキエは昨年一二月一二日頃黙って実家に帰ってしまったそうではないか。」

答「そうです。」

2 同月ころ

問「昨年一二月頃アキエが実家に帰っているのをその実家の近くにアキエの容子を聞きに行ったのか。」

答「アキエの姉の夫が人吉駅に勤めていて同人方はアキエの実家の隣りなので其処にアキエの様子を聞きに二回行ったことがあります。」

問「アテエの処に行きたかったのか。」

答「気拙くてよう行けませんでした。それで他の用事で人吉に出た折アキエの実家の隣家に寄ったこともありました。」

3 同月一四日ころ及び同月二二、三日ころ

問「迎えには行かなかったか。」

答「一四日と二二、三日頃の二回行きました。そしてアキエに会いました。」

問「人を頼んでアキエを早く帰るように云うたことはないか。」

答「山並政吉さんにアキエが早く帰ってくるよう一度頼みに行ったことはあります。」

問「それは何時か。」

答「昨年一二月二二日と思います。」

問「山並政吉に頼んだのはその時が初めてなのか。」

答「そうであります。」

4 同月一九日

問「孔雀荘というのは飲食店なのか。」

答「旅館で飲み屋を兼ねた家です。」

問「此処に飲み代の借りがあるというのは何時出来たのか。」

答「一二月一八、九日頃と思います。」

5 同月二五日及び同月二六日

問「山並政吉にアキエが早く帰ってくるように一二月二二日の日に頼んだというがその返事は聞かなかったか。」

答「一二月二五日でした。山並政吉とアキエの兄段村隼人とアキエの三人連れで私方に来ました。その日私は球磨郡西村の山並政吉方に行ったのですが山並政吉は不在でその妻君が今日は主人はアキエの家に行っている。何でもアキエの離婚話のことで行ったとのことでした。それで私は夜遅く一一時少し前位に家に帰ったらその三人が私方に来ていました。」

問「その三人の来た用件は。」

答「アキエの一時の暇をとりに来たのでした。」

問「一時の暇を取りにとはどういう意味か。」

答「私が仕事を見付ける迄暇を呉れとのことです。別居したいとの事でした。」

問「被告人も一緒になって話をしたのか。」

答「自分としては大した話もしませんでした。その話は二六日の朝になってからしました。」

6 同月二七日

問「それでどうなったか。」

答「翌二七日になって、自分が仕事を見つける迄帰っておって呉れといいました。」

問「二人と被告人とは応対したのか。」

答「三人の前では応対しませんでした。それで私の気持は叔父蓑毛厳にいうて貰いました。」

問「結局アキエと別れるように話がついたのではないか。」

答「そうではありません。私は別れる気ではありませんでした。」

問「然しアキエは別れることに話がついたというて居るがどうか。」

答「その時の話は別れることに決まったのではないと思います。」

問「アキエの道具を渡したのではないか。」

答「そうです。その日持って帰りました。」

問「三人は何時頃帰ったのか。」

答「午後の三時半頃家を出たと思います。私の家とアキエの実家とは四里位離れていますが、後で聞いたら歩いて帰ったとのことでした。」

問「三人が帰ってからどうしたか。」

答「二七日は家に寝ました。」

7 同月二八日

問「翌二八日はどうしたか。」

答「隣り部落の吉井に居る叔父兼田龍治方に遊びに行きました。そして午後一時の免田発の汽車で山並政吉方に行きました。そしたら政吉は不在で妻君から昨日三人連れで免田から歩いて帰って来て一晩此処(政吉方)に泊り、今日昼から三人共アキエ方に行ったとの話でした。」

問「それでその日はどうしたか。」

答「山並方に暫く遊んで七時の終列の汽車で家に帰り家で寝ました。」

問「兼田龍治方にはどんな目的で行ったのか。」

答「仕事を見つけに出るといって家を出ましたのでその話をしに行きました。仕事を見つけてもらう積りはありませんでした。」

問「山並政吉方には何のために行ったのか。」

答「アキエの話がどういう風に決まったかを聞きました。」

問「アキエを元のように戻して貰うためではなかったか。」

答「初めはそういう気で行ったが山並政吉不在のため話はせずに帰りました。」

8 同月二九日

問「翌二九日はどうしたか。」

答「二八日に政吉方に行っての帰り途に人吉駅で孔雀荘の溝辺ウキヱに会い同じ汽車で免田駅迄行き別れました。二九日は私は家に居ましたが夕方六時の汽車で人吉に出ましたがその際も免田駅で溝辺ウキヱに会いました。私は一足先に人吉駅を出て、駅前の闇市場内の平川飲食店に私の荷物を預けました。荷物というのは作業服と米三升でした。それから孔雀荘に飲み代の借りを払いに午後八時半頃行き金を千円払って一時間位居って丸駒料理屋に行きその晩そこに泊りました。」

問「此処(孔雀荘)に泊ったことがあるか。」

答「二回位泊りました。」

問「なぜこの晩は孔雀荘に泊らずに丸駒に泊ったのか。」

答「その晩孔雀荘には客が多かったからです。」

問「なぜ二九日は人吉に出たのか。」

答「一勝地に行く積りでした。二番の汽車午前十時過免田発で発つ積りが乗り遅れたので六時の汽車で出たのです。」

問「その汽車では一勝地には行けないのか。」

答「那良口駅に降りて四里半歩かねばならず遅くなるので一泊して翌日行くことにしたのでした。」

問「その時の所持品は。」

答「作業服、袢天、米三升を黒い風呂敷に包んでいてその他に何も持ちません。」

問「鉈は持っていたのか。」

答「持っていませんでした。」

問「所持金はどの位だったか。」

答「二千五百円許り持っていました。」

問「その金はどんな金なのか、父から貰った金なのか。」

答「父が吉井の人に馬を売ってその代金が四千円残っていたのを父に黙って私が二八日吉井の兼田方に行くとき立寄って受取った四千円の内ズックを五百円で買い、寿司を千円がた食べたりして費った残りの金でした。」

問「此の時は一勝地の山には入る積りだったのか。」

答「母親に丈け云うて家を出ました。父親には諒解は得ていませんでしたが私が出た後承諾して貰う積りで出ました。」

問「一二月二九日の被告人の服装は。」

答「国防色のラシャのズボンと上衣は海軍の作業服で黄色い木綿もので古くなって白っぽくなったのを着てかば色の中折帽子と黒のズックを履いていまして袢天は着ていませんでした。」

問「一二月二九日の服装にはオーバーは着ていなかったのか。」

答「オーバーは云い落していました。」

問「二九日の日平川ハマエに預けた荷物にはオーバーはなかったのか。」

答「オーバーも預けました。」

9 同月三〇日

問「三〇日の日はどうしたか。」

答「朝八時半頃丸駒を出て平川ハマエ方に行き荷物を取って、人吉駅発二番の上り列車で一勝地に行き兼田又市方に向って進んでいたら同人と遇い同人と一緒に上ってその晩は同人方に泊りました。」

問「その間の経費はどうしていたか。」

答「三〇日兼田又市方に行ったときオーバーを抵当に入れて誰からか七百円借りました。」

問「それは三〇日に間違いないか。」

答「三〇日の晩と思います。……」

問「兼田又市方に居た折その家族以外に同居人が居ましたか。」

答「四二、三歳位の人で中村とかいう人が居ました。」

10 同月三一日

問「丸駒を出た日に文子と会うたか。」

答「会いました。泊った翌日で三一日の午前一〇時半か一一時頃人吉市山田郷の裏通りで会いました。」

問「文子はどんな格好だったか。」

答「風呂に行く格好でした。」

問「その日は山並政吉方に泊りましたか。」

答「そうです。山並政吉方に午後五時前に行きました。それ迄人吉の第一劇場に映画を見ました。入場料は四〇円か四五円でした。」

11 二四年一月一日から同月三日まで

問「その間どうしていたか。」

答「元日の日二番の汽車で八代に来て、丸駒の文子の母の家に来て一時間位居て、友人である八代郡宮地村の横山一義方に来て四日迄居ました。……」

問「それは三〇日に間違いないか。」

答「……又横山一義方に居るとき同人の母に頼んで腕時計を担保にして七百円を借りて貰い……。」

12 同月四日から同月七日まで

問「その間どうしていたか。」

答「……四日の日二番の汽車で那良口に行き兼田又市方に行って四、五、六日と三晩泊って七日には家に帰ろうと思いましたが、雪が深いため伊藤イチ方に寄ったらそこの長男が翌日人吉に行くというので同道することになり、引返して七日の日も兼田又市方に泊り、……。」

問「オーバーで七百円を借りたのは、三〇日に間違いないか。」

答「三〇日の晩と思います。それと一月七、八日頃兼田又市に頼んでズボンを抵当に入れ八百円借りて貰い……。」

13 同月八日及び同月九日

問「その間どうしていたか。」

答「……翌八日は伊藤イチの長男と二人で人吉に出て山並政吉方に寄って免田に帰りましたが、親類の井川政喜方に泊り、九日の日に実家に行き布団二枚と鉈を持って家を出て井川政喜方に行き其処に泊って……。」

問「どういう訳でその奥さんが知っているのか。」

答「それは其処の家で荷造りしたからです。家から持出す時はざっと荷造りして井川方迄持って行き其処で布団の中に入れて茣蓙で包み縄でくくり、鉈は茣蓙で包んで縄でくくり荷物を二つにしたのです。」

14 同月一〇日から同月一四日まで

問「その間どうしていたか。」

答「……翌一〇日の日一勝地に行きましたら兼田又市が雪が深くて仕事が出来んと云うて山を降りて来るのに会いました。私はわざわざ上ったのだからというて伊藤イチ方に行き、薪をとったり等して加勢して逮捕される迄同人方にいました。」

問「伊藤イチ方で薪採りの加勢をしていた頃鉈を研ぎましたか。」

答「研ぎました。」

問「その鉈を研ぐ時此の腐れ鉈を研いでやろうと云うて研いだことはないか。」

答「砥石を借りたことはありますが腐れ鉈というたことはありません。」

問「君が自分の家から持出してから逮捕される迄は他の者にはその鉈は貸してはいませんか。」

答「その間他の者に貸したことはありません。」

問「被告人が逮捕される二、三日前伊藤イチ方で坂本オトミに対し、自分が免田町の常会にかに行った処が区長から種々云はれたので区長を小刀で刺した話をしたことがあるか。」

答「区長さんと口論した話はしましたが切物を出した話はしませんでした。」

問「何時逮捕されたか。」

答「一月一四日と思います。一勝地村の伊藤イチ方に居たとき警察官に捕りました。」

以上のように被告人は二三年一二月中旬から二四年一月逮捕されるまでの行動について、具体的かつ詳細に述べるところ、本件で直接アリバイが問題となるのは、二三年一二月二九日から同月三〇日までの行動であるが、もし、被告人の供述するところが真実だとすれば、被告人には明らかにアリバイが成立し、無罪ということになる。

二  いわゆる消去法によるアリバイ認定

1 本件アリバイを検討する場合の基本的態度

被告人が二三年一二月二九日球磨郡免田町より人吉市に出て来たこと(原第一審における溝辺ウキヱ、平川ハマエの各証人調書ほか同人らの捜査官に対する各供述調書)、同月三一日には山並政吉方に宿泊したこと(同じく山並政吉の証人調書)及び同月二九日か三〇日に丸駒に登楼したこと(同じく佐伯榮一郎、石村文子の各証人調書)は、被告人も一貫して供述しており、いずれも証拠上動かすことのできない事実であることから、焦点は(イ)同月二九日夜犯行、同月三〇日夜丸駒泊であるか(アリバイ不成立)、(ロ)同月二九日夜丸駒泊、同月三〇日夜又市方泊であるか(アリバイ成立)である。

ところで、アリバイの成否について、これまでの原第一審なり各再審請求段階における審理経過や再審請求に対する決定理由をみるかぎり、丸駒に二九日泊ったか三〇日泊ったかに関し、そのものずばりを証言する直接証拠たる当時丸駒の接客婦で被告人と一夜を共にしたという文子の供述(証言及び捜査官に対する供述調書を含む。以下同じ)の信用性の検討が中心に据えられていたことが窺われ、また当再審公判においてもやはり右文子の供述の信用性及びこれにもましてアリバイに関する直接証拠たる内容を有する半仁田秋義(以下半仁田という)の証言(検察官に対する供述調書を含む。以下同じ)の信用性いかんが、検察官及び弁護人においてアリバイ問題の中心に据えられている感があることは否定できない。そうして、これらの供述や証言が信用できるか否かで、アリバイの成立、不成立を決めようとするかのようである。

文子や半仁田の供述は、アリバイに関しいわば決定的ともいうべき事実をその内容とするものであるから、これらの証拠が信用できるか否か確信をもって決めうるならば、それがアリバイの成否を決定する最短、最良の方法かも知れない。

しかし、当裁判所は右文子の供述及び半仁田の証言について検討を重ねれば重ねるほど、これらの証言等は多くの疑問をはらんだ証拠であり、これらをことにその供述内容がどうであるかということだけから信用できるか否かを決め、それによってアリバイの成否を認定するには誠に危険な「供述証拠」であるとの念を深くするものである。(このことについては後に詳しく論証する。)

本件アリバイを検討する際の基本的態度として、できるだけ三三年前の事件当時に日時的に近接した証拠でしかも日時の経過や場所の変化で変遷を示さない、したがって証拠価値が高いと評価される物的証拠もしくはこれに準ずる証拠に依拠することを第一とし、供述証拠についてもそのものずばりを証言する文子の供述や半仁田の証言にとらわれることなく、むしろこれら危険な証拠を一応さて置いて、間接事実を何気なくあるいはさりげなく供述していると認められる地味な供述証拠を積み重ねることにより、そうして客観的裏付けを有するものと有しないものとを峻別して事実認定をすべきものと考えるものである。このことは、証拠によって事実を認定する者のとるべき当然の態度ではあるが、従来ややもすればこの基本的視点をないがしろにしたのではないかと思われる面がないではなく、文子の供述も半仁田証言も右に述べた当裁判所の基本的立場からすれば、その供述内容がもし真実とすれば決定的な意味を有するほどのものではあるけれども、むしろ他の信用性の高い物的証拠や供述証拠であっても前記のようにさりげない供述をしているものによる事実認定を辛抱強く可能なかぎりしたのちに、これらの証拠もしくはそれによって認定される事実によって、逆に、その証言の内容の真偽が確かめられるべきものと解する(なお検察官は論告((一五一頁、一五二頁))において、被告人のアリバイ主張は裁判所において原第一審以来六次再審開始決定までの間、三次再審開始決定を除き、採用されることはなかったことを指摘し、六次再審開始決定も弁護人が援用する全証拠を検討してもアリバイの成立、不成立の各事実にそれぞれ副ういくつかの証拠が散見されるもののほとんどが供述証拠であって決定的なものは見いだせず、そのいずれとも確定することは困難というべきであるとするが、もとより再審裁判所は六次抗告審決定の右認定に何らの拘束を受けるものではなく、前記の基本的態度で全証拠を検討した結果、アリバイが間違いなく成立するとの結論に達した次第である。)

右のような基本的態度で本件アリバイ問題に臨むならば、まず丸駒に泊ったのは二九日か三〇日かあるいは又市方に三〇日泊ったかというそのものに直接とりかかる方法は相当でなく、二三年一二月から二四年一月にかけての被告人の行動について、そのうち証拠上確実に認定できる事実を固めることからとりかかり、問題の二三年一二月二九日及び同月三〇日に被告人がどこで宿泊したかという事実の確定に迫るのが最も適切な事実認定の方法であろうと考える。

2 被告人の行動中明白な点

前記のとおり、被告人が二三年一二月二九日免田町から人吉市内に出てきたこと、同月三一日山並政吉(以下山並という)方に宿泊したこと、同月二九日か三〇日丸駒に宿泊したことは、いずれも証拠上動かしがたい事実であるが、さらに細かくみると、原第一審溝辺ウキヱ、同平川ハマエの各証人調書によれば、二三年一二月二八日免田行の終列車の中で溝辺ウキヱと会っていること、したがってこの日は、免田榮策(以下榮策という)方に泊ったことは間違いない(なお免田トメノの24・3・5証人調書にも、被告人は二三年一二月二八日は被告人の実家である榮策方に泊った旨の供述が存する。)。そうして、翌二九日午後六時三〇分ころの終列車(午後七時一〇分ころ人吉着)で人吉へ行く汽車の中で再び溝辺ウキヱと会い、人吉では平川食堂に荷物(黒い風呂敷包みとオーバー)を預け、午後八時三〇分か午後九時ころ孔雀荘を訪れ、約一時間位して同所を出たこと、翌三〇日午前一一時ころ平川食堂へ荷物を取りに現われたこと、同月三一日は山並方に宿泊したこと、二四年一月一日から同月三日まで横山一義方に宿泊したこと、同月四日から同月七日まで又市方に宿泊したこと、同月八日山並方に宿泊したこと、同月九日井川政喜方に宿泊したこと、同月一〇日一勝地へ向ったこと、以上は明らかに認められるところである(以上の各事実は、被告人の原第一審第三回公判における供述、横山一義、又市、山並の捜査官に対する各供述調書及び原第一審証言等によって認められる。)。

3 被告人が二三年一二月中に俣口の又市方を訪れている事実といわゆる消去法による確定

つぎに被告人のアリバイを考えるに際し、当裁判所が最も重要と考える事実の一は、又市が二四年の正月が明けてから免田町方面に下り二泊したが、うち一日は被告人の実家である榮策方に泊り、その際同人に被告人が二三年暮に又市方に来た話をした事実があるという点である。

この点について証拠を検討してみると、まず又市であるが、同人については、(一)24・1・17巡面調書、(二)24・1・24検面調書、(三)24・3・4原第一審証人調書、(四)24・8・25巡面調書、(五)30・5・23三次証人調書が存在するところ、最も古い(一)の調書は

「……本年一月二日に山を下って球磨郡山江村や免田町の方に行き一月五日に山に上った……。」

「……二回目に来た時は、私が免田の家に行って免田の親父が云っていた『親でも子でもないから家には寄せ付けない』と云っていたぞと申しますと免田は『ようしそんな事を云っていたら財産でも何でも取上げてくれる』と云っておりました。」とあり、(二)の調書には「月日が判然致しませぬが正月後二晩続けて俣口の家を明けた事があります。」(三)の調書は

答「本年一月二日頃免田町の免田榮策に聴きに行きました。それは大百姓なのに山の仕事を榮にさせるのかどうか、榮が無断家出したのではないだろうかと思ったからです。私は免田に二泊して四日の日家に帰ったら家内が榮が二晩泊って下に下ったと云いました。」

問「榮の父にわざわざ榮のことを訊きに行ったのか。」

答「そうです。その事だけでわざわざ行きました。……山に来たらだまくらかして山の仕事をさせて呉れとの事を云いました。」また(四)の調書は

「正月明けて三、四日頃の私が山を降りて免田町の榮の父の榮策方に行き、榮はどうして山仕事等に来るのかと尋ねに行きましたが、榮策は榮は嫁に暇をやりだまって行った旨申しましたが、其時は私は榮策方に一晩と私方に一晩泊った。」とそれぞれなっており、本件後六年余り経過した段階での(五)の調書では

問「その頃免田の父親に会ったことはないか。」

答「会ったような気もしますが忘れました。」

となっている。

一方、榮策の24・1・17巡面調書には

「兼田と会ったとき百姓をすかんからと云って来たと云いましたので百姓を好かねば仕様がないが、山仕事も相当きつかろうにねと影事を云ってゐた様なわけでありました。」「兼田又市が参りましたのは本年の三日か四日頃だったと思います。」となっており、24・1・27検面調書には特に記載はないが、24・3・5原第一審証人調書には

問「兼田又市が証人方に来て榮の事を話しはしなかったか。」

答「正月四日の晩来て一晩泊って行きました。兼田又市は、榮が一二月二五、六日頃来て山の仕事するから世話して呉れといい、その時六、七百円の金を借りて、正月二日頃来ると云うているのだが親の承諾を得ているのかどうか訊きに来たといいました。私は榮は二九日の昼家を出たきり分らなかったがそれは御世話になりましたと礼を云い、自分の家から山仕事に出したのではない、弟の方なら出してもよいが榮は出されないといいました。」となっており、

免田トメノ(以下トメノという)の24・3・5原第一審証人調書には

「正月の三、四日頃兼田又市が私方に来て一泊して帰りました。その時は榮は不在でした。私には何とも云はず榮策と話していましたのでどんな用件だったか私は判りません。」となっている。

以上の証拠によれば、正確な日時の点はともかくとして、正月明けて間もなくのころ、又市が榮策方を訪れ、被告人が暮れに又市方に来たことを話し相談している事実が認められ、したがって右事実によれば、これも正確な日時は別として一二月の暮れ、被告人が又市方を訪れている事実は、動かしがたいと判断される(検察官も論告((二三七頁))において、又市が一月四日ごろ自宅を出て免田町黒田の被告人の実家を訪ね、被告人の父榮策に被告人が又市を訪ねて来たことを伝えて同家に一泊したことを認めている。)。

なお、右のように日時の点は別として、一二月の末ころ被告人が第一回目の又市方を訪問している事実は、検察官も争っていないようであるが、さらにこの事実を述べる前記証拠の信用性について一言すると、二四年一月一七日取調べ当時は、被告人の逮捕四日目であって、被告人との間に通謀は考えられず、右取調べ当時においては榮策、又市共、榮が免田町の実家を家出し、または又市方を訪ねて来た日は、二三年一二月二六日または同月二五、六日ころと述べているのであるから、右各供述は本件犯行日である同月二九日以前に被告人が実家を家出して、犯行現場である人吉市に現在していた可能性を裏付ける証拠とはなれ、アリバイの証拠として特に考案作為した供述であると考える余地のないこと、さらに被告人が年内に一度又市方を訪れたことがあるという事実の重大性は、むしろもっと具体的に一体何日に又市を訪れたかという日にちを問題にしたため、捜査段階でも原第一審公判においてさえも余り認識されていなかったように窺われることから、その信用性は高いといえる。捜査や原第一審段階では「何日」に又市方に行ったかという視点からはかなり捜査もされているようであるが、この段階で当裁判所が重視しているのは、被告人が一体「何日」に又市方へ行ったかではなく、とにかく一二月中に一度訪れた事実があるということは動かしがたいということ自体を問題にしているのである。またこの事実の重要性は、実は当公判廷における弁護人も検察官も少くとも論告及び弁論を見るかぎり、認識していないように思われる。

もっとも、ここで一言触れておかなければならない点は、又市や榮策さらにはトメノの前示証拠中最初被告人が又市方を訪れた日を一二月二五日とか二六日とかいっている個所及び又市が榮策方を訪れた日を一月二日ころなどといっている個所(これは四日が正しい)は、後述するように信用できないのであるが、だからといって「年末に被告人が最初に又市方を訪れた事実」そのものを供述する部分の信用性までを否定できないこと多言を要しないであろう。正確な日時については、正確な日時はわからないと断っているようにはじめから細かく何日であるとの供述を求めることが無理な場合はいくらでも考えられるのに対し、正月明けて被告人のことでわざわざ実家を訪ね一泊するなどということは、これと比較して特異な出来事というべく、取調べられた二四年一月一七日という日時からいっても正確に証言できないような事柄ではないからである。そうして当然のこととはいえ、右事実に反するような証拠は一切存在しない。

4 一回目の俣口訪問はいつか

本件では幸いなことに、前記のように被告人の二三年一二月下旬から二四年一月にかけての行動が証拠によってかなり明らかにされている部分がある。すでに述べたように、二三年一二月二八日免田行の終列車の中で溝辺ウキヱと会っていて、したがって同日は免田町に泊ったこと、同月三一日山並方に泊ったこと、二四年一月一日から同月三日まで横山一義方に泊ったこと、同月四日から同月七日まで又市方に泊ったこと、同月九日井川政喜方に泊ったこと、同月一〇日一勝地へ向ったこと(なお検察官も論告((五二四頁、五二五頁))において、二三年一二月三一日から二四年一月一〇日までの被告人の行動につき証拠上右同様に認められるとしている。)、そうして、前述のように二三年一二月二九日か三〇日には丸駒に宿泊していることが認められる。それに、被告人が一二月下旬又市方を第一回目に訪れていること、したがって二四年一月四日は二度目であることも明らかになった。

そこでつぎに、それでは、被告人が第一回目に又市方へ行ったのはいつであるかを証拠上確定することができるかが検討されねばならない。この問題を検討する際に重要な視点は、被告人が二三年の一二月下旬に又市方を訪れたかどうかわからないが、一体何日に訪れたという証拠が存在するだろうかという接近の仕方は、いたずらに事実認定を散慢ならしめるおそれがあるということである。

換言すれば前記のとおり、証拠上一二月下旬に又市方を訪れていることがはっきり認められるのであるから(この点からすでに二四年一月四日初めて行ったことになっている被告人の24・1・17員面調書が誤りであることが明らかになる。)、それではその日はいつであるかという観点に立って証拠を検討することがより木目の細かい事実認定を可能ならしめるということである。すなわち、二三年一二月下旬に俣口の又市方を訪れ宿泊していることを前提にすると、明らかに行っていない日を消去していき、しかるに一二月中に必ず行っているのであるから最後に残った日が正解となるいわゆる消去法により、その日が何日であるかという事実認定が可能になる。もっとも消去法が効果的に機能するためには、明らかに行っていない日の認定が証拠上可能であることが前提条件となろう。そうして本件では、はからずもそれが可能であることつぎにみるとおりである。

(一) 一二月二八日、同月二九日、同月三一日及び同月二四日ではないことについて

まず一二月二八日は、被告人は免田行の終列車で溝辺ウキヱと会っており、同月一日現在の時刻表によれば人吉発で免田を通る終列車は、人吉発午後九時三〇分、免田発午後一〇時二〇分であってすでに免田から人吉行の列車もなく、免田から俣口の又市方までの距離など合せ考えると、それからは時間的物理的に不能であるから消去される。

つぎに、一二月二九日は午後九時三〇分か午後一〇時ころ人吉市内の孔雀荘を出ており、前記時刻表によれば、人吉駅から那良口または一勝地駅行きの最終列車は人吉駅発午後六時一八分であって、人吉市内から俣口の又市方までの距離を合せ考えると、やはり時間的物理的に不可能となり消去される。

さらに、一二月三一日は山並方に泊っているので同日も消去され、残るは同月二三日、同月二四日、同月二五日、同月二六日、同月二七日、同月三〇日ということになる。

そうして、一二月二二日以前については、証拠上全くあらわれていないし、今まで問題になったこともなく、本件証拠によって認められる実際の事柄の推移から二二日以前に俣口を訪れたことは全く考えられないので、本件における事実認定としては考慮する必要はないと解する。また右のうち同月二四日についても同様証拠上全く出ておらず、今まで問題になったこともない。

(二) 一二月二五、六、七日ではないことについて

(1) 別れ話との関係

当時被告人の妻であった段村アキエ(以下アキエという)及び同女の姉の夫である山並の各供述によれば、アキエ、山並、アキエの兄段村隼人の三名が一二月二五、二六、二七日と離婚話のため榮策方を訪れ、同月二五、六日と二泊して話合っていること、被告人は二五日不在であったが夜遅く帰ってきて、二七日一応別居するという話が決まるまで同所にいたことが認められる。

すなわち、アキエの24・1・18巡面調書には「そして、一二月二五日に私と私の兄と山並さん三人で免田の家に暇貰いに行ったのであります。そのときは榮のお父さんの榮策さんは親達と一緒に居り度くなければ自分達は隠居でもして良いと云はれ自分は何とも云へぬから榮の話を聞いて呉れと云はれまして榮にお父さんもこんなに云はれるがどうですか。この家に腰を落ち着けて真面目に仕事をやってくれませんかと申し、尚私も現在妊娠二ヶ月になってゐて普通の体ではないから出来たら別れ度くないと云う意見を榮に対して申したのであります。然し榮は百姓は見込みがないと申しまして黙って居りますのでその儘帰ってしまったのであります。」とあり、24・1・24検面調書には、「私は昭和二二年一二月八日免田榮と結婚し、昨年一二月二七日協議上離婚することに話が決まって居りますがまだ籍は抜いて居りませぬ。」「そして一二月二五日兄段村隼人媒酌人山並政吉と共に榮方に正式に離婚の相談に行きました。処がその日榮は夜遅く迄帰って来なかったので話が出来ず私共は榮方に二七日迄二泊してやっと相手方の承諾を得て帰った次第でした。榮は二五日の夜遅く帰り二七日私共が同家を辞する迄家に居りました。」とあり、24・3・5原第一審証人調書には

問「嫁入道具等はどうしましたか。」

答「身体一つで帰って山並政吉と二五日に免田に行きその晩と翌二六日の晩泊って別れ話を決め二七日手続をして荷物を持って出たのであります。」

問「その時榮は家にいたのか。」

答「二五日は榮は不在でしたが人吉に行っていたとかで終列車で帰って来ました。二六、七日榮は黙って何ともいわなかったが、二七日には別れることに承知したのでした。私は榮と円満に暮させるために分家させるとのことを舅もいはれましたが榮は百姓する見込もないので別れ話に決まったのであります。」となっている。また、山並の24・1・24検面調書には「免田榮と段村アキエの結婚媒酌は私がしましたのでありますが昨年一二月一二、三日頃アキエは榮が真面目に働かないから離婚させて呉れとの事でありましたので極力慰留しましたが承知しないので本人及び同人の兄隼人と三人で一二月二五日榮方に赴き二泊して離婚話を決めた上二七日私方に引上げました。」とあり、24・3・5原第一審証人調書には

問「その結婚は離婚となったか。」

答「昨年一二月二七日と思います。はっきり離婚手続をとりました。アキエが家庭が思はしくないから離婚話をして呉れとて一二月一三日実家に帰りました。私はアキエの実家に同月二三日に行ってアキエに会ったら暇をとって呉れといい、皆が暇をとった方が宜かろうとのことでその日私は其処に一泊し二四日の日アキエを連れて榮策方に行きましたが栄が不在だったので探させ、夜一二時頃榮が帰って来たので私達は其の晩其処に泊り翌二六日朝別れる事に話を決め翌二七日手続をして道具を引取ったのであります。」と述べている。

そうして、アキエや山並の右各供述は、別れ話をしたという日から比較的日も浅く(アキエの巡面は1・18、検面は1・24)、アキエは別れ話の一方当事者であり、離婚という自己の人生の重大な転機につき自分の兄や媒酌人と同道して榮策方へ行き二日泊りがけで話合いをしたという内容からみても最も関心を強く持たざるをえない事柄であるから、二三年一二月二五、二六、二七日と話合いをした旨の供述は極めて信用性が高いというべく、また山並にしても、アキエは妻の妹であり自分が媒酌をした夫婦の別れ話のことでもあるから、ほぼ同様のことがいえる。さらにアキエの供述は、家を出て実家へ帰った日からの経緯を順を追って供述しており、日時の正確さを裏付けているように思われる。そうして、右の点につきアキエや山並の供述を親族であるとか、供述証拠であるとかの一言で信用性がないと一蹴することは相当でない。けだし、事柄の内容からいって親族であり、当事者であるからこそむしろ正確に記憶されている可能性が強いものであるということ、しかも取調べ当時アキエや山並において離婚話をした日日が被告人のアリバイと関連を持っているなどとうてい認識していなかったであろうこと、さらに山並についていえば、すでに自己の妻の妹であるアキエとの離婚話がなされたということで供述当時被告人に良い感情を持っていなかったことが随所に窺われることからみて被告人をかばい立てすることも考えにくいからである。

また、正確な日時の点は別として二三年一二月末ころ、アキエ、山並、段村隼人が来て別れ話をし、同月二七日一応話が決まったことについては榮策、トメノも供述している。すなわち、榮策の24・1・27検面調書(第二項)によれば「昨年一二月二七日榮の嫁アキエが暇を取って人吉市の実家へ帰りましたが其の晩は榮は自宅に寝ました。」とあり、24・3・5原第一審証人調書には

問「これも不縁になったのか。」

答「そうであります。榮が怠者ですので愛想をつかされたのであります。昨年一二月の二、三日頃アキエは実家に飛出てその挙句同月二四日別れ話を持って来て二六日別れることに話が決まり翌二七日、その手続をすませたと思います。」

問「アキエといよいよ別れることになったその頃榮の様子は」

答「別れる前夫婦して出稼に行くとか、山仕事にでも登ろうかとの話はあったらしく、その間に離婚話もありましたが夫婦仲はよいからとの事で押えていましたが、昨年一二月下旬最後の別れ話のときアキエはひまをくれ、ひまをくれといい別れ話があるのに榮は部屋に寝たきりで起きても来ず、アキエは妊娠までしているから纒るようにしましたがとうとう別れ話がきまったのであります。」とあり、また

トメノの24・3・5原第一審証人調書には

問「それも不縁となりましたか。」

答「去年一二月二七日不縁となりました。」とあり

また、トメノの原第一審第八回証人調書中には

問「何時別れたのか。」

答「昭和二三年一二月末頃であったと思います。」

問「別れた日は記憶ないか。」

答「よく記憶しておりませぬ。」

問「どうして別れたのか。」

答「その頃私の兄山並政吉とアキエの兄段村隼人が来て別れ話をしてアキエを連れて帰りました。」

問「段村アキエは正式に帰る前一度実家に帰ったのではないか。」

答「左様であります。一度アキエは実家に行って来ますと云って出ましたが、そのまま帰って来ずその後一〇日位してから前申述べましたように二、三人で来て別れ話をして正式に帰ったのです。」と述べる。

右榮策及びトメノの各供述は、自己の長男である被告人と嫁との離婚話について、アキエをはじめ三名が榮策方に泊りがけで来た際の話に関するものであり、当時アリバイを意識しての供述とは考えられず、前記アキエ及び山並の各供述を裏付ける供述といえる。

なお、前記山並及び榮策の各証人調書によれば、アキエらが別れ話をしに榮策方へ来た日が二三年一二月二四日となっているが、アキエ、山並、榮策、トメノの各供述は、同月二七日に別れることに決ったこと、アキエらは被告人方に二泊して別れ話を決めて帰ったことでは一致しており、前記のようにアキエの供述が他の者の供述と比べて信用性が高いとみるべきところ、同女は同月二五日に行ったと終始一貫して供述し、山並自身も検察官には同月二五日と述べていて、同人の右証人調書でも「二五日」を「二四」と訂正されてはいるが、引き続いて「其の晩其処に泊り翌二六日朝別れる事に話を決め翌二七日手続をして道具を引き取ったのであります。」となっており、いずれも日付けは訂正されておらず、二五日だけが二四日と訂正されたことになるがその晩そこに泊り翌二六日朝というのと合わないことなどを合せ考えると、アキエらは二五日に榮策方に行って別れ話をし、二日泊って同月二七日に一応別れることに決ったと認められる。

以上によれば、被告人は二五日夜遅く免田町の家に帰って来て、同日及び翌二六、二七日と別れ話のため家にいたことになるから又市方訪問は不可能ということになり消去されるが、同月二七日の晩は、前記アキエ、山並の各供述からは明らかにならない(アキエの前記検面調書によれば、被告人は二七日私達が同家を辞するまで同家にいたとなっている。)

しかし、二七日の晩については、前記のように榮策の検面調書(第二項)によれば「昨年一二月二七日榮の嫁アキエが暇を取って人吉市の実家へ帰りましたが其の晩は榮は自宅に寝ました。」と明確に述べており、また榮策及びトメノの各証人調書によれば、離婚後の翌二八日被告人は山並方へ行くと云って出かけたとなっており、その反面として二七日には自宅に泊って、他所には行ってないことが窺われる。さらに二七日についても二回目と同様に同日に又市方を訪れたとする証拠は全く見当らない(もっとも、二五、六日の翌々日すなわち二七、八日に来たという又市の検面調書はあるが、これは後述するように信用できないし、第一回の訪問を云っているわけではない。)

そうだとすれば、一二月二五、二六、二七日とも俣口へ行って泊った可能性はないということになり、これらの日はいずれも消去される。よって残された日は同月二三日と三〇日になる。

右二五、二六、二七日に被告人が俣口に行っていないことについては、後述するように、米の配給日をめぐる消費者台帳及び家庭用食糧購入通帳、23・12・28免田町長作成の移動証明書の存在、中村友治作成名義の領収書という物的証拠による裏付けがあるほか右各証拠物に関連する又市等の供述からも証明されるところである。

なお、ここで溝辺ウキヱの供述について一言しておかなければならない。同人の24・1・24検面調書によれば、被告人が一二月二九日孔雀荘に支払いにきた飲み代等の掛けは、同月二四、五日ころ被告人が孔雀荘にきて同女らと一緒に忘年会というような意味で飲んで一泊した時にできたものである旨供述し、右供述のとおりだとすれば被告人は同日ころ孔雀荘に泊っていることになる(同人の24・1・16巡面調書も同旨)。しかし、この点に関し被告人は、原第一審第三回公判において、一二月一八日か一九日の飲み代の掛けである旨述べ、当再審公判では右飲み代の掛けは、たしかに溝辺ウキヱの内縁の夫山川と一緒に飲んだときのものであるが、その日がいつであったかはっきりした記憶はない。しかし、山川と一緒に飲んだそのときは泊っていないと供述する。両者の供述を対比するだけでは、はたしてどちらの記憶が正確であるのか他に何らかの裏付け証拠がないかぎりにわかに決しがたいものがあるけれども、溝辺ウキヱの前示24・1・16巡面調書によれば、被告人は一一月末ころから一二月二四、五日ころまでの間に五、六回孔雀荘を訪れ、そのうち三回ほど泊っていることになるようであるが、同供述調書を見るかぎり同人は宿帳等店の帳面等を見て供述しているふしも見当らないから、旅館業のような客の出入りのはげしい商売にあって、被告人がきた日とか泊った日をそれほど細かく正確に記憶しているとも考えにくいことであり、右溝辺ウキヱの供述をもとに被告人は一二月二五日孔雀荘に宿泊した事実を認定し、前記二五、六、七日と別れ話のため被告人は免田町の榮策方に泊ったとの信用性の高い証拠による事実認定に影響を及ぼすとするのは明らかに行き過ぎであろう(もっとも、溝辺ウキヱのいうように、仮りに一二月二四、五日ころ被告人が孔雀荘に泊ったということになれば、同日ころ又市方には泊っていないということになるだけのことであって、当裁判所の前記結論に何ら消長をきたすものではない。)。

(2) 又市及び榮策、トメノの供述との関係

なお、ここで一二月二五、六日ころはじめて被告人が又市方にやってきたとする又市の供述及び同日ころ被告人が免田町の実家を出たという榮策、トメノの供述について一言触れる必要があろう。けだし、右一二月二五、六日という日は、当初捜査官に相当程度信用されてしまったのではないかと窺われる日だからである。

又市の24・1・17巡面調書には、「昨年一二月二五、六日頃だったと思います。一勝地村字那良口の食糧配給所に米を取りに行って帰り途で休んで居る所に誰から私の所を聞いたものか後から免田榮が追付きまして……」と述べ

24・1・24検面調書によれば

「榮は昨年一二月二五、六日頃であったと思います。正確な日は記憶致しませぬが私が那良口の西という主食の配給所で配給を受けた日と思っております。」と供述し

免田トメノの24・1・17巡面調書(第五項)には

「昨年一二月二五、六日だったと思います。一勝地の方の山仕事に行くと申しまして丁度当日は主人が居りませんでしたので移動証明書を取って来たと云ってその日は何も品物と云って持って行きませず出て行ったのであります。」と供述し

また、榮策の同日付巡面調書(第二項)には

「二六日に一勝地の山仕事に行くと云って出て行ったのも……私が居りませんでしたので会っておりません。」と述べ

24・3・5原第一審証人調書では、「又市は榮が一二月二五、六日頃来て山の仕事をするから世話して呉れと云ってきた。」旨述べている。

しかるに、又市の24・3・4原第一審証人調書では裁判長から「去年一二月二五・六日頃榮が証人宅を訪ねて来なかったか。」との質問に対し「一二月三〇日に榮が山の仕事をさせて呉れというてきました。」と初めて二三年一二月三〇日に来たと述べ、24・8・25巡面調書(第二項)でも「当時確か一二月三〇日の午後四時頃配給取りに那良口に行き其の帰り途中松谷の先でトロ道の道中二ツ目の橋で山から材料を降す処で休憩しているところで免田榮が追付いて今自分は山に登る処だと申しました。」となっており、30・5・23三次証人調書でも一二月三〇日に来たことと米の配給を取りに行った日だから覚えている旨述べている。

しかしながら、二五、六日という又市、トメノの各供述及び二六日という榮策の供述並びに又市が二五、六日頃被告人がきたと云った旨の榮策の供述についてみると、又市、トメノは「二五、六日頃だったと思います。」(巡面調書)「正確な日は記憶ないが……」(又市の検面調書)と述べ、あるいは榮策は「自分はその日居なかった。」(巡面調書)と述べ、トメノからの伝聞または捜査官からトメノが一二月二五、六日頃と云っていると云われたことから出てきた供述ではないかと窺われ、榮策の原第一審証人調書は、又市の供述の伝聞ということでそれほど正確なものでないことは、それぞれの供述自体からも看取されること、そうして何よりも二三年一二月二五、二六、二七日は、アキエらと離婚話をしたという前記(1)の明らかに認定される事実と矛盾することから、すでに間違いであるといわざるをえない。また二五、六日訪問をいう又市の24・1・24検面調書の第八項には「最初私方に来た頃榮は既に妻と別れたと云う話をして居りました。」となっており、また同人の最初の調書である24・1・17巡面調書第六項にも同旨の記載があることに鑑みると、前記のように二五、六日というのは別れ話の真っ最中に当るのであるから、妻と別れたという話をするはずはなく、右供述からすれば、早くとも別れ話が一応決まった二七日以降でなければならず、又市の供述自体からも二五、六日が間違いであることが裏付けられているといえよう。突然山の中にやって来た青年が妻と別れた話をしたということは、特に印象に残り易い事柄であろうし、またわざわざ作為して供述することも考えにくいからである。

(三) 物的証拠の存在

(1) 米の配給を受けた日と消費者台帳(以下台帳という)及び家庭用主要食糧購入通帳(以下通帳という)の存在

本件においては、重要な証拠物である鉈が亡失されてしまったが、幸いなことにさきに少しく触れたとおり消費者台帳等貴重な物的証拠が少なからず残されており、三〇数年後における事実の認定に指針を与えてくれるといえよう。すなわち右台帳のほかに通帳、移動証明書に関する回答書、中村友治作成名義の領収証、佐伯榮一郎の職員手帳等がそれである。これら物的証拠の意義については逐次触れるが、ここでは、まず台帳及び通帳について論及する。

さて、本件で少なからず存在する又市の供述証拠を通じ一貫しているのは、被告人と最初に会った日が、西配給所から米の「配給を受け取った日」という供述である。又市の供述は、なるほど日時の点は必ずしも一貫しておらず二五、六日と云ったり三〇日と云ったりしている。しかし、だからといって又市の供述は信用できないのだとするのは、はなはだ皮相な見方というべきである。

一体人は、半月ほど前の出来事について、特段の事情がないかぎりその日が何日であったかただちに正確に供述できるであろうか。日時の記憶というものが意外にあいまいであること経験上明らかであり、したがって日時の特定を人の記憶のみに頼ることは危険といわねばならず、むしろ他に何らかの印象的な出来事と結びついて記憶されている場合、それを追及していくことによって逆に月日を特定することが可能であれば、その方がはるかに客観的で正確というべきであろう。又市の場合、そのような印象的な出来事が米の配給を取りに行った日に他ならないのである。初めて被告人が俣口を訪ねて来たのは、自分が配給所から米を受取り、これを持って山道を歩いて帰る途中であったということは、正確な日時の記憶とは異りはるかに単純、明快な記憶に残り易い出来事といえること多言を要しない。

それでは、又市が西食糧配給所から米の配給を受けた日はいつであるかを確定しなければならない。この点に関し幸にして、前記のように証拠物ともいうべき台帳及び通帳が原第一審及び当審において領置され現存する。これら台帳及び通帳には、又市方が二三年の一二月下旬ころのうち西配給所から米の配給を受けた日は一二月三〇日及び同月二三日と記載されており、右記載の正確なことは原第一審の西新太郎の証言及びこれらが日常の業務過程において機械的に配給日等を記載した証拠物たる書面であるということに鑑み優に肯定しうる。

さらに又市のいう「配給を受けた日」ひいては一二月三〇日というのが正しい記憶といえるもうひとつの根拠を示すと、同人は当初被告人が第一回目に俣口へ来たのが二五、六日ころであると云いながらしかもその日は配給を受けた日と供述しているのであるが、右事実は同人が配給を受けた日がいつであったか正確に憶えていなかったことを意味する。そうして、二四年三月四日原第一審の証人尋問で初めて三〇日と証言したが、そのときも三〇日であることを台帳や通帳を見て確認していないふしが窺われるのである。すなわち右証人尋問の際「配給を受けた日だから通帳を見れば何日かわかると思います。」と述べていること及び西新太郎の原第一審公判における証言に又市が通帳の日付を確認に来たという供述がないことからそれが窺われる。換言すれば又市は、配給を受けた日が三〇日であることを通帳等で確認したうえで証言したのではなく、三〇日を記憶をたどって思い出し(兼田つた子の供述調書参照)、後で取寄せた台帳等物的証拠によってその日が正しいと確認されたといういきさつがあるということである。この点について少し詳しくみてみると、原第一審第三回及び第四回公判調書、熊本地方裁判所八代支部裁判長裁判官作成の24・5・6嘱託書、球磨郡一勝地村長作成の24・5・13「兼田又市に対する昭和二三年度の主要食品の配給通帳に関する書類」と題する書面、前記通帳一通(原第一審証第一一号、昭和五六年押第一七号の6)、同じく台帳二葉によれば、原第一審第三回公判(24・4・14)の被告人質問終了後、弁護人は、被告人が「一二月三〇日は又市方に宿泊している、それは同人方が主食の配給を受けた日であって又市の証言と相俟ってその事実を立証するため」配給所主任西新太郎、中村某を証人として取調べることを請求するとともに、球磨郡一勝地村役場から又市に対する昭和二三年度主食品の配給通帳及び西新太郎の手許にある又市に対する同年度の配給台帳で同年一二月三〇日配給の記載のあるものの各取寄を請求し、裁判所は右各証人の取調べ及び各書類の取寄をする旨決定して、右配給通帳については裁判所が球磨郡一勝地村長に対する24・5・6嘱託書によりその送付を嘱託し、24・5・13同村長作成の「兼田又市に対する昭和二三年度の主要食品の配給通帳に関する書類」と題する書面とともに送付され、原第一審第四回公判(24・5・19)で証拠調のうえ領置され、また台帳については、右第四回公判の際西新太郎が持参し、同公判の証人尋問終了後、弁護人が「一二月三〇日に兼田又市に主食の配給があったことを立証しようとするもので又市の証言と相俟って一二月三〇日榮が又市方に行ったことを立証するものである。」として取調べの請求をなし、取調べがなされたものである。又市が三〇日を記憶をたどって思い出し、後で右のように取寄せられた物的証拠によってその日が正しいと確認されたことは、三〇日が正しいことの裏付けとして再び後述するが、「被告人が訪れた日」=「配給を受けた日」が正当なることの根拠になることはいうまでもない。

後述するように検察官は、第一回目に被告人が俣口を訪れたのは二三年一二月二三日であるとするのであるが、被告人の自白は一月四日となっており、したがって検察官の見解は被告人の自白を信用していないことになる。このような重大な点で自白の矛盾点を認めざるをえなかったほど又市の「配給を受けた日」という証言及び通帳、台帳の記載は信用性の高い証拠というべきであろう。

(2) 移動証明書の存在

さらに一二月二八日以前には又市方へ行っていないことの有力な物証ともいうべき移動証明書がある。これの存在について、検察官はもとより弁護人すら何故か全く論及していない。しかし当裁判所は、右は本件アリバイの成否に関し文子や半仁田の供述などよりもはるかに証拠価値の高い、決して無視しえない有力な物的証拠と解する。

31・8・3免田町長井田末喜作成の回答書により「免田榮請求により昭和二三年一二月二八日発行、転出先八代市、住所免田町黒田乙一四八三番地、世帯主父免田榮策」なる移動証明書が存在することが明らかとなった。右移動証明書の存在は原第一審、原控訴審とも問題にされておらず、第三次再審請求の段階で初めて取り上げられたもののようである。しかし右移動証明書は、第三次再審請求段階において唐突に出てきたものではなく、前記のようにトメノは警察官に最初に調べられた日である二四年一月一七日すでに黒木助三郎巡査に対し「榮は一勝地の方の山仕事に行くといって、移動証明書も取ってきたといって、その日何も品物といって持って行きませず、出て行ったのであります。」と供述しているのである。トメノの右供述が正しいとすれば、第一回目に被告人が俣口を訪れた日が公文書に残されているはずであるとの洞察から、第三次再審で照会がなされ回答が得られたものと思料されるが、右移動証明書は公文書であり作為の余地は考えにくいものであるから重大な意味を有する物的証拠というべきである。

そうして、トメノの右供述部分も二四年一月一七日という問題の日に比較的近接した日になされていること、警察官が被告人方の身上や財産関係を聞いているなかで何気なく述べられていること、しかるに、移動証明書という物的証拠の存在が後になって確認された、すなわち供述の信用性が物的証拠によって裏付けられたという意味において、同時に同調書で供述している「一二月二五、六日」という日時は間違いであることが確認されたとしても、同調書は全体的には信用性の高い供述調書であるということができよう。

もっとも、被告人が免田町の実家を出たのは二九日であるから、二八日という日は一日ずれていることになる。しかし移動証明書を取った日が二八日であることは動かないとしても「移動証明書を取った日」に一勝地へ行くといって出かけたというのか、一勝地に出かけるといった日に「移動証明書も取ってきた」といったのか、右トメノの供述部分からは必ずしも明確でない。そうしてさらに被告人は二八日にも実際山並方等へ行くため家を出ている。これらについてトメノが勘違いをして述べた可能性もある。しかしいずれにしても被告人が一勝地の山仕事に行くと云って家を出るときには、一二月二八日付の移動証明書をすでに取っていたということは、右の供述から明らかというべきであろう。また移動証明書を取った日時につき、被告人は例えば30・3・16、同・5・24、31・7・23各上申書等で二四年一月九日に取ったような趣旨の供述をしているが、当公判廷で被告人にこの点を確認すべく質問したところ、被告人は右上申書で述べているところは書類を見ていない段階でのことで自分の勘違いである旨供述しており、同証明書発行の日付が一二月二八日となっている以上、上申書の記載は被告人の思い違いに他ならず、二三年一二月二八日に移動証明書を取ったと認定すべきである。

(四) 結論

以上のように移動証明書の発行日付とトメノの24・1・17巡面調書の記載部分、そうして二三年一二月二五、二六、二七日は別れ話をした事実、配給日の記載が台帳や通帳に一二月三〇日となっている事実、被告人が最初又市方へ行ったとき妻と別れた旨云っていた事実(前記又市の検面調書及び初回の巡面調書)から考えると、一二月二八日以前には被告人は又市方へ行っていないということがすでに明らかになったといってよい。そうすると二三日は消去され、残るのは必然的に同月三〇日のみとなり、被告人が最初に又市方を訪れたのは、二三年一二月三〇日ということが確定される。

そうだとすれば、前記のように二九日か三〇日丸駒に登楼し宿泊した事実も証拠上動かしがたい事実であるから、これまた論理必然的に丸駒に宿泊した日は二九日以外にありえないことになり、アリバイが確定的に成立することになる。

又市方泊三〇日にも証拠上若干疑問があるからおかしいということは、本件では許されない。それはすでにみたように三〇日であることを認めるに足りる十分な証拠が存在することもさることながら、前記したとおり一二月中に一度行っていることは間違いないという重要な事実を忘れた論になるからである。この前提を忘れて全部を否定してしまったのが四次再審棄却決定であるように思われる。そうして、本件において三〇日説に若干疑問を投げかける証拠としては、前記又市らの二五、六日供述、被告人の自白調書、石村文子、陣内ハナエ及び半仁田の供述ぐらいのものであろう。これらはすべて客観的裏付けを欠く供述証拠である。二五、六日が間違いであることはすでに述べた。そのほかの証拠についてもこれらが信用できないこと後に詳しく触れるとおりである。

このようにみてくると、はじめに引用した原第一審第三回公判における被告人のアリバイ主張が完全に裏付けられたといってよい。

5 検察官の論告について

当裁判所は前項で述べたように信用性が高いと思料される物的証拠並びにこれらによって裏付けされた各供述証拠によって、被告人の供述を俟つまでもなく、被告人にアリバイが確定的に成立するとの結論に達したのであるが、検察官は又市の一二月三〇日という供述が信用できないこと、第一回又市方訪問は一二月二三日である旨主張している(論告二四二頁参照)ので、その点についてなお判断を示す。

(一) 又市の供述について

検察官は、被告人が一二月三〇日又市方を訪れた旨の又市の証言が信用できないとしてつぎのようにいう。

又市は被告人らの主張を知る前の捜査段階においては被告人が最初に俣口の又市方を訪れた日について二三年一二月二五、六日ころと供述しており、同人の右捜査時の各供述はいずれも被告人が最初に俣口の又市方を訪れてからわずか一か月足らずの記憶が鮮かな時期になされたものであり、しかも又市としては被告人らの事件に関する供述等も知らない時期で、これらに影響を受けない状況の下における供述であることを考え合わせると、極めて信用性が高いものというべきである。一二月三〇日という日は、年の押し迫った大晦日の前日であり、人の記憶に残り易いところからしても、もし被告人訪問の日が「一二月三〇日」であったのが真実ならば、又市は警察で取調べを受けた当初から明確に「一二月三〇日である」と供述していたはずであって、その点からしても又市の「一二月二五、六日ころ」という供述は十分に信用できるとし、さらに当日の天候と一二月二三日にも米の配給を受けていることからむしろ一二月二五、六日に近接した一二月二三日と認定すべきという。

これらの主張はすでに論述したところで完全に崩れてしまっているといえるのであるが、さらに別の観点からみても、なるほど又市の捜査官に対する供述調書には検察官のいうように供述されていることすでに検討したところから明らかである。しかし、同人の検面調書にある「正確な日は記憶しませんが」とか「二五、六日と思う」という表現に文字通りあらわれているように、二五、六日というのは正確な日時でないことをわざわざ断っているのであり、弁護人の指摘するとおり、これらの調書は被告人が来た日が「配給を取りに行った日」であるというところに力点を置いた調書であることその記載内容から明らかで、逆に「正確な月日」であることに力点を置いてないとみるべきものである。検察官は二五、六日が正しいことの根拠として、要するに供述された日が経験した日からわずか一か月足らずのことであること、被告人の供述に影響を受けていない時期の供述であること、三〇日は人の記憶に残り易い日のはずであることなどをいうのであるが、又市が正確な日時の記憶に関して決して記憶力がよい方でないことは後述のとおりであり、また二五、六日も三〇日も年末であるし、一か月前の出来事が何日のことであったか一般に正確に証言できないこと、経験上少くないことにかわりはなく、それほど人間の日時に関する記憶は頼りないものがあること、そうして第一回目の訪問では被告人がわずか一晩泊っただけで翌日山を下りていること、二回目の一月四日以降に比較的長期間滞在していることから混乱を生じ、第一回目の訪問が何日であるか直ちに浮んでこなかったのではないかと考える余地もあること、また被告人らの供述の影響というが、又市の「三〇日証言」は二四年三月五日のことであり、被告人が犯行を否認し、アリバイを明確に主張して、三〇日は又市方へ行ったとの主張をしたのは原第一審第三回公判の二四年四月一四日のことである。その前に「自分は二九日登楼した」と云ってはいるが、それも同第二回公判の三月二四日のことである。一体被告人の供述の影響とは何をいうのであろうか。同日の又市証言の際には本田義男弁護人も被告人が本件の犯人と思っていたふしがあり(同人の民事証人尋問調書では、原第一審第三回公判で全く意外な方向に被告人の供述が展開したといっている。)、ためにこのような重要な証人を尋問するに際しても被告人の立会がなされないままなされている事実は記録上明らかである。したがってさらにいえば、又市の各供述は二四年三月四日の証言も含め、はたして被告人のアリバイのことを意識してなされているかどうかさえ疑問なしとしない。なるほど、今現在における関係者の認識では三〇日又市方泊であれば二九日丸駒泊が確定しアリバイが成立するということが十分意識されているであろうが、当時又市がそこまでの認識を有していたかどうか、まして検察官のいうように又市が被告人らの云うことの影響を受けたなどという証拠は全く存在しない。被告人のアリバイ主張の方が右又市証言がなされたときよりも時期的に相当あとであることは明白である以上被告人らのアリバイ主張の影響というのは誠に理解しがたいことである。

そうして、さらに検察官の主張には主張自体にひとつの矛盾がある。つまり、二五、六日という供述が極めて信用性の高い供述であるとしながら、結局は「二三日」が正しいとする点である。二五、六日が正確な記憶でないからこそ、配給日である「二三日」説に左袒せざるをえなかったのではないかと思われるからである。

つぎに又市の証言中「当時は毎日雨続きで当日も雷雨で仕事ができなかった」という点について触れると、同人の24・1・17巡面調書には「其の当時は毎日雨続きで仕事もできず」となっていて、また、24・3・4原第一審証人調書によれば「その日雷雨で仕事がなされず休んでいました。」となっている。

当時の気象状況は、人吉測候所の測候(人吉測第七二号57・4・5別紙)によると、二三年一二月二〇日以降同月三一日までの間、同月二九日を除いては毎日雨が降っている状況が認められる。冬期間にこのように連日雨が降れば乾きが悪いため足場がぬれ、特に山間部では足場が悪いことが推測され、その間に一日くらい天気の日があっても「雨続きで仕事もできない状況である」といえるのであって、二三年一二月三〇日は昼(六時から一八時)曇、夜(一八時から翌六時)曇時時雨であり、確かに同月二三日昼雨、夜雨のち曇(降水時間二一時間二〇分)ではあるが、同日のみが右気象状況に合致するものとはいえない。

「その日雷雨で仕事がされず休んでいました」という点であるが、右測候記録によると二三年一二月二三日も同月三〇日とも雷雨とは記録されていない。雷雨が記録されているのは同月二四日と同月三一日である。したがって、雷雨という点は、あるいは又市の何か勘違いではないかという可能性がないではないが(翌日の雷雨を取り違えるなど。)、いずれにしてもそれほど決定的なことがらとも思われず(雷雨なる表現は24・3・4原第一審証人調書にのみ出ている。)また、雷雨というのは長時間続かず局地的なことも多く、俣口は人吉市に比較し、山間部に位置するから山間部の気象が変化し易いのではないかという疑問もないではない。したがって、又市がたまたま述べている「雷雨」の一字をもって他の物的証拠が多数存在し裏付けられている二三年一二月三〇日を否定するのはいささか乱暴のそしりをまぬかれず、決定的なものとは到底なしがたい。

また、弁護人が指摘するむしろ二三年一二月二三日より同月三〇日の方が被告人が来たときの気象状況に合致するという点も看過できない。

(二) 二三日説

さきに触れたように検察官は、被告人が俣口の又市方に行った最初の日は、被告人が自供調書で述べている年が明けた二四年一月四日ではなく、年内(二三年)の一二月であることを認め、しかもそれは又市が配給を受けた日であることまでも認めながら、その日は一二月三〇日ではなく一二月二三日であるという(論告二四二頁)。被告人の24・1・17員面調書では、二四年一月四日最初に又市方を訪れたようになっているのであるから、検察官は当再審公判においておそらく証拠を検討しなおした結果右自供調書の誤りを認め、それまでの認識を改めたと思われるところである。この事実は、後に半仁田証言の信用性の個所で触れるところの、被告人が犯行後免田町の実家に立寄り、同所で着衣等を着替えたりしたとする点と並んで再審公判での検察官の新たなる主張として注目しなければならないところであり、検察官としても本件全証拠を検討した結果被告人は、二三年一二月末日に一度俣口の又市方を訪れている事実はこれを認めざるをえなかったことを物語っている。そうして、最初の俣口訪問は年内の一二月であり、その日が又市が配給を受けた日であるとするところまでは正しい認識であるが、その日が一二月三〇日ではなく、もう一つの配給日である一二月二三日であるというのは明らかに間違いであるといわねばならない。

すでに認定したように被告人は、一勝地の山に行くべく一二月二八日に移動証明書を取っているのであるから、同日以前には又市方に行くということは右のような動かしいがたい物的証拠との関係で考えにくいことであるし、右の事実は、一二月二七日、被告人が妻と別居せざるをえなくなったので一層のこと山仕事でもしようという気持になって家を出たという事実(被告人の原第一審供述、当再審公判供述、24・1・17員面調書)とも合致するところ、一二月二二日や二三日というのは妻のアキエが家出して別れ話も今後どうなるかわからない段階であり、被告人もアキエも何とか元通りになりたい希望を持っていたような状況(被告人とアキエの各供述)だったのであるから、そのような最中に山の仕事に行くことは、前記認定のところと矛盾してしまうのではないか。

二三年一二月二五、二六、二七日と二泊がかりでその後別れ話が決まっており、第一回目に行ったとき、被告人は又市に妻とは別れたという話をしていたというのである(前記又市の検面調書八項及び24・1・17巡面調書六項)。どうみても一二月二三日ではありえないのではないか。

検察官は、これらの事実を一体どのように考えているのであろうか。論告では全く触れられていない。証拠上はどのようにしても二三日ではありえないと思われる。

また検察官が二三日説の根拠の一つとする当時の気象状況について、これが二三日説の根拠になりえないこと前項(一)又市の供述についての個所で触れたとおりである。

三  アリバイの積極認定

さて、当裁判所は以上のように、被告人が又市方へ最初に行った日が二三年一二月三〇日であることを同日以外にありえないという消去法で認定したのであり、その方法が最も確実でかつそれで十分なのであるが、すでにこれまでのところでも明らかなように本件では一二月三〇日であるという事実を積極的に認定するに足りる証拠が、しかも信用性の高い物的証拠が、三三年前の事件にしては少なからず存在することを特にあらためて指摘しておくのが相当であろう。

なぜなら、はじめに述べたように本件ではアリバイの成否が最大にして唯一の争点といっても過言ではなく、被告人が二三年一二月三〇日俣口の又市方を訪れているとすれば、アリバイが決定的になるがゆえに、念を入れ、重複をいとわず、すでに摘示した物的証拠をいわば積極証拠としての観点から再度検討を加える意味があると考えるからである。そうして、これらの証拠を検討すると当然のこととはいえ、存在する物的証拠はことごとく三〇日又市方泊の事実を裏付けるのに対し、これに反するかのような証拠はすべて供述証拠であり、物的証拠は全く存在しないということが本件ではきわだっていることがわかる。

第一は前記消費者台帳及び家庭用主要食糧購入通帳である。これらの配給日に関する記載が高い証拠価値を有することはすでに述べた。

そうして、この二つの物的証拠が又市証言の信用性を裏付けるものとして、換言すれば、これら物的証拠によって、供述証拠ではあるがアリバイ成否の直接証拠として重要な意味をもつ又市証言の信用性が担保され、この両者が相俣って三〇日俣口泊を証明する有力な積極証拠になることを以下に説明すると、又市がそれまで捜査官に被告人は一二月二五、六日に来たと供述していたことをくつがえして、同月三〇日に来たことを最初に証言したのは、すでに述べたように24・3・4原第一審証人尋問期日においてであった。それまで一二月二五、六日ころといっていたのを同月三〇日と訂正した理由は右証人調書には全く出ていないので、さだかではないが、同人の妻兼田ツタ子(24・7・9巡面調書、但し刑事訴訟法三二八条書面)によれば、証言に立つ前に被告人が最初に来た日はいつであるかについてツタ子と又市が確かめ合った結果日時を訂正し証言したことが窺われ、そのような事実は、一般には証言の証明力を減殺せしめる情況といわれるおそれがあることは否定できないが、しかし、日時というものについての記憶は人によってかなりまちまちでありうることはすでに述べたとおりであり、前示のように又市自身二五、六日という日に自信がなかったことが窺われるところ、ツタ子に三〇日であったといわれ、いろいろ回想してなるほど暮の三〇日だったとの記憶がよみがえったとみれば不自然なことではなく、まして検察官がいうようにアリバイ立証のための作為的証言などというのは特に証言の時期を考えると相当でないことすでに触れたところである。

そうして、何よりも右又市の三〇日証言が信用できるものであることの根拠は、前にも触れたとおり検察官の「榮が証人方に来た日は証人が主食の配給を受けた日と違うか。」との質問に対し「食糧の配給通帳は那良口の配給所に預けてあります。榮が来た日米の配給を受けたので米の配給通帳を見るとその日がはっきりします。」と答えており、その後配給通帳と台帳を取寄せて証拠調べをした結果一二月末ごろの配給日が同月二三日と同月三〇日であることが明らかになったといういきさつがあるということである。すなわち、正確な日時について人の記憶というものはそれほどあてにならないということを踏まえたうえで、これは明確に記憶に残っている米の配給を受けた日ということに基づき、配給通帳を見ればその日が「はっきりする」と証言し、実際取寄せてみたら一二月三〇日証言が客観的証拠によって裏付けられたという関係にある。又市の証言が仮りにあらかじめ通帳や台帳を確認して三〇日であると証言したのだとすれば、又市の証言にそれほど信を措くのは危険がないわけではないが、本件では通帳や台帳をあらかじめ確認したような形跡は全く窺われないのである。ある証言がのちに調べた客観的証拠によって裏付けられるという関係にあるとき、それは自白における秘密の暴露と同様、極めて信用性が高いというべきである。

右に見たように通帳及び台帳は、又市及び西新太郎の各供述と相俟って極めて証拠価値の高い物的証拠であり、検察官をして、被告人が又市方を最初に訪れた日は配給日(二三日)であることを認めさせるほどのものであったというべきである。

本件ではさらに、前記免田町長作成の移動証明書に関する回答書が存在する。右は公文書であり、被告人が二三年一二月二八日に免田町役場で移動証明書を取ったという事実に関しては特に信用性が高い証拠として刑事訴訟法三二三条の書面として証拠能力を取得するものである。これが信用性の高い前記トメノの24・1・17巡面調書と被告人の当公判廷や原第一審第三回公判供述と相俟って一二月二八日以降に初めて俣口へ出かけた事実、逆に一二月二八日以前には俣口へ行っていないという事実を間接的に推認せしめる有力な証拠とみるべきであるということはすでに述べたところである。

つぎに、中村友治作成名義の領収証がある。中村友治は、当時又市方に同居していて、被告人が来た翌日に島田保方へ賃金を貰いに行ったと証言する者であるが(原第一審の同人の証人調書)、右領収証は

領収証

一金 一千八百円也

但集材代金

右金額正ニ領収候也

昭和二三年一二月三一日

中村友治

となっている。これは島田保の24・8・15巡面調書によれば、中村友治作成名義であるが島田保が書いて中村が自分の印鑑だけを押したもののようであり、それは右島田の供述調書にその旨の記載があること、さらに同調書で「中村が私宅に金を受取りに来ました時の領収証は熊本市新屋敷町三八〇番地上野景介宅に有りますので近日中に御署迄御届け致します。」と述べられているところ、同領収証が捜査記録中たまたま右島田保の供述調書のすぐあとに綴じられていること(記録上明白)、同島田調書の題名の上部に押捺されている「松岡」なる丸印(警察官のものと思われる)と同じ印が領収証にも押捺されていることから考えて間違いないと認定してよく、島田が領収証として所持していたものと思われる。

しかるに右島田保の調書では、中村に金を払った日が一二月二七、八日ごろとなっている。そして、当の中村友治は自分は金の支払を受けていないと原第一審公判で証言し、したがって本当に右一二月三一日に島田保から中村友治に金が支払われたかどうかにわかに断定しがたいものがあるといわなければならないが、中村友治は金の支払を求めに島田方に一二月三一日行ったと証言しているところ、現実に金の支払を受けたか否かはさておき、少なくともその日が中村のいうとおり「三一日」ではなかろうかという事実を裏付ける意味を持つと評価すべきではないかと解される。けだし、島田保は二七、八日と述べているけれども日時については人の記憶よりも領収証やメモ類等に残された記録の方がはるかに信用に価する場合が多いこと経験上明らかといえるし、自ら二七、八日といっている島田がわざわざ領収証に一二月三一日と工作して書くはずがないから、真相は、島田は確信持てないまま警察官に一二月二七、八日と述べたけれども、後で上野景介宅に置いていた領収書を取ってみたら一二月三一日なる記載があったということとみるのが合理的であろう。

検察官は、中村友治が金を受取っていないと証言する(被告人もそのように聞いたと45・2・19民事本人調書で供述する。)ことから右領収証は何ら証拠価値がない旨主張するけれども、貴重な証拠物をそのような供述証拠で一蹴するのは相当でなく、一体なぜほかならぬ島田保が提出した領収証に一二月三一日なる日付が記載されているのかということを考えた場合、金の支払の有無とは一応切り離しても、同日に中村友治が金の支払を求めに島田方に来たのではないかということを推認せしめる単なる人の記憶に頼る供述証拠以上の記録すなわち証拠物としての証拠価値を認めるのが相当ではなかろうか。そうして、中村友治の証言それ自体も、その経過なり被告人と会った状況、三一日に又市方を早朝出たことなどを細かく供述し、具体的で信を措くに足りるものを備えているところ、右の領収証の存在を加味すれば一層証明力を増すように思われる。

なお付言するに、検察官は論告(二二七、二二八頁)において、「右領収証に記載された金額は一八〇〇円であるところ、島田保及び江川巧の供述する金額は一七二七円六二銭であって一致しない上、中村は、被告人が又市方へ来た翌日ごろ山を下りた際には木材伐採代金をもらえなかったというのであるから、右領収証の信用性は極めて疑わしい。」旨いうが、江川巧の24・12・15原第一審証人調書によれば、検察官のいう一七二七円六二銭というのは、一二月二五日前後ころかに、中村がはじめに江川から貰った分であることが明らかであって(一日単価を三〇〇円とし、中村については二二日分であるから六六〇〇円となり、そのうち渕田の立替分四八七二円三八銭を差引いたというのであるから一七二七円六二銭となる。)、右領収証で問題となっている金員は、その日に渡されなかった不足分であることも、同証人が「私が渡す際、中村が三日分、益田が四日分不足するとのことであったので、それについては直接島田保に交渉するように云っておいた。」と証言するところから明白といわなければならない。したがって検察官は本件領収証の金額について、中村が江川からはじめに貰った分と取り違えていることになる。右領収証の金額は当日渡されなかった不足分であるから、右江川の証言によると中村が三日分、益田が四日分ということになり、一日の単価を三〇〇円とすれば、計金二一〇〇円で右領収証の金額一八〇〇円と三〇〇円(一日分)の差が生ずることになるけれども、一日分の差はあるいは島田との交渉の結果値切られた可能性(このようにこじれた賃金問題には往々にしてありうることであろう。)も否定できず、少なくとも領収証の金額について検察官のいうような疑問はないことになろう。

また、同時に検察官は、中村が島田方へ行ったが金を貰えなかったと証言する点を領収証の信用性を減殺する根拠として強調するのであるが、中村が島田から真実金を受取らなかったとする点は疑問なしとしない。すなわち右は島田の供述に反するのみならず、中村は24・6・23原第一審証人尋問において、当初弁護人の質問に対し島田は不在であった旨供述しながら、裁判官の質問には金がなかったので貰えなかった旨供述を変更するなどこの点につきあいまいともいえる証言をしているのであるが、右事実は右領収証の金額をも併せ考えると、真実は益田の分も合わせて貰っていながら自分が全額費消してしまったため、島田から金を受取ったとは云えなかったのではないかという疑いさえ抱かせるものといえよう。

以上みたように、本件記録に残された古色蒼然たる貴重な数点の右物的証拠、すなわち配給通帳、台帳、移動証明書、領収書の各存在は、すべて被告人が二三年一二月三〇日に又市方を訪れた事実に副うものであり、同事実を述べる被告人の前記第一審第三回公判におけるアリバイ主張及び又市証言等の各供述証拠が信用できるものであることを裏付ける意味を有することが明らかである。また後述する佐伯榮一郎の職員手帳の記載も同様である。これに対し三〇日又市泊の事実に反する証拠に物的証拠は全くない。真実の重みを感じざるをえない。三〇日泊の事実に反する被告人の自白をはじめ、後述の文子、陣内ハナエ、半仁田などすべて供述証拠であり、これらが客観的証拠による裏付けのない、極めて信用性に乏しいものであること後に詳論するが、自白やこれら供述証拠を頭から信用し、被告人が一二月三〇日に又市方に泊ったという事実に適合する前示各証拠をことごとく疑ってかかるならともかく、虚心坦懐に証拠を見直すならば、一二月三〇日又市方泊の事実を否定することは、証拠上いささか強引のそしりをまぬがれず、その結果検察官の論告に見られるように、辻つまを合わせるため、重要な点につき証拠に基づかない憶測を重ねる結果に陥ってしまうように思われる。

四  又市の供述の信用性

又市の供述、特にその証言の信用性については、これまでに何度か触れたのであるが、同人の供述は、一二月二九日か三〇日に丸駒に宿泊していることが動かしがたい本件では、いうまでもなく被告人のアリバイに関する直接証拠に他ならない。

被告人の原第一審第三回公判におけるアリバイ主張と又市の各供述及びすでに掲げた物的証拠を十分検討するならば、被告人が一二月三〇日俣口の又市方に泊った事実は動かないはずである。本件における同人の証言をはじめ捜査官に対する各供述調書の持つ意味は重い。したがってここでは同人の供述の信用性を再び別の側面から検討してみることにする。

まず、又市の供述(証言及び捜査官に対する各供述を含む)は、被告人が同人方を訪れた日についていろいろ述べており(一二月二五、六日、同月三〇日さらには一月二、三日)、これらを漫然と並べて「そのいずれであっても曖昧で記憶の根拠もはっきりしない」から、同人の供述は信用できないとの批判がありうる(四次再審決定参照)。そこでさらに、この批判をも念頭において又市の供述の信用性をみてみる。

1 又市の供述

又市の24・1・17巡面調書は前示のほか「(最初来たとき)オーバーを担保に相村(有村)から七百円借りてやった。」

「翌日山を下った、鉈やよきを買ってくるものと思っていた。」

「一月二日に山を下って一月五日に山に上る、そのとき免田がくる。」

「私の留守中に免田が来て二、三晩泊っていたと妻から聞いた。」

「その晩泊り翌朝ズボンを抵当に毎床キワノから八百円借りてやった。」

「その金を持って山を下った。」

「免田は二回目に来たとき地下足袋が破れているのを見て地下足袋をくれた。」

旨の供述があり、24・1・24検面調書は

「最初私方に来た晩オーバーを抵当にして相川から七百円借りてやった。」

「荷物は黒い紙に包んだ物一個。」

「一泊して山を下った。鋸や斧等を買いに行ったものと思ったところ、下った翌朝手ぶらで帰って来たので鋸や斧は買って来なかったのかといったところ山田郷で飲んでしまったといっていた。そしてその晩も一泊して翌朝山を下りた。」(この供述により第四次再審決定では二七、八日ごろも来ていることになっているところ。)

「俣口の山を下りる前、月日が判然致しませんが正月後二晩だけ続けて俣口の家を明けた事がある。そして帰って見たところ妻から私不在中二泊榮が来て泊った上、今朝帰ったという話を聞いた、然るにその晩榮は引返して来て又私方は一泊した。そしてその翌朝ズボンを抵当に毎床キワノから八百円借りた。」

「榮から地下足袋をもらった日時ははっきり憶えませんがどうも一二月初めて私方に来た時ではなかったかと思います。」旨述べ、また24・3・4原第一審証人調書では「大百姓なのに山の仕事をさせるのかどうか、榮が無断家出をしたのではないだろうかと思ったので一月二日ころ榮策にききに行った。二泊して四日の日家に帰ったら家内が榮が二晩泊って下に下ったといった。その日暮時又やって来て一晩泊って山を下りた。」

「三〇日オーバーを持って、米を少しと地下足袋、古襦袢等はいった包を持っていた。」

「榮が三晩泊った朝ズボンを担保に毎床キワノから八百円かりてやった。」

「榮がさきに借りて貰った金は人吉市の山田郷で飲んでしまったから、今度はズボンで千円借りてくれといった。」

「一一月三〇日一番最初に来た日地下足袋を貰った。」旨述べる。

24・8・25巡面調書は、24・3・4証言後わざわざ益田刑事が取調べたものであるが、ほぼ証言と同旨の供述がなされている。すなわち

「当時同じ家の隣りの室に中村友治もいた。」

「一二月三〇日夕食後午後八時ころオーバーを担保に有村長之助から七百円借りてやる。」

「三一日午前七時か八時ころ朝食を食べて山を下りる。」

「正月明けて三、四日ころ榮策方へ榮はどうして山仕事に来るのかと尋ねに行った。榮策は榮は嫁に暇をやりだまって行った旨いっていた。榮策方に一晩と私方に一晩泊った。その間に榮は山に登った。その翌朝ズボンを担保に毎床キワノから七百円借りてやる。」

「榮が一月の三、四日ころ山に来たとき道具は何故持ってこんかといったところ、本人は山田郷で飲んでしまったといった。」旨証言する。

30・5・23三次証人調書はすでに本件当時から六年余り経過しているためか、全体的にやや記憶が薄れているようであるが、ほぼ二四年三月四日の証言等と同旨の証言をしているが、注目すべき点として「人吉に出かけるとき会った場所と最初会った場所はちがう」と述べ場所を具体的に云っているところで、被告人の再審公判の供述と一致するところである。同証言は被告人、弁護人、検察官とも立会していない調書であるから、被告人がその後再審公判で供述するについて供述を合わせるなどの作為が可能とは考えにくいので、被告人と又市とが又市が山を降りる一月一〇日に会う以前にもう一回会っている事実があることを裏付ける供述とみてよい。

2 又市の供述内容の検討

又市の以上の供述を総覧すれば、同人が日時の記憶には決して強い方ではなく、むしろ弱い方であることが窺われること、したがってその点に目を奪われてしまうと又市の証言が全部曖昧であるかのように受取られてしまうおそれがあるということがいえる。被告人の来た日について「二五、六」といったり、「二七、八」にも来ていることになったり(前記検面調書)、証言では三〇日になり、そうして、その翌々日とすれば一月一、二日にも来たことになってしまうなど混乱しているといっても過信でない。

しかし、これらの日をただ漫然と並べて、そのいずれであっても曖昧で記憶の根拠がはっきりせずとし、結果又市の供述は全部信用できないとすることの不当なことはすでに述べた。

日時の点で最もおかしいのは検面調書である。すなわち、「二五、六日に来て一泊して山を下り、下った翌朝手ぶらで帰ってきた」というのであるが、そうだとすれば、被告人が一二月の二七、八日か、一月一、二日に来たことになってしまう。しかし最初に来た日が一二月二五、六日でないことは、すでに詳しく説明したとおりであるから、その後の供述部分は前提で誤ったので間違った供述になったものと解される。

つぎに最初に来た日の翌々日手ぶらで帰ってきたとする点は検面調書には出ているが、他の証拠には全く述べられていないことで、特に24・1・17巡面調書にさえ出ていないことである。かえって、24・8・25巡面調書によれば、検面調書の右部分は二回目に来たときと勘違いしているのではないかとの疑いがある。すなわち、右調書によれば「一月の三、四日ころ山に来た時道具は何故持ってこんかと云ったところ本人は山田郷で飲んでしまったといった」「となっているのである。又市の捜査官に対する他の供述を含め全供述を総合して検討すれば、同人が検察官に対して述べている日時の点は信用しがたいものがあり、しかるに検面調書の右記載のみを全面的に信用するのは相当でない。つまり、「翌日山を下り、下った翌朝帰ってきた」は「翌日山を下り、二回目に帰ってきた」ときのことを勘違いして述べているのではないかと思われるからである。いずれにしても又市は日時に強い方ではないように思われるから、むしろ記憶よりも客観的な証拠に基づいて日時を確定する姿勢が肝要である。

さらに又市が、前記のように「四日の日家に帰ったら家内が、榮が二晩泊って山を下りたといった」旨証言している点であるが、そうだとすれば被告人は一月二、三日も泊ったことになりたしかにおかしい。しかし右「四日の日云々」はむしろ記憶違いとみるべきで、又市の24・8・25巡面調書によれば同人は正月明け一月四日ころ榮策方に行ったと述べており、これを前提にすれば又市は免田町に二泊して六日に山に登ったことになり、兼田ツタ子が「二晩泊って山を下りた」といったとする部分は、すでに間違いないものと認められている被告人が四日又市方へ来て七日山を下りたという事実と一致することになり、何らおかしいことはない。なお又市が四日ころ山を下り、六日ころ「俣口」の自宅に帰った事実は検察官もこれを認めているようである(論告二三七頁)。

右に検討したところを通じて、結局又市供述には「曖昧で記憶の根拠もはっきりしない」と批難されるべき点はないことがわかる。

五  荷物の所在及び被告人の履き物

1 荷物(含オーバー)の所在

被告人は、23・1・17員面調書で二三年一二月二九日被告人が所持していた荷物についてつぎのようにいう。

「免田から荷物を持ってきた。荷物の中には衣類と米二升が入っていた。兼田又市のところで働くつもりで必要な作業衣を免田の実家から持ってきた。」「平川飲食店にその荷物を預けた。」

そうして溝辺ウキヱ、平川ハマエの供述や証言により被告人は、二三年一二月二九日夜黒布で包みその上を紐(被告人の民事本人調書では縄となっている)で十字に結んだ一尺四方位の荷物を所持しており、これとオーバーを平川飲食店に預け、翌三〇日午前一一時ころ、被告人が平川飲食店から右荷物とオーバーを受取ったことが明らかに認められる。

その後の荷物の行方について被告人は、前示1・17員面調書でつぎのように述べる。

「そして平川飲食店から受けとった荷物は、人吉城内の石垣の間に隠して、午後八時ころまで大工町や駒井田方面をうろついてまわり、午後八時ころ駒井田町の丸駒料理屋に行き、そこの文子という女に上がった。」「翌朝八時文子に一、一〇〇円渡して丸駒を出て午前中は市内をうろつきまわり、午後四時すぎ人吉市蟹作町山並政吉方に行き一泊して翌日元旦の朝人吉に行く途中人吉市の城内に隠しておいた荷物をとり、その荷物を持って八代に行った。」「八代に午後一時すぎ着き、そこで私は駒井田町の丸駒で知り合いになった文子の家を訪ね、同家に一時間位いて宮地町の横山一義のところへ行き三日の晩まで泊り、四日の八代発一一時半ころの汽車で那良口駅に来て直ぐ同駅から俣口の兼田又市方に行き同人に荷物を預けた。」となっている。

右自供によれば、一二月三〇日朝一一時ころ平川飲食店から荷物を受取り、人吉城内に戻って午後五時まで同所で休けいし、荷物等は石垣の間に隠して、午後八時ころまで市内をぶらぶらし、丸駒に登楼した。翌三一日荷物は石垣の間に置いたまま蟹作の山並方へ行ってその日は同人方に泊り、翌一月一日前記石垣から荷物を取り出して八代の村上キクヱ方と横山一義方へ行き、四日俣口へ行って又市方に荷物を預けたということである。

しかし当時においては特に貴重品とされていたと思われる米や衣類の入った荷物やオーバーを二晩石垣の間に放置しておくというのも妙なことであるが、それにもまして、八代で被告人に会っている村上キクヱ及び横山一義は、被告人の右自供によれば持参しているはずの黒布包の荷物やオーバーについて全く言及していないのはどうしてであろうかという疑問がある。もちろん村上キクヱにしても横山一義にしても、すべての事実を細大もらさず供述するとはかぎらないこと多言を要しない。しかし村上キクヱの24・1・18巡面調書によれば、被告人につき「その男の服装は茶色中折帽子で白マフラー、下に黒のワイシャツで上に白のワイシャツと縁の破れたチョッキ、服は国防色の色の薄いもので、ズボンは少し目の荒い国防色で、黒のズックで紐は白黒のまだらなもので、布製チャック付の手提カバンを持ち、もう一つ上衣の上に黒地の上に赤の筋の通ったマフラーをして居た。」旨極めて詳細に服装と所持品について供述していること、同人は突然訪れた被告人を警戒の目で見ており、派出所に届出ているくらいであること、約一時間位いたということ(被告人の1・17員面調書)などから女性としてかなり細かく観察したであろうと思われるので、服装や所持品に関する同人の供述は相当信用が措けるものというべきであるが、この供述の中に被告人の所持していたといわれる荷物やオーバーについての供述が全くない。また横山一義の24・1・19巡面調書は、被告人の持物については傘を所持していた旨供述するのみで他の荷物に関する供述がない。オーバーについても被告人の前示自供調書にこれを放置したとの供述がない以上他の荷物と一緒に元旦に八代へ持参しているはずである。

右村上キクヱ及び横山一義の供述調書を見るかぎり同人らは被告人の右自供調書によれば持参しているはずの荷物とオーバーを見ていないといわざるをえないのではなかろうか。しからば被告人が村上方や横山方を訪れる前に荷物等をどこか他の場所に預けたというのかといえば、もとよりそのような供述はなされておらず、かえって右自供調書によれば、八代に着いてすぐそのまま村上キクヱ方を訪れているような表現になっているとみるのが素直な見方であり、また横山一義方には元旦から四日まで滞在したのであるから当時食糧難の折世話になった義理を考えると、鰯や焼酎をみやげに持参しているくらいであるから、折角持参している米をお礼として渡しそうなものであり、それをせずに米の入った荷物を三日間横山の目に触れないところに放置したというのは、いかにも不自然ではなかろうか。

しかも被告人の右調書中八代を訪れたことを述べる部分は、城の石垣に荷物を隠して翌々日の元旦取り出しこれを八代に持参し、四日又市方に持って行って預けたというのであるから、かなり荷物の行先に焦点を合わせた内容になっているといえる。もしどこかに預けたのであれば、当然そのことが調書に記載されそうなものである。

右事実は何を意味するのであろうか。

被告人は、原第一審第三回公判以来一貫してこの荷物とオーバーを一二月三〇日平川飲食店から受取った後これらを持って同日又市方を訪れ荷物を預け、オーバーは質に入れた旨供述している。

もしそうだとすれば、村上キクヱも横山一義も荷物やオーバーを見ていないのは当然である。これに対し、自白調書は三〇日又市方へ行ったことと全く相反する内容のものであるから、三〇日又市方に荷物やオーバーを預けた事実は出てくるはずがない。山並の供述や証言によれば、被告人が一二月三一日同人方へ来たとき右荷物やオーバーは持っていなかったようであるが、三〇日荷物やオーバーを城の石垣に二晩隠したことにすれば山並方に持参していない事実は説明できるけれども、そのまま石垣の間に放置させたままにするわけにはいかず(そうであれば又市方等に荷物やオーバーが存在しえないことになる)、元旦には途中これを取り出して八代まで持参したことにしたが、八代の村上キクヱや横山一義までは事実を工作することができなかったことを意味するのではなかろうかとの疑問がわくところである。

荷物やオーバーの行先は三〇日に又市方に持参して預けているとすれば、証拠上何の無理もなく説明できるし、別に論証したようにこれを裏付ける証拠は数多く存在する(なおこの点は、自供の信用性にも係ることであるから、そこでも再論する。)。

被告人が又市方にいつ荷物やオーバーを預けたかについて、被告人の24・1・17員面調書には、前示のとおり二四年一月四日又市方へ行ったときとなっているが、被告人は原第一審第三回公判以後は一貫して二三年一二月三〇日第一回目に又市方を訪れたときと供述する。この点に関し村上キクヱ及び横山一義の供述を通じ一月四日持参したとする右自供調書が証拠上不自然なるゆえんを右に論述したのであるがここでさらに別の証拠から検討してみる。

又市は24・1・24検面調書において「私方に最初来た時持って来た荷物は戦時中防空幕に使用した黒い紙に包んだ物一個でありましたが、横一尺二、三寸位に包んだ僅かばかりの物でしたが内容は知りませぬ」と述べ、24・3・4原第一番証人調書では「一二月三〇日榮が来た。オーバーを持って風呂敷包のようなものを持っていた。それには米を少しと地下足袋と古襦袢等が入っていた。」と述べられており、24・8・25巡面調書でも同様に述べており、さらに同人はオーバーを担保に有村長之助から七〇〇円借りてやったのは被告人が最初同人方へ来たときのことである旨述べている(最初の調書である24・1・17巡面調書、24・1・24検面調書、24・8・25巡面調書)。

これに対し検察官は、被告人が俣口の又市方に黒い風呂敷包みの荷物やオーバーを持ってきたのは一月四日の可能性が強く、ナーバーの入質も二回目に又市方に行った際の一月六、七日ころと認められるとして有村長之助の巡面調書や又市の24・1・18巡面調書を引用する。

なるほど有村長之助の巡面調書には「兼田又市がオーバーを持参して金を貸したのは、月日ははっきり覚えていないが、今年になってからであることは間違いない。」旨はっきり述べ、さらにまた「それから四、五日位してからの朝、兼田が来てオーバーを貸してくれんかというので渡した。」と述べる部分は、前示又市の24・8・25巡面調書の記載とも合致し、一見信用性が高いものであるかのように思われるかも知れないが、さらに子細に検討すると、同人はオーバー入質の日については同時に「雪降りの四、五日前ころと思いますが」と述べており、この点は検察官をして当時の天候と関連づけた明確な供述であるといわしめているのであるが、人吉測第七二号五七年四月三〇日付別紙によれば、二三年一二月二〇日から二四年一月一三日までの間で、最初に雪が降ったのは一月四日であることが認められるところ、その四、五日前ころといえば、検察官がいう一月六日にはならず、むしろ二三年一一月三〇日か三一日ころということになるのではないかということ、また又市が一月四日ころ俣口の自宅を出て免田町黒田の被告人の実家をたずね、被告人の父榮策に、被告人が又市を訪ねてきたことを伝えて同家に一泊し、翌五日は球麿郡上村の又市自身の本宅に泊り、六日ころ俣口の自宅に戻った事実が認められることはすでに判示し、検察官も認めているところであるから(論告二三七頁)、検察官の見解からすれば論告二三七及び二三八頁で述べているように「被告人は、一月六、七日ころ又市を介してオーバーを担保に有村から七〇〇円を借受けたと認められる。」ということになるが、さらに論告でも続いて述べているように、被告人の45・2・19(実施)民事調書及び山並の24・3・5原第一審証人調書等によれば、「被告人は、右オーバーの件とは別に、一月八日ころ、同じく又市を介してズボンを担保に毎床キワノから八〇〇円を借りた事実が認定される」のである。そうだとすれば、被告人は又市を介してオーバーを担保に七〇〇円を借りてもらった翌日か翌々日に再度同人を介してズボンを担保に八〇〇円借りたということになるが、被告人は一月四日から同八日まで一勝地の山奥である俣口にいたのであるから、二、三日の間にたて続けに合計一五〇〇円の金を借りる必要があったのであろうかとの疑問が生じる。

オーバーやズボンを担保に他人から金を借りるということはよくよく金に窮してのことであろうことは容易に推認しうる。しかるに山奥では特に金を費消することも考えにくい。当然のことながらたて続けに七〇〇円と八〇〇円の金を必要とする理由は証拠上全く見出すことができない。

しかるに一二月三〇日オーバーを担保に七〇〇円借りたということであれば、翌日山を下りるので必要だった(45・2・19民事本人調書、なお被告人は山を下りて道具を購入するつもりだったともいう((四次本人調書)))ということで説明がつくし、現に三一日は山並方に鰯を二、三百匁手みやげとして持参し、一月一日八代へ行く汽車賃や横山一義方へ鰯や焼酎を手みやげに持参したり八代滞在中飲んだりして金を使ったであろうことが推認され(横山一義の原第一審証言等)、そこで腕時計を担保に金を借り(同証言)、四日俣口の又市方に帰ったが、八日山を下りるので再び金が必要となりズボンを担保に毎床キワノから八〇〇円借りたということであれば(被告人の原第一審第三回公判における供述)、金員の必要なるゆえんが無理なく説明できることになる。

このことは、被告人の当時の所持金と金銭の費消状況の関係をさらに細かく検討することによって、より裏付けられる面がある。

すなわち、井上倉藏の原第一審証言、被告人の同第三回公判における供述によれば、被告人は二三年一二月二八日免田町吉井の井上倉藏から榮策が同人に売った馬の残代金四〇〇〇円を受取っているところ、被告人はそのうち同月二九日にはズック靴を五〇〇円で買い(被告人の当再審公判における供述、検察官の冒陳参照)、寿司を一〇〇〇円位食べたというのであるから、被告人が同日人吉に出た際に持っていた金は二五〇〇円余りということになる(被告人の原第一審第三回公判供述、なお被告人の24・1・17員面調書によれば二四〇〇円位となる)。

さらにそれ以後の金銭の使用状況をみるに、一二月二九日孔雀荘に借金のうち一〇〇〇円を支払い、その際同所で二〇〇円位出して溝辺ウキヱらに食べ物をおごったことが認められ(溝辺ウキヱ、井手迫敏子の各巡面調書等)、そうして丸駒で一一〇〇円支払ったことも後述のとおり認められる。そうだとすれば、被告人の一二月三〇日ころの所持金は、結局これらを差引いた二〇〇円位ということになる。前記のように一二月三一日山並方へ鰯を、一月一日横山一義方へ鰯と焼酎を手みやげに持参したこと、当時の汽車賃は、原第一審で取調べられている二三年一二月一日現在の時刻表により、人吉、八代間四五円となっていることを考えれば、なるほど一二月三〇日にオーバーを担保に金を借りる必要があったことが肯かれるのではなかろうか。

以上のように見てくると有村長之助の前記供述が、検察官のいうようにはにわかに信用できないこと、明白というべく、逆に一二月三〇日をいう又市や被告人の供述が無理のない自然な供述であることがわかる。

なお、荷物とオーバーに関連して、弁護人は被告人が又市方に持参した荷物及びオーバーと三〇日平川飲食店から受け取ったそれらとの同一性を問題にし、しきりにその点を強調するようであるが(弁論要旨)、しかし、この両者が同一のものであることについては本件証拠上明らかというべく、検察官においてもこれを前提にしていると思われるところである。ただ検察官は、被告人の24・1・17員面調書にもとずき三〇日平川飲食店から受け取った荷物とオーバーを三〇日人吉城の石垣の間に隠し、一月一日八代へ行くときに取り出して持参し、四日俣口の又市方へ持って行ったというにすぎない。したがって弁護人のいうように荷物及びオーバーの同一性を論証するだけで即被告人が三〇日又市方を訪れたという事実が立証されたことにはならないことは注意を要する。やはり当裁判所が右に検討したように荷物やオーバーを一二月三〇日又市方に持参していなければ、諸々の点でおかしいということを論証することによって間接的に三〇日俣口説を裏付けるのが筋であって、荷物の同一性を問題にする弁護人の主張は、検察官の主張とかみ合っていない面があるというべきであろう。

2 黒のズック靴及び地下足袋

被告人の再審公判供述、原第一審第三回本人供述、45・2・19民事本人調書、溝辺ウキヱ24・1・16、山並同日付、村上キクヱ24・1・18各巡面調書及び山並24・1・24、文子同日付各検面調書、同人の原第一審第二回証人調書を総合すれば、被告人は二三年一二月二九日、五〇〇円で黒のズック靴を買い求めて免田発午後六時二八分の列車で人吉へ来たこと、人吉駅でそれまで履いていた地下足袋と右ズック靴を履きかえ、地下足袋は当夜持参していた黒い布包みをほどいてその中に包みなおしたことが認められる(検察官の冒陳及び論告二四二頁参照)。

この事実は、検察官も冒陳で述べていることで、前記証拠により認定できること特に問題がないと解するが、ズック靴を買った事実やその日時について被告人がわざわざ工作して虚偽を述べるとも考えにくいこと、また折角五〇〇円の大金を出して買った以上孔雀荘や色街に行くのに当然地下足袋と履きかえるとみるのが自然であることからもいえる。(前記45・2・19民事本人調書では、免田駅の前でズック靴を買ったとき地下足袋と履きかえた、そのときにまた新たに駅前で荷造りをしなおした記憶がある旨述べている。)

しかるに又市の24・1・17巡面調書には「免田は何時も白けた国防色の洋服を着て居りズック靴を履いていました。」と述べている。右供述が文字どおり又市方に来たときはいつも被告人がズック靴を履いていたという趣旨であるとするならば(そのように読むのが至って素直な読み方であるが)、被告人が又市方を訪れたのは、右ズックに履きかえた二三年一二月二九日以降であるということ、換言すれば一二月二九日以前ではありえないことを意味することになる。

検察官は、又市が24・1・18巡面調書において「榮が私の家に二回目に来たとき地下足袋と荷物を預かった。」旨供述している点と被告人が又市と数回顔を合わせており、そのことから被告人の服装、履物等を一般化して24・1・17巡面調書のように「いつもズック靴を履いていた。」旨供述しているものと思料するのが相当であるとの見解を根拠に、一月四日被告人が二回目に又市方に行った際ズック靴を履いていて、そのとき、荷物の中に入れていた自己の地下足袋を又市に与えたとみるのが相当であるという(論告二三九頁以下)。

しかし又市の24・1・24検面調書及び24・3・4原第一審証人調書では「被告人が最初に来たとき荷物を預かった。」旨供述しているのである。検察官は、24・1・18巡面調書は体験後約一か月も経過しない、記憶が新鮮な時期になされたということで十分信用性があるのに対し、検面調書や原第一審での供述の変更には合理的な理由を見出しえないというが、すでにみたように被告人が第一回目に俣口の又市方を訪れたのが、二三年一二月三〇日であることが証拠上動かしがたい事実と認められることはさて置くとしても、そもそも一月四日に荷物やオーバーを又市方に持参したとする検察官の見解が首肯しがたいこと前項(荷物の所在の検討)で詳しく触れたとおりであるところ、検察官は前示又市の24・1・18巡面調書にいわば全面的に依拠して被告人が又市に地下足袋をくれたのも荷物を預けたのも一月四日であるとし、これに反する各証拠をすべて排斥するもののようであるが、又市の「二回目に来たとき地下足袋をくれ、荷物を預かった。」旨の24・1・18巡面調書の右供述部分が他の証拠に比しそれほど信用性が高いものであろうか。そうして又市の24・1・17巡面調書の「いつもズック靴を履いていた。」旨の供述部分を検察官のいうようなことで軽々に排斥することができるであろうか。

「被告人が最初に来たとき地下足袋をもらい、荷物を預かった。」旨を供述する又市の24・1・24検面調書は、右24・1・18巡面調書が作成された日からわずか六日後に作成されたものである。検察官は供述を変更した合理的な理由は証拠上見出しえないというが、逆に24・1・18巡面調書が真実であるならわずか六日後に検察官の前でわざわざ供述を変えることはないのではないかという疑問があるのではなかろうか。

思うに前示のように又市は被告人と何回か俣口で会っている。そうして同人は日時についての記憶に弱い方であることから24・1・18巡面調書では正確な記憶のないまま「二回目」と供述したが、後でよく考えてみるとどうも最初に来たときだったような気がするということで24・1・24検面調書が作成されたのではなかろうか。

又市の24・3・4原第一審証人調書では「榮から地下足袋を貰ったのは一二月三〇日である。私が履いていた地下足袋が破れていたのを見てこれを履いたらといってくれた。」旨明言している。又市の右証言の信用性が高いと認むべきことすでに他の個所で触れたところであるが、24・1・24検面調書にしても右証言にしても24・1・18巡面調書と対比し決して軽々に排斥できないことは明らかというべきである。

つぎに「免田はいつもズック靴を履いていた。」という又市の24・1・17巡面調書の供述であるが、このことが一二月二九日被告人が地下足袋とズック靴を履きかえたとの事実と相俟って、被告人が又市方を一二月二九日以降に訪れているという事実の有力な証拠となることは否定できない。検察官は右を一般化した供述にすぎないとするが、又市は被告人から履き物である地下足袋を貰った本人であるから、被告人の履き物については相当関心を持って記憶していたと推認されるところである。又市の右供述を一般化した供述であるなどとこれまた軽々に排斥するのは相当でないと解する。

なお検察官は、被告人が最初に又市方に来た日は二三年一二月二三日ころであることを前提にして、「被告人はいつもズック靴を履いていた。」とする又市の前記供述は信用できず、一月四日ころ、二回目に来たときズック靴を履いており又市に地下足袋をくれたと認めるのが相当とする。(論告二四二頁)。

しかし、一二月二九日にズック靴を買い地下足袋を履きかえたという客観的に認められる事実を手がかりに、一回目に来たときも含めて被告人が又市方に来たときズック靴を履いていたというのであれば、その日は一二月二九日以降になるはずというのが考えの筋道である。検察官は、一回目の訪問が一二月二三日であることを前提にして、そのときズックを履いていたという又市の供述は一二月二九日ズックに履きかえたという客観的事実に反し信用できないとする論法をとっているようであるが、本件で一番問題なのは、被告人が一回目に俣口の又市方を訪れたのはいつかということなのである。その日がいつかということについて、履き物をズック靴に履きかえた日という客観的に認定される間接事実から何か手がかりがつかめないかと模索しているのであって、検察官の論法は、まさに証明しようと苦心している主題を一二月二三日と前提にしてしまって、いつもズック靴を履いていた旨の前示又市供述の信用性を疑い、その上で事実認定をあらためて試みようとするものであって、発想が転倒しているといわざるをえない。

六  石村文子及び半仁田秋義の各供述について

1 はじめに

以上のように、証拠を検討した結果、被告人の二三年一二月二九日丸駒泊、同月三〇日又市方泊というアリバイが確実に認められ動かしがたい事実ということになるが、検察官は、被告人の右アリバイを否定する証拠として原第一審第二回公判における文子の証言及び同人の24・1・24検面調書並びに半仁田の当公判廷における証言を挙げるもので、以下これらの証拠の信用性について特に判断を加えることとする。

2 文子の供述

(一) 総論

被告人が丸駒に登楼した日時について、それが一二月二九日であるのか、翌三〇日であるのか争われてきた最大の原因は、文子の供述が二転三転したことにあるとする検察官の指摘は正当であろう。

しかしそれが当時一六歳の少女で知能程度もどちらかというと低く、記憶力も劣り、かつ年齢を偽って特飲店で働いていたという負い目を持つ同女のみの責任というのであれば相当でない。

文子の知能や能力に関して同人の養母である石村マツエが24・7・12原第一審証人調書において、文子は小学五年までで退学したこと、かねがね頭の具合が悪くふらふらすると云っていた旨証言し、丸駒の経営者佐伯榮一郎も原第一審証人調書において、文子の知能程度は普通の人より低く、記憶の前後が混乱することがあり、時々興奮してかっとなり、後で何をいったか分らぬことがある旨述べ、文子自身も原第一審第五回公判で自分のことを物憶えは悪い方ですと答え、またかなり興奮した発言も窺えることから、文子の知能や記憶力は普通より劣るものと推認されるところであるし、年齢的にも性格的にも暗示にかかり易い傾向とかあるいは何か一つのことに捉われる傾向がありはしないかと危惧されるところである。

すでに述べたように、文子の供述は二九日泊ったか三〇日泊ったかということを供述の内容とするアリバイの成否に関する直接証拠であるために、本件では余りにも過大視されすぎ、同人の供述の変遷や供述内容の余りにも細かな矛盾点の追及に急で、ひいては同供述の信用性を見誤ってしまった面があることは否定できない。前記のように、もっと地味な物的証拠や、供述証拠であってもさりげない供述をしている他の証拠を十分検討することが本件では重要であったと思われる。

(二) 供述の変遷とその理由

当公判廷に提出された証拠によれば、文子は本件の捜査段階から原第一審第二回公判(24・3・24)まで、被告人が丸駒に登楼したのは一二月三〇日であったと供述していたもののようである。(24・1・24検面調書、前記原第一審第二回公判証人調書、24・1・16巡面調書)。

そうして、文子が原第一審第五回公判において三〇日丸駒泊を翻し、二九日丸駒泊と証言したが、これは供述自体矛盾が多く、不自然であり、意図的な作為さえ感じられるとし、二九日宿泊したとすることにつき何らの根拠が示されていないこと、被告人から二九日に泊ったといわれて自己の記憶に不安を持ち動揺をきたしたであろうことが検察官から指摘されている。右検察官の指摘するところはなるほどもっともな一面があり、これらのことから文子の二九日宿泊説は信用できず、むしろ三〇日宿泊説が信用されてしまったのではないかとさえ思わしめるものがある。

しかし、供述の信用性を検討するには、供述そのものの矛盾点や根拠の有無などを比較検討することももとより必要であるが、むしろ客観的証拠による裏付けの有無や客観的証拠に矛盾していないかどうかを見ることが肝要である。

検察官は、文子は二四年一月一六日以来原第一審第二回公判廷まで一貫して三〇日泊といっていたといい、益田巡査の証言などから不当な取調べがなされていないことは明らかであるから、強制誘導等によって「三〇日丸駒説」を云われるままに供述したとする点は信用できないとするのであるが、はたしてそのようにいえるかがまず第一に問題となるところである。

文子が最初に取調べを受けた警察官は益田巡査であり、その日が二四年一月一六日であることは24・1・16巡面調書の日付及び内容によって明らかである。しかるに、そもそも文子が原第一審第二回公判や同第五回公判で証言するように文子自身はたして被告人が登楼した日を「一二月三〇日」であるとか「一二月二九日」であるとか明確に記憶していたのだろうかということが、まず検討されなければならない。

右の点を明らかにしないで、文子の第二回公判と第五回公判での証言を比較し、一方が根拠がないとか工作の疑いがあるといっても、事の実体を解明することができないと思料されるからである。

文子は、右の第二回公判で三〇日泊の根拠として翌三一日進駐軍の宴会で鍋屋に行った前の日であるから記憶しているとか、警察に行く前によく調べましたら帳面に「三〇日あやしみ、千百円」と書いてあったので三〇日と思うとか、三一日風呂に行く途中被告人に会ったので前の日の客ということで三〇日と記憶しているなどと証言する。しかるに右第五回公判では前言を翻し二九日泊をいうのであるが、その根拠は必ずしも十分といえず供述も転々としてとらえどころがない面があること検察官主張のとおりといえよう。しかし、だから第二回証言が信用できて第五回証言はでたらめであるとするのは、いささか短絡にすぎると考える。

文子は二九日丸駒泊か三〇日丸駒泊かというアリバイの成否を決定づける事実の直接証拠であるだけに重視され徹底的に追及分析がなされ勝ちであるが、前記のように文子が当時一六歳で知能もどちらかというと低い興奮し易い性格の持主で物事を忘れ勝ちな少女であることを考えるならば、文子の供述を過大視することなく、もっと確実な証拠によって、まわりから固める努力をすべきであったとの念を強くするものである。文子の供述の信用性を解明する鍵になるような証拠としてつぎの佐伯榮一郎の供述と職員手帳が存在する。

(三) 佐伯榮一郎の供述と職員手帳のメモ

佐伯榮一郎の24・4・19の検面調書、24・6・23原第一審証人調書によれば、同人は丸駒の経営者で二四年四月一九日の検事調べの当時四二歳であった者であるが、同人は同年六月二三日の原第一審証人調べ期日において、各接客婦が帳場に納めた金を毎日記載していたという職員手帳(原第一審証第一三号、再審昭和五六年押第一七号の8)を提出したこと、この手帳は表紙は存在しないが同人の供述及びその手帳の形式からみて一か年分の月日とその曜日が印刷された小型の手帳であると認められるところ、同人がこの事件のために問題となる日付に近いところの二三年一一月一二日から同年一二月三一日にかけての部分を千切り取って提出したものであることが認められ、これには四人の接客婦が客から貰って帳場に渡した金額が毎日日を追って欠かさず記載されている。右手帳は、接客婦の氏名も身代も略語で表示されている小さな手帳で、いわゆる帳簿としての形式を整えているとはいえないものであるが、内容は細かい字で整然と記載されており、例えば接客婦に対する貸金とその返済状況が克明にメモされているなど、作為が入り込む余地がほとんど考えられないような形態のものであることは右手帳を一見すれば、容易に首肯される。そうして、これは佐伯榮一郎が自己の心憶えのためという目的で正確を期して記載されたであろうことも容易に推認できるものである。けだし、丸駒という特殊飲食店を経営する者として、雇っている四人の接客婦から受け取った身代がいくらであり、同女らに対する貸付け金があればその計算がどうなっているかなど最も強い関心を示さざるを得ないことがらに他ならないからである。右のようなメモ帳を文子や検察官がいうように税務署に見せるためのいわゆる表帳簿であるとは、その内容及び形態からみて到底いいがたく、むしろ、もし二重帳簿をつけていたと仮定した場合、どちらかといえば裏帳簿であって真実を記帳したものとみるのが相当であろう。

同手帳には

昭和二三年一二月二九日 0⑧ フミ子

一二月三〇日 0⑦ フミ子

との記載がある。右は佐伯榮一郎の24・4・19検面調書及び24・6・23原第一審証人調書によれば、二三年一一月二九日の文子の稼ぎ高(帳場に納めた金)が八〇〇円で三〇日が七〇〇円であること、8及び7の数字に丸印がついているのは、「文子が警察の調べから帰って犯人がのぼったのは年末の何日頃であったか多少疑があった風で同輩らとも人相等の話をしてあの人ならばサービス料は幾ら帳場にあげたのであったろうかという風に考えていた模様だったので」榮一郎が丸印をつけた、「若し此の時文子の記憶が明確であれば両日分に印をする筈はなかった。」というのである(右検面調書)。

右手帳の記載中金額の重要性については後に触れるとして、まず二三年一二月二九日と同月三〇日両日分に丸印が付されている事実と信用性が高いと認められる前記佐伯榮一郎の検面調書及び証人調書を総合すれば、文子は捜査官及び前記第二回公判での証言までは「三〇日泊」、それ以降は「二九日泊」とそれなりの根拠を上げてそれぞれ明言しているが、真相は佐伯榮一郎のいうとおり一体二九日だったのか、三〇日だったのかはっきりせず確信が持てなかったというところではなかったかと思われる。前記佐伯の供述及び手帳の記載によれば、二四年一月一六日の警察での取調べから帰ってきて何日だったか疑問を持っていたふしが明らかに窺われるのであるから、この事実は三〇日泊を明言する検面調書、巡面調書さらには原第一審第二回公判における証言がにわかに信用できないことを何よりも雄弁に物語っているといえるのではなかろうか。文子は、被告人が泊ったのは年末の何日であったか疑問を持っていた、すなわち、二九日か三〇日か確信が持てなかったというのが真相であったと思われ、このことは人間の記憶というものが、ことに約半月前の一日違いのことについてそれほど正確に憶えておれるとは限らないという事実及び特殊飲食店の接客婦には馴染客が連日登楼する場合を除き毎日のように異る客が登楼し、同じようなことのくり返しであろうことは推測にかたくないところ、特に一見の客については何日に誰が登楼したかを正確にはっきり記憶している方がむしろ不自然ではなかろうかと思われること、さらに文子の前記のような諸能力、ことに云ったことをすぐに忘れるなどという記憶力を考えれば、ますます首肯されるところである。

思うに文子の警察や検察庁での供述及び原第一審第二回公判における証言が余りにはっきりと三〇日泊をいい、またそれなりの根拠を示しているためすっかり信用されてしまい、これに反し原第一審第五回公判において三〇日泊をくつがえし二九日泊を云い出した根拠が証言を見るかぎり曖昧であり、かつ証言内容も転々し不明確なところが多かったことから、同第五回証言が措信できないとの心証をいだかせ、反面としてますます三〇日泊を信用させる効果があったといえるのではなかろうか。当再審公判における検察官の論告も一面そのような誤りに陥っているものと評するほかない。なるほど文子の24・1・16巡面調書、24・1・24検面調書、原第一審第二回証言が、そこで述べられているような実体をもつものなら検察官のいうところも理解できないではないが、文子が実は一二月二九日か同月三〇日か確信を持てなかったというのが実体であったということを前提とすれば、検察官の立論は根本的に倒壊せざるをえないことになってしまう。

文子の供述は、直接証拠であり決定的な意味を持ちうるものであるがゆえに同人の年齢、能力や性格、記憶力を考え慎重にその信用性を検討すべきであること何回も述べたとおりであり、単に同人が供述している内容にいわば没入してしまい、こと細かにその片言隻句をとらえて一方を信用し、片方が信用できないとするのは、本件では余りにも危険である。むしろ、文子がどういったかよりも、まず動かしがたい佐伯の職員手帳の記載とか、どちらかというと中立的立場(本件の渦中から離れている)、年齢も四二歳で丸駒の経営者という同人の供述等によって認められる間接事実から推認される事実の方がより客観的で正確というべく、本件では重視されねばならない。そうして、佐伯の手帳の記載自体は前記のように極めて信用性の高いものである。すなわち二九、三〇日の両日の丸印はなるほど佐伯の供述するとおり文子が迷っていなければ記載されるはずのない事実であり、佐伯がまた何らかの工作をする必要性や理由を全く見出しがたいことといわざるをえない。手帳の記載及び佐伯榮一郎の供述の信用性が高いことは、右のような客観的に認定される事実から遺憾なく裏付けられているといえよう。

なお木村善次の30・5・23三次証人調書にも、益田刑事と丸駒に聞き込み捜査のため行ったところ、丸駒の主人が二九日の夜か三〇日の夜に免田は泊ったといった旨の証言がある。

(四) 文子が三〇日泊の根拠として挙げる事実の検討

文子が三〇日泊の根拠として挙げる一二月三一日鍋屋旅館に行った前日であること、同月三〇日あやしみ千百円と記載した帳面を見たこと、同月三一日風呂へ行く途中その前日泊った被告人に会ったことなど一見もっともと思われやすい事実が実はそれほど確実なことでないことをつぎに明らかにする。

(1) 鍋屋旅館に泊った前日とする点

まず、文子は一二月三一日は進駐軍の相手で鍋屋に泊り、被告人はその前日泊ったから記憶があるとする点であるが、これは文子自身原第一審第五回公判で間違いであった旨訂正証言をしており、まず佐伯榮一郎が右事実を否定し(24・6・23原第一審証人調書)、鍋屋旅館の従業員斉藤安一も二三年一二月中アメリカ兵が宿泊した日を全部あげたうえで大晦日は泊っていないと証言している(24・6・23原第一審証人調書)。また、文子同様丸駒の接客婦である陣内ハナエも一二月三一日に文子が進駐軍に呼ばれて行ったことはない旨述べている(同日付証人調書)。そうして前記佐伯榮一郎提出の職員手帳にはもちろん一二月三一日文子ナベヤなる記載はなく、例えば同手帳一二月二二日欄には0ナベヤなる記載があることから見ても、ナベヤ泊のときはその旨記載されるのではないかということも窺われないわけではなく、以上の事実を総合すれば、一二月三一日鍋屋旅館に行った前日という文子の供述は、はなはだ疑問ということになろう。さらに佐伯榮一郎も斉藤安一も右の事実につき何ら隠したり工作したりする理由を見出しがたい立場の者であることはいうまでもない(あるいはここまで税金対策をいうのであろうか。それにしては他の点は明らかにしている。)。

(2) 三〇日あやしみ千百円と記載した帳面があったとする点

つぎは、三〇日あやしみ千百円なる記載がされているという帳面の存在であるが、前記佐伯の手帳には文子の証言にいうような「三〇日あやしみ」という記載はなく、佐伯は「その手帳の他に帳面はない」という(同人の検面調書)。

検察官は、文子が作為してまで証言する必要性は全くないし、税金対策などから佐伯榮一郎が他にも帳面を作っていた疑いもあるから、文子の証言したとおり、「三〇日あやしみ」と記載された帳面が存在していたものと認められると主張する。

文子は、原第一審第二回証人調書で、免田榮が丸駒に登楼したのは一二月三〇日とはっきり記憶しているかとの問いに対し「警察に行く前よく調べてみましたら帳面に三〇日あやしみ千百円と書いてありましたので三〇日と思います。このあやしみと書いてありますのは免田さんが帰った後にあのお客さんはあやしいと思ったこと、警察の者だといわれたけれども服装もおかしいこと等を話したのでそのように書かれているものと思います。」と答え、同第五回公判証言によればその帳面とは「帳場にある大きな帳面で半紙二つ折よりやや大きい位のに筋を引いた(罫紙)ものであった。机の上に開いて置いてあるのを開いてあるところだけ一寸見た。日付はよく見なかったが金額は八百円と書いてあった。」という。そうして証一三号の手帳を示され、「丸駒で私達が上り高の計算をする時主人が持っているのを見たことがある。然しその内容は税務署から調べにくるからといって、例えば千円のものは八百円位にして嘘が書いてある。税務署から来る場合を考えて帳面はさき程述べたのと二つある。」「客から金を貰って帳場に持って行って勘定するとき書いたものです。」と答えている。

しかし、そもそも文子のいう帳面なるものは、原第一審第二回公判の証言で突然出てきたもので同人の24・1・16巡面調書にも出ておらず、同・1・24検面調書第三項には逆に「私自身にも丸駒にも記帳等したものはありませぬが相違ありません。」と供述しているのである。しかるに右第二回公判で「三〇日あやしみ千百円」と記載した帳面が突如として現われるのである。誠に不可解としかいいようがない。そうして、前記のように佐伯の手帳は接客婦の玉代等の記録の関係では最も詳しくかつ正確であろうと思われ、また丸駒の責任者でもある佐伯榮一郎は、前記証人調書及び検面調書で前記の手帳を提出し「さき程提出した手帳の外に帳面はない。」とはっきり答えているところ、右手帳はその形態内容からみて前記のように作為の入り込む余地はほとんど考えられないようなもので信用性高く、符号を用い数字も略し、その他日常の用件もメモするなど、その日の出来事を忠実にメモ的に記録することを目的とした手帳であるからこれをもって文子がいうように税務署に見せるための帳面など到底いえないことは明白である。前述のように税務署に見せるための帳面いわゆる表帳簿は、あやしみなどという記載をするにふさわしいものとは思われず、むしろ記載するとしたら本件手帳こそそのような記載をするにふさわしいもののように思われる。さらに、文子は右第二回公判証言では「三〇日あやしみ千百円」と書いてあったと供述している(検察官はなぜか右千百円を飛ばしているが)けれども、帳場には一一〇〇円全額を渡していないのであるから「千百円」と書くはずがない。文子が無理に三〇日を根拠づけるために作為したのではないかとさえ疑われる(もっとも、原第一審第五回公判証言では金額は八百円と証言しており、同人の記憶力の不正確さを思わしめる。)

以上のようにみてくると、なるほど文子がこの点につき作為してまで証言する必要性は考えにくいことは否定できないけれども、佐伯榮一郎についても全く同様のことがいえる。能力の低い記憶力の弱い、思い込み勝ちな文子が何か勘違いか思い込みか、あるいは引っ込みがつかなくなって公判に至って突然真実と異なる証言をした疑いがあるといえるのではなかろうか。少くとも前記佐伯の供述と手帳の存在によって文子の右証言部分は、完全に弾劾されたとわざるをえない。

なお、前記文子の証言によれば「そのように書かれているものと思います。」となっており、文子が書いたのではなく、帳面を作成する者が書いたようになっているところ、佐伯榮一郎は、原第一審証人調書において「その手帳は両方から見せ合せて計算していますので文子にも見せています。」「文子が事件取調べを受けた前後その手帳を見せてくれと云ったことはない。」と述べている。そこで、佐伯が証言するように佐伯の手帳を文子がいつも見ているとすれば、佐伯が二九日と三〇日の8と7の部分に丸印をしたことを勘違いして文子が「あやしみ」と書いてあった旨証言したのではないかという疑いすらある。いずれにしても、文子の右証言部分は、佐伯の証言に照らして不可解としかいいようがない。

右のように佐伯が提出した手帳と別に文子のいうような帳面があったという点は、はなはだ疑わしく、本件を考察するに当たってそのような事実を前提にしてはならないと解するが、仮りに右手帳と別に帳面があったと仮定しても、証一三号の手帳の形態及び記載内容からみて作為が入り込む余地は考えにくく、右は証拠物であって極めて証拠価値が高く、逆に文子の前記証言等をもって同記載の証明力をくつがえすことは到底できないと解する。

(3) 三一日風呂へ行く途中会ったこととの関係

文子が一二月三一日風呂に行く途中被告人と会ったことは、被告人も再審公判で認めているところであり、証拠上間違いない事実と思われる。問題はそれが登楼の「翌日」なのか「翌々日」なのかという点にある。

なるほど文子は、原第一審第二回公判で「榮が帰った日の午後また榮と会いましたか。」との質問に対し「私が風呂に行く途中会いました。」とはっきり答えているが、同第五回公判では証言内容が二転三転している。すなわち、①被告人が泊った翌日一二月三〇日風呂に行っているから二九日泊ったと思い出したとしながら、②被告人が丸駒を出た日に風呂に行く途中会ったのかとの問に対し「いいえその日ではなく一二月三一日の日に会っています。」「その晩一晩寝た翌日風呂に行く時会いました。」といい、さらに③二九日泊り三〇日風呂の途中で会ったと証言がかわっている。

ところで、文子の同僚であった陣内ハナエは「文子から姉さん困った。実は、今日風呂に行った時昨夜のお客さんに会ったところ一月一五日に請け出しに来るから用意して置けともいわれたがどうしたらよいかと相談を受けました。その話はお正月の鏡餅を各自の部屋に飾りに行く時聞きました。その年の正月用餅は三一日の晩に鏡餅を飾りましたから、三〇日の朝つきました。」(24・6・24原第一審証人調書)と証言している。また、丸駒の女将佐伯マスエも三〇日餅をつき三一日飾りつけをさせた旨証言(24・6・23原第一審証人調書)し、二三年一二月三一日風呂に行く途中ゆんべのお客すなわち同月三〇日の客である被告人に会ったとする文子の前記第二回公判証言を裏付けるような供述をしている。

そうして、この点について被告人は、原第一審第三回公判で検察官の「丸駒を出た日に石村文子と会ったか。」との問に対して「会いました。泊った翌日で三一日の午前一〇時三〇分か一一時ころ、人吉市山田郷の裏通りで会いました。」と答え、さらに「文子はどんな格好だったか。」と聞かれ、「風呂に行く格好でした。」と答え、その日は午後五時前に山並方に行き泊った旨述べている。右の供述は結局三〇日丸駒に登楼したことを認めたことになるが、尋問の前後から見て被告人の云い間違いとも、また調書の誤記とも考える余地なく、検察官のさりげない尋問に落ちたとみられる可能性がないではない。そうして、なるほど泊った翌日である三一日に文子に会ったというのであれば泊った日は三〇日ということになり、被告人の同公判におけるその前後の供述である丸駒に二九日泊り、三〇日又市方に泊ったと明言するところと矛盾し、被告人の公判の供述自体に破綻をきたしているといわれかねないところである。(この点は、従来の判決、決定等のうち三〇日丸駒泊説の一つのポイントになっていたのではないかと思われるところである。)

三一日文子が風呂に行く途中被告人に会ったことは、冒頭に示したように間違いない。そうして、文子の原第一審第二回公判証言によれば、会った日の前日被告人が登楼したことになり、これを裏付けるかのような前記陣内ハナエ、佐伯マスエの証言があり、さらに被告人さえも原第一審第三回公判においてこれを認めるかのようなまぎらわしい供述をしている事実からすれば、他の証拠を考慮せず、右の各証拠のみに注目する限り、被告人は三〇日丸駒に宿泊したのではないかと強く疑われるところである。

しかし、すでにアリバイの項で示したように三〇日又市方泊の事実が他の客観的証拠によって動かしがたい事実として証明されていることはさて置いても、右三〇日丸駒泊を窺わしめるかのような各証拠もそれほど十全なものでないことを以下に明らかにする。

(イ) 文子自身の証言について

まず文子自身の証言については、原第一審第五回公判でこの点を詳しく聞かれ二転三転しているという事実を挙げなければならない。この証言を見る限り一体三〇日風呂へ行く途中会ったのか、会った前日泊ったのか、前々日泊ったのかはなはだ曖昧な証言といわざるをえない。原第一審第二回公判証言にしても、裁判長の「榮が帰った日の午後また榮と会いましたか。」との質問に対し「私が風呂に行く途中会いました……。」と答えているようにいささか問いが誘導的であることは否定できない。同人の検面調書には、一二月三一日午後三時頃中央温泉に入浴に行く際会ったとなっており、「榮が帰った日の午後」とはなっていない。要するに文子自身「泊った日の翌日会った。」ということが決して明確な記憶ではないということを物語っているのではなかろうか。そうして、「ゆんべの客」発言をめぐる文子の当再審公判における証言については後述するとおりである。

(ロ) 陣内ハナエの証言について

陣内ハナエは前記したところのほかに「一二月末頃文子から、今夜のお客さんは何かそわそわして落着きがないと聞いたことがある。そわそわしているなら衣類を盗られる心配があるから着物等は下に置けと文子に注意した。北泉田の殺人事件は事件の翌三〇日朝知った。文子がそわそわしたお客と話したのはその日の晩のことである。」旨証言するなど誠に念が入った三〇日丸駒泊説の裏付け証言のように見られる。

しかし、右陣内ハナエ証言について第一に指摘しなければならないことは、同証言の主要部分はすべて文子が云ったことを聞いたという伝聞供述であるということ及び同人の証言はいうまでもなく供述証拠にほかならないということである。すなわち、まず陣内ハナエは「鏡餅を飾りに行く時、文子から『今日風呂に行った時昨夜のお客さんに会った』旨聞いた。鏡餅は一二月三一日に飾った。」旨証言し、さらに「文子から今夜の客は何かそわそわしていると聞き、衣類を盗られる心配があるから、着物を下に置いておくよう注意したところ、文子は着物を下に持って降りたそうですが、翌日文子が話したところでは着物を持って降りたらそのお客が文子をじっと見ていたと云いました。」旨証言している。これらの証言の主要な内容は文子の供述の伝聞にほかならないところ、当の文子は原第一審第五回公判でこれらの事実を否定しているのである。すなわち、「餅飾りのとききのうの客に会ったという話は節子には云ったが勝子(陣内のこと)には話しておらず、同人には正月宮地村に来た一寸前の一月八、九日ころ話した。」旨また「勝子から着物は下に降ろして置くように注意を受けたことはあるが、そのままにして持って降りなかった。」旨供述し、さらに「勝子から注意を受けたことは受けたが、それは被告人が泊った晩ではなく、翌朝私がそわそわしていたと話したので今から注意せよという趣旨であった。」旨陣内の証言と相反する供述をしている。

文子についてはその記憶力がはなはだ頼りないもので証言の信用性は十分注意しなければならないことすでにみたところであるが、右の点はすべて自己が直接自分のこととして体験した事実である。例えば陣内ハナエに注意されたことは認めていながら、着物は降ろしていないというところなど、注意された事実は認めているのであるから、真実着物を降ろしているのであれば事実を認めそうなものである(もっとも文子によれば、翌朝云われたというのであるから着物を降ろす理由はなくなるが)。陣内ハナエの証言が信用できるか、これを否定する文子の証言が信用できるか、にわかに断定しがたいものがあるように思われるが、文子の原第一審第五回公判(24・7・12)における証言が24・6・23の陣内証言の後になされたゆえか、陣内ハナエの証言に対しては、右文子が供述するような内容の観点からほとんど反対尋問がなされていないことも注意を要する。しかし、陣内ハナエ証言の信用性をテストする有効な資料や術は現在ではすでにないといわねばならない。陣内証言は供述証拠にほかならない。いかに文子が頼りないとはいえ右陣内証言と相反する点は自ら体験したことであるから、同じ供述証拠である陣内証言を信用するのは、同証言がよほど客観的な裏付けがない限り危険である。そうして陣内証言は事件当時からすでに約半年経過した時点での証言であり、つぎのような疑問すら存在するのである。

すなわち、なるほど陣内ハナエは詳細に証言しているが、接客婦をしていれば日常それほど気にとめるほどのない事柄についてしかも他人のことについてあまりに詳細に記憶しすぎているとの印象はまぬかれないのではなかろうか。一般に人は日常ありふれた他人のことについてそれほどこと細かく記憶しているものであろうか。陣内が証言したのは前記のように二四年六月二三日のことであり、事件からすでに約半年も経過している。本件検察官請求証拠目録二六によれば、二四年四月二〇日に検面調書が作成されていることが認められ、また同月一九日には佐伯榮一郎の検面調書が作成されているところからすると、陣内ハナエについて二九日泊か三〇日泊か日時の関係について検察官による相当詳細なる調べがなされていることが窺われるから、陣内の証言する約二か月前の同年四月二〇日に検察官による取調べが詳細になされたと推測される。そうして、そこでまとめられた結果をこと細かに証人として供述したのではなかろうかとさえ疑われるほど不自然に詳細な証言といえる(なお、陣内ハナエについては巡面調書も存在するようであるが、当公判では取調べがなされていない。もし調べられていたなら、同人の記憶の実体がより明らかになるかもしれない。)。

さらに「今日風呂に行った時昨夜のお客さんに会った。」というのであるが、いわゆる「昨夜のお客」とは一体いつのことか。三一日に昨夜の客とかゆんべの客といえば、三〇日泊った客をいうのが通常であろう。しかし文子が「昨夜の客」とか「ゆんべの客」とかいうとき(文子が節子((カツエ))に対し「あの人はどの人ね。」の問いに対し「ゆんべの客」または「きのうの客」と答えたようであるが((再審第三回公判における文子の供述)))それは三〇日泊った客を意味するとただちに断定しえないものがあるということである。すなわち、三一日風呂に行く途中被告人に会った。そうして節子から「あの人はどの人ね。」と聞かれて「ゆんべの客」「きのうの客」よと答えたというのであるが、その会話の中では、そもそも「ゆんべ」泊った客か、「その前日」泊った客か、すなわち「いつ泊った客」かはたいして重要な意味を持つものではなく、要するについ「先日」の客が「身請け話」をしたというところに重点を置いた会話というべきである。そうだとすれば、客のことを表現し易い「ゆんべの客」とか「きのうの客」という言葉で表現したとみても身請け話に重点のある会話においてはそれほどおかしくないのではないかということである。そうして、文子は、本件再審公判で検察官の追及に対し、つぎのように答えている。

問「そうすると三〇日の日に泊まって三一日の朝帰ったお客さんのことは何というんですか。三一日に会ったら。」

答「私なんか、そうあんまりとんちゃくしていませんけれども、一応、きのうの晩に泊ったお客さんよしか云っていなかったと思うんですよね。」

問「それは先程云ったゆんべのお客さんと同じことになるんじゃないですか。」

答「それは私の言い方が悪いと思いますけれども一応二九日のお客さんということは私ははっきりしているんです。」

となっている。右の「私なんかそうあんまりとんちゃくしていませんけれども」というところは、まさにゆんべとかきのうの晩とかはその際たいして意味がなく「つい先日の客が身請け話をした」という点に重点のあった会話であったことをいみじくも物語っているのではないか。たしかに三〇日の客なら「昨晩の客」というであろう。しかし、二九日の客をどのように表現したらよいであろうか。「きのうの客」というか「おとついの客」というか、一瞬迷うところではなかろうか。いつの客ということにそれほど重点のない会話において「昨晩の客」とか「ゆんべの客」とか「きのうの客」とかいったことを余りにも重視することは、かえって真実を見誤ることになりはしないだろうか。

(ハ) この点の被告人の供述

ここで「泊った翌日文子に会った」という前記被告人の供述について触れると、「泊った翌日」という表現は、なるほど通常の用語では丸駒に泊ったつぎの日で三〇日泊なら三一日をさすであろう。しかし、右の供述は、原第一審第三回公判の終りころの供述であるが、それまでの追及的尋問で被告人も相当疲労し、頭も混乱し勝ちであったことは推測にかたくなく、右の供述の直前まで二九日丸駒泊、三〇日又市方泊、三一日山並方泊を訴えていたのであるから、尋問の前後関係からみて、もし「泊った翌日」=三一日会ったという答えが本当になされたのなら単に検察官のさりげない尋問に「落ちた」といってそのまま放置しておかれるようなものではなく、当然弁護人なり検察官から「そうすると三〇日に丸駒に泊ったことになるのではないか。」という具合にその矛盾を追及されるか確認されるのが普通と思われるのに、調書上それが全く出ていないことを考えると、訴訟関係人の間で被告人がいう「泊った翌日」が一体どのように受け取られていたのか疑問なしとしない。二九日から三〇日にかけて丸駒に泊り、その翌日なる意味で三一日と考えていたのではないかとさえ憶測される。だからこそ、それ以上の追及や確認的質問がなかったとみれば納得できる。また、もし三〇日午前八時三〇分ころ丸駒を出てその日の午前一〇時半か一一時ころ会ったというのであれば「丸駒を出て二時間ぐらいして会った」という表現になるのが自然で「泊った翌日の午前一〇時半か一一時頃」などまぎらわしい表現にはならないのではなかろうかという疑問があり、さらには三〇日午前一〇時半か一一時というのは被告人が平川食堂に荷物を受け取りに来たとされている時間帯でもある。いずれにしても被告人が「泊った翌日」会ったと供述する点をとらえて、これを検察官のさりげない質問に「落ちた」として三〇日丸駒泊を根拠づける事実とするのは、余りにも重大な事柄であるだけに前記のような疑問を考えると危険なことといわねばならない。

なお、当再審公判廷において被告人に右「泊った翌日文子に会った。」旨供述している点を糺すと、「それは間違いだと思う。」旨答え、それほど意に介していないふしが窺われる。原第一審第三回公判の二九日丸駒泊、三〇日又市方泊、翌三一日山を下りて山田郷で文子と会い、同日山並方へ行ったという明確な供述経過からみれば、ぽつんと「文子に泊った翌日会った」旨の供述部分は何かの間違いではないかとさえ疑われるところである。

最後に、被告人の23・1・17員面調書には丸駒を出た日文子に会ったという記載がない事実を考えるに、つまりもし三〇日に泊って三一日文子は会っているのが真実なら、同調書ですでに三〇日丸駒泊で翌日文子に再び会い山並方へ行ったとなりそうなものである。しかし、この段階では文子の24・1・16巡面調書を見ればわかるように三一日風呂に行く途中被告人と文子が会ったことを捜査官はつかんでいないようである(同調書にこの事実が出ていない)。被告人の同月一七日付員面調書では三〇日に丸駒に泊ったといっているのであるからもし本当に泊った翌日会っているのなら三一日に文子に会ったことを隠す必要は全くない。しかるに同調書に全くそのような記載がない事実は、泊った翌日会ったということが動かしがたい事実といえない一証左といえるのではなかろうか。

(4) 玉代について

文子の24・3・24原第一審第二回証人調書では

「丸駒に来て上ってからすぐ千百円払われました。」

「帳面に三〇日あやしみ千百円と書いてあった。」

旨述べ、24・7・12原第一審第五回証人調書では

「金は千百円もらいました。」

「帳場にはその金の中から私がチップとして三百円を取った残金八百円を渡しました。」

「帳面に金額八百円と書いてあるのを見た。」

「被告人から千百円受取ったのは調べてみた、その中から八百円かぞえて残り三百円は私が取り八百円は下の帳場に持って行って渡した。」旨述べ、つぎに24・1・24検面調書では

「三一日の朝、平素は八百円であるが正月前だから千円頂きたいがどうでもいいですというと先ず八百円渡したので帳場に納めたところ、その後でチップだと申して三百円を呉れました。」と供述し、三百円のチップについてねこばばといわれるのを警戒しているふしが窺われる。また24・1・16巡面調書(ただし刑事訴訟法三二八条書面)では

「(三〇日の晩)普通は八百円だが正月前ですからというとズボンの中から千百円出したので私が三百円取って帳場へは八百円下げて……。」

旨述べ、さらに29・12・20三次証言(ただし同条書面)では

「身代として一一〇〇円、私にチップとして二〇〇円やりました。」と述べ、最後に当再審第三回公判では

「一二〇〇円もらっている。八〇〇円帳場におろして、残った四〇〇円でうどんや果物を買った。」と述べている。

そうして、被告人の24・1・17員面調書では一一〇〇円文子に渡したと述べ、同29・5・11及び30・5・6各上申書では、代金一千円と果物代百円計一一〇〇円支払ったとなっており、被告人が文子に合計一一〇〇円支払ったことについては完全に一致している。

ところで、前記佐伯榮一郎の手帳には

一二月二九日 0 8

一二月三〇日 0 7

とあり、文子の玉代として二九日は八〇〇円、三〇日は七〇〇円を受取ったと記載されていることが認められる。この手帳の記載が極めて信用性の高いものとみるべきことすでに述べたのでくり返さないが、注目すべきは、右手帳は文子が当日の玉代やチップを述べた「後に」出てきたものであるということであり、文子の玉代に関する供述は、客観的証拠によって裏付けられたということになる(この点前記又市証言と配給通帳との関係と同様である。)。すなわち、被告人が文子に渡した金が一一〇〇円であることは、文子の供述や被告人の供述によって明らかに認められ(検察官も同様にいう・論告一八七頁)、そのうち三〇〇円を文子がチップとして貰い、残り八〇〇円を帳場に渡したという供述がまさに後になって出てきた佐伯の手帳によって裏付けられたという関係にある。

検察官は、被告人が文子に渡した金が一一〇〇円であることを認めたうえ、被告人の45・2・18民事本人調書によれば、その中に果物代一〇〇円も含まれていた可能性があり、一一〇〇円全額が玉代とも確定しがたく、またこれを受取った文子においても、三〇〇円のチップのほかに果物代をさらにその中から差引いたかどうかについて必ずしも正確な記憶を持っていたとも認定しがたいところである旨いう(論告一八七、一八八頁)。45・2・18民事本人調書は「私が金を百円出して果物を買ってきて、そして泊り賃は幾らかと云ったところが千円とかって云いましたから、千円出して……。」「女の人は果物を買いに行きました。」「結局千百円渡したことは間違いない。」という供述になっている。検察官は、一一〇〇円のうち一〇〇円は果物代で残り一〇〇〇円から文子が三〇〇円チップとして差引いた可能性もあることをいうのであろうが、前記のように文子の検面調書、原第一審第二回証人調書、同第五回証人調書、24・1・18巡面調書(刑事訴訴法三二八条書面)とも被告人からは一一〇〇円貰い帳場には八〇〇円持っていったと一貫して述べている(三〇〇円の内容はともかくとして)。したがって、一〇〇〇円からさらに三〇〇円を引いて七〇〇円を帳場に持って行ったと認定する余地はほとんどないといってよい。もっとも検察官は、文子の八〇〇円を帳場に持っていったという記憶の正確性自体に疑問を投げかけているようであるが(文子の八〇〇円が正しいとすれば検察官の論法でいくと被告人は計一二〇〇円文子に渡していなければならないことになる((再審公判では一二〇〇円もらい四〇〇円引いて八〇〇円渡したとなっているが))。しかし、被告人が文子に渡した金は、果物代も含めて一一〇〇円であることは45・2・18民事本人調書で明らかである。)、なるほど文子の供述は、前述のようにしばしば転々し重要な部分において客観的証拠に符合せず、にわかに信用できないものがあり、危険な証拠であることには違いないのであるが、だからといって、すべてがでたらめであるといってしまうのは相当でないことももちろんであり、大切なのは文子の供述のうちいかなる部分がいかなる理由で信用できあるいは信用できないかを見極めることである。同人の供述のうち、被告人が丸駒に登楼した事実、時刻、当日の被告人の服装や所持品、履き物、そのときの会話の内容などについてはほぼ一貫しており、他の証拠とも符合し、正確に供述していると認められるところ、文子が被告人から受取った玉代のうち帳場に納めた金が八〇〇円であることについても一貫している。文子は、丸駒の接客婦としてその日の玉代がいくらで、チップがいくらであったかということは最も関心の強いことであろうし、同女の供述中正月前だから云々という部分などは具体的で迫真性を帯びているものというべく、また帳場に納める金というのは店との関係であるから、チップなどにくらべその金額を厳格に考えるであろうし、後述するように接客婦が帳場に八〇〇円納めるか七〇〇円納めるかを自由に決めることができるものとは考えがたく、一〇〇円という果物代があったにしても、それは当事者である客と接客婦の認識として当然帳場に納める八〇〇円以外の金、すなわち、チップの方に入れる意識があると考えるのが通常であり、果物代というと、被告人も買ってきた果物を一緒に食べるとしても、それはやはりあくまでも相手に対するこころづけの意味が強く、客観的にもどちらかといえば帳場に納める身代とは別に文子個人が貰ったチップの方に入れられる性質のものであろう。なお、文子の29・12・20三次証人調書は「身代として一一〇〇円、私にチップとして二〇〇円やりました。」となっている。この証言はいわばチップを厳格に解し、果物代をチップから除外した計算であろうと思われる。しかし、右のように、広い意味では果物代はチップに含まれると解釈するのが普通であり、三〇〇円チップを貰ったというそれまでの供述は何らおかしいことはない。換言すれば、被告人から一一〇〇円もらい、うち三〇〇円チップとして文子が受取り残金を帳場に持っていったという場合、一〇〇円という果物代があれば、それは帳場へ持っていくべき残金からさらに一〇〇円差引かれるような性質のものではなく、むしろチップの三〇〇円の方から引かれるべき金と考える方が合理的であろうし、この場合の当事者の意識にも合致しているのではなかろうか。検察官がいう一一〇〇円のうちからチップとして三〇〇円を差引きそのほかに果物代一〇〇円を引き残七〇〇円を帳場に渡した(佐伯の手帳によれば三〇日の客は七〇〇円である。)とみることは、前記文子の「帳場に八〇〇円持っていった」という一貫した各供述に明らかに反するところであるし、前記のように当事者の通常の認識ともかけ離れてしまい、やはり無理な認定といわざるをえない。

なお、ここで金額の点について若干ふえんすると、佐伯榮一郎の手帳によれば、10、8、7、3という数字がほとんどであり9は見当らず、6、5、4は極めて少ない。すなわち同人の証言並びに検面調書によれば接客婦が玉代として帳場に納める金は、一〇〇〇円、八〇〇円、七〇〇円、三〇〇円というのが多かったことが認められる。それではこれらの金額はどのようにして決まるか、換言すればなぜこのような差があるのかということについて残念ながら佐伯に対し原第一審では聞いていない。しかし、特殊飲食店というようなところは、経営者と接客婦とはいわば金銭でつながっている社会といっても過言でなく、したがって前述のように接客婦が客から貰った金をいくら帳場に納めるかという点に関しては相当にきびしいきまりのようなものがあったであろうことは容易に推認されよう。つまり当日の客について帳場にいくら納めるかに関し、接客婦が七〇〇円とか八〇〇円とか自由に決めることはできず、例えば同じ泊り客でも宵の口に登った客とか午前零時をまわった深更に訪れた客とかで玉代を決めていたとみるのが合理的ではなかろうか(もちろん接客婦個人がチップとして客から貰う分は別であるが)。そのような認識を持って前記佐伯の帳面を見ると、まず帳場に納める金について接客婦が誰であるかによって差異をもうけていないこと、つぎに二三年一一月一二日から一二月三一日までの間における丸駒の四名の接客婦の玉代を確認すると、一〇〇〇円が約三八回、八〇〇円が約六九回、七〇〇円が約二五回であり、八〇〇円というのが圧倒的といってよいほど多いことがわかる。このようにみてくると佐伯の前記手帳の記載は、通常の時間帯に訪れた客からは八〇〇円玉代としてもらっていたことを物語っているのではなかろうか。七〇〇円と八〇〇円では一〇〇円の差であるが当時の一〇〇円というのは貨幣価値から考えて相当なちがいといえるから、七〇〇円の客というのは遅い時間に登楼するなど玉代を安くする特別の事情がある場合とみてよいのではなかろうか(なお、文子が客から貰った玉代をごまかすことがある旨の前記陣内ハナエの証言は、鍋屋で進駐軍の相手をしたときなどにはありうるかも知れないが、通常の場合は右にみたように考えられないことといえよう)。

前記認定したところによれば、被告人は丸駒に午後九時から一〇時までの間に登楼していることは間違いない事実であり(文子の24・1・24検面調書、第二回公判証言、前記時刻表、被告人の24・1・17巡面調書、原第一審第三回公判供述など)、また文子の供述によれば、正月前だからということで少し高めに要求しているぐらいであるから、被告人が登楼した日帳場に納める金を七〇〇円と通常より安くするようなことは、特に一見の客である被告人の場合考えられないように思われる。

また右にみたように玉代の圧倒的多数が八〇〇円であり、通常八〇〇円帳場に納めていたとすれば、文子の供述のうち「八〇〇円」を帳場に持っていった旨の金額に関する供述部分が正確なものであることも肯かれよう。

右手帳の二九日八〇〇円、三〇日七〇〇円なる記載は、佐伯、文子、被告人の前記各供述と相俟って、被告人が二九日丸駒に宿泊した事実を強力に推認せしめるものであって、他にも信用性が高い証拠が多数存在するので、検察官がいうように右手帳の記載「のみによって」被告人が丸駒に宿泊した日を一二月二九日と認定する必要はないけれども、少なくとも本件全証拠を検討しても、右佐伯の手帳の記載を打ち破るほどの反証は見出しがたいことは認めざるをえない。

(5) 気象状況について

検察官は、文子の「三〇日丸駒泊説」は被告人が丸駒登楼当夜傘を所持していたこと及び当夜の気象状況等によって裏付けられるとする。そうして、被告人が丸駒に宿泊した際傘を所持していたことは被告人自身も認めているところであり、また、文子の供述によっても明らかである。

二三年一二月二九日は終日快晴で全く雨が降らなかったのに対し、翌三〇日は曇り時々晴の天候で夜になって崩れ、午後九時三〇分ころからわずかではあるが雨が降り出したというのであるから、被告人が丸駒に登楼したのは二九日ではなくて三〇日がふさわしいというのである。

人吉測候所長作成の24・6・11回答の「気象状況概況」によれば、二三年一二月二九日には「早朝濃霧で寒い霜、氷あり、一〇時頃霧晴れ快晴、夜も快晴、月明なし」であるのに対し、同月三〇日は「早朝より曇っているが時々日も射す、夜二一時三〇分より雨月明なし」となっており、天候の状況は一応検察官のいうとおりであるように思われる。

しかし、人吉測第七二号57・4・3別紙の記録によると

二八日昼(六時~一八時)曇一時雨

夜(一八時~翌日六時)快晴のち霧

二九日昼(六時~一八時)霧のち快晴

夜(一八時~翌日六時)快晴のち曇

三〇日昼(六時~一八時)曇

夜(一八時~翌日六時)曇時々雨

となっている。右気象記録は前記24・6・11回答の記録よりやや詳しい内容のものであるが、二九日の夜(一八時から翌日六時まで)快晴のち曇ということであるから雨こそ降っていないが「快晴、夜も快晴(前記24・6・11回答の記録)」というのとは少し事情がことなるといわねばならず、また右五七年記録によれば、二三年一二月二〇日から同月三一日まで一二日間の気象状況は、実に同月二九日昼霧のち快晴、夜快晴のち曇となっているほかはすべて雨か曇りといういわばいつ雨に降られるかわからない連日雨続きで変り易い気象状況であったことが窺われ、したがって二九日実家を出るとき傘を持参したという被告人の供述はそれほど不自然なことともいいがたく、さらに検察官は、もし被告人が家を出るとき傘を持参したとしたら二九日平川食堂に荷物と一緒に預けているはずであるというが、縄(被告人は当再審公判では荒縄という)でしばった重い荷物やあまり上等といえないオーバーは色街を訪れるに体裁も悪く、邪魔になろうから預けるとしても(再審一三回公判本人供述四五九項以下)、傘はこれに比べ、体裁にも余り影響せず、前記当時の気象状況、ことに二九日の夜も曇ってきていること、当時非常に変り易い天気であったと窺われること、また人吉地方は霧が非常に発生し易いところである(前記各気象記録によっても認められる)から、夜や朝にはそれなりの効用も考えられることなどに鑑みると、被告人が二九日実家を出るとき傘を持参しそのまま丸駒を訪れたということがそれほど不合理ともいいがたいのではなかろうか。なお、文子の原第一審第五回の証人調書によれば

「泊った晩は少し雨が降りました。翌日は降りませんでした。」

「被告人が持って来た傘はぬれていたかどうかわからない、その時傘はきれいにたたんでありましたので……。」と述べているが、他方「翌日は雨が降っていなかったように思います。」とも述べている。しかし、気象記録によると三一日は雷雨まで降っている。文子の「泊った晩は少し雨が降りました」という供述のみを信用するのは片手落ちとのそしりをまぬがれない。

検察官は、被告人が二九日実家を出る際には傘を持参していないことの根拠の一つとして、原第一審第三回公判で被告人は自己が傘を所持していたことを全く供述していないことをあげている。また、二九日被告人に会った溝辺ウキヱも平川ハマエも被告人が同日傘を持っていたとは供述していない。

しかし、だから被告人は二九日傘を所持しておらず翌三〇日いずれかで傘を入手して丸駒に持参したとすることにはつぎのような疑問がある。一般論として犯罪の捜査というものがすべての事実について細大もらさず捜査し尽し、取調べにあたっては、そのすべてを調書にとどめることができるかというと、それは実際上不可能なことでもあるし、また必要でもない。捜査官が犯罪捜査上意味があると考える事実に非ざる平凡な事実は煩雑を避ける意味合いであるいは当然のこととして看過され調書に記載されないことはいくらでもあることは多言を要しない。本件傘の存在について考えると、当日の天気状況との関連でアリバイの成否と若干なりとも関係があると意識されたのは、原第一審の文子の第五回公判における証人調べの途中からであって、捜査段階ではそこまで意識されていなかったことが記録上窺われるのである。

そうして、溝辺ウキヱや平川ハマエさらには山並も傘について何ら言及していないが、同時に同人らは被告人が二九日夜所持していたことが明らかであるチャック付手さげについても言及していない。また、村上キクヱはチャック付手さげについては言及しているが傘のことにつき同様何ら触れていない。ということは当時捜査の焦点は鉈の所持と服装その他特に注目すべき所持品等にあったことを意味し、傘や手さげなど日常的なものに関心が行ってなかったことを意味するのではなかろうか。したがって捜査官がこれらについて供述を求めなかったり、目撃者もつい見落すか、印象に残らず供述をしなかったことも十分考えられ、前記溝辺や平川、山並さらには村上キクヱの各供述にないから被告人が傘や手さげを所持していなかったと速断することは問題であるし、また被告人が傘や手さげが焦点となっていなかった原第一審第三回公判の段階でたまたま供述していなかった事実をとらえて、直ちに検察官のいうようにみるのは相当でないものがあるというべきである。そうして当然のことながら傘を入手した経緯に関して本件では全く証拠がない。検察官はここでも三〇日実家かその他で入手したと推論する(論告一六九頁)が、その不当なこと後述する。

(五) 結論

文子の供述や証言は、被告人のアリバイの成否に直接かかわる内容のものであるだけに本件では特に重視されたのは当然であったかも知れない。しかし、前記のように同人の供述は二転三転し、加うるに同人が当時一六歳でありながら年齢を一八歳と偽って特飲店で働くいわば警察に対して弱みを持つ少女で、知能等も若干劣り性格的にも問題がありなかんずく記憶力に弱いという事実を考慮するならば、同人がどう述べたとか、それがどう変転したとかということに余りに深入りし、これをアリバイ認定の基本に据えるべきではなかったとの感を禁じえない。そうして事実文子証言の根拠は一つ一つ疑問が残り弱いものであることがわかった。

結果として、同人の供述中二九日泊という原第一審第五回公判の証言が正しいことになるけれども、これは文子証言のみから導かれるというよりは、むしろ他の証拠によって認定される結論に、同証言がたまたま合致するというだけのことである。前述したように文子の供述を検討する場合、一貫した供述はどれか、どの点が信用できるか、どの点はにわかに信用できないかを十分見きわめてかからないと大変危険な証拠ということになる。

以上のところから文子の原第一審第二回証人調書、検面調書、巡面調書で述べる三〇日丸駒説が信用できないことが論証されたものと解する。

3 半仁田秋義の供述

(一) はじめに

半仁田は当再審公判において、本件発生後数時間を経過した二三年一二月三〇日早朝午前六時三〇分か四〇分ころ、被告人が球磨郡免田町の被告人の実家において、衣服がぬれ、泥にまみれ、放心状態でかまどに抱きつくような異様な姿で暖をとっていたのを目撃した旨証言する。

右半仁田証言は、被告人の二九日丸駒泊というアリバイを崩す直接証拠であり、検察官は当再審公判において半仁田証言をもとに三十数年ぶりに被告人の逃走経路に関する冒頭陳述を書きかえた。並々ならぬ決断が看取されるところであるが、はたして半仁田証言がそれほど信用に価するものであろうか。

検察官は半仁田証言によって被告人の自供調書における逃走経路の「空白」が埋められたといい、当裁判所ものち自白の信用性の個所で詳しく触れるように、人吉市から免田町に至り、実家にも寄らずそのまま人吉市に帰った旨の自供調書にいう周回行動の不合理を強く感じるものであるが、検察官も自供調書のこの点の不合理を認め、これを逃走経路の「空白」という言葉で表現したものと解される。さらに検察官は、本件で最も問題とされている事項の一つである袢天、ズボン等着衣及び履き物に血痕付着及び汚れが認められなかったことについて、突如として実家に立寄った際に着替えたり、履き替えたりしたことで説明し、さらに傘についてもその際実家で用意した可能性を示唆する。確かに被告人が実家に寄っていた方がすべてことの説明に都合がよい。

しかし、そもそも半仁田証言がそれほど信用できるものであるかは慎重なる検討を要する。そうして、半仁田証言の信用性が崩れれば、再審公判において検察官が立証しようとしている重要な主題自体が崩れ、多くの点でその主張の根拠を失うことになるのである。

当裁判所は、前述のとおり被告人のアリバイが明らかに認められるとの結論に達したのであるが、文子の供述を検討したのと同様以下当裁判所の右結論が正しいことを検算する意味で、半仁田証言が信用できないことを論証する。

(二) 三三年目の証人

第一点は、半仁田証人は事件から三三年経過した後に突如として現われた証人であるということである。そうして、同人の証言するところは確かに特異な体験を内容とするものであることには違いないようであるが、結局客観的裏付け証拠を欠くか若しくはそれが極めて乏しい、いわば言い放しの供述証拠にすぎないといわれても致し方がない。

弁護人がいうように法は公訴時効の制度を設けている。時効制度の存在理由についていろいろ議論はあるが、時間の経過による犯罪の社会的影響の微弱化と証拠の散逸による公正な裁判の実現の困難性とが、時効制度を認める主要な根拠であることは否定できない。証拠の散逸の中にはもちろん記憶の減退も入る。弁護人のいうように三三年前の目撃証人は証人適格がないとまでいえないにしても、三三年前の経験についての「供述証拠」については、その信用性に関し、特段の吟味が必要なこと当然であり、確かな証拠により裏付けがなされない限り、これを全面的に信用することは大変な危険を伴うということを覚悟しなければならない。そうして、前述のように、本件では半仁田証言を裏付けるような客観的に信用性の高い証拠はないのである。

(三) 榮策、トメノ及び被告人の自白調書と半仁田証言

半仁田証言にいう対話の相手たる榮策はすでに死亡し、同人に事実を確かめることはできないが、右半仁田の証言するようなことは、本件捜査段階から原第一審、再審請求の各段階を通じ、現在までその片鱗も見られなかったものであり、またこれに符合するような同趣旨の証拠も全く存在しないという事実がある。半仁田のいうところが事実とすれば、一体捜査官は何をしていたのかといわれかねない。

しかるに、対話の相手である榮策の三三年前の調書が残っている。同人の24・1・27検面調書にも、24・3・5原第一審証人調書でも被告人の二三年の年末から二四年の年始にかけての行動が比較的細かく述べられており、これは同人の取調べは主として被告人の足どりを調べる目的があったであろうことから当然のことではあるが、被告人が二三年一二月二九日家を出て以来二四年一月の初めまで一度も家に帰っていないことをはっきりと述べており、被告人の当時の行動について最もよく知っていたと思われるトメノも同様に三三年前の調べや証言で被告人が二三年一二月二九日に家を出たきり、二四年一月九日夜具等を取りにくるまで全く帰っていないと述べている(同人の24・1・17巡面調書、23・3・5原第一審証人調書)。

重大な犯罪を犯した者が隠れ場所として故郷を目ざして逃走するということは犯人の心理として理解することができる。しかも自供によれば実家のある免田町まで来たというのであるから、当時の捜査官も当然被告人は実家に立寄ったのではないかと一応考えたのではなかろうか。実家にも寄らず、休息もせぬまま、何のために警戒のきびしい人吉に行ったか、これは後に自白調書の信用性の個所でも触れるように誠に不可解としかいいようがない。捜査官も容易にその不合理に気付くはずであり、トメノや榮策を二四年一月一七日に黒田の自宅まで出向いて取調べた黒木助三郎巡査は当然被告人が三〇日家に立寄ったのではないかと尋問し追及したはずである。そうして、もし真実被告人が三〇日実家に立寄った事実があるなら、トメノにしても榮策にしてもこの事実を敢えて隠すというような工作をするとは考えにくいのではなかろうか。田舎で農業を営む純朴と思われる同人らがとっさにそこまでの工作を思いつくとも思われないし、ましてや足どりを調べに来た黒木巡査がそのような工作を見破れぬはずはない。同人らの24・1・17前記巡面調書を一読すれば、すんなりと自然に被告人の足どりを述べているように読みとれる。黒木巡査もトメノ、榮策が真実を素直に述べた、すなわち被告人は三〇日実家に寄っていないとの心証をとってそのような調書になったのではなかろうか。

もっとも一月一七日の段階では榮策やトメノが被告人をかばって敢えて供述をしなかったと考えるむきもあろうが、榮策の右1・17巡面調書四項は「黙って家に居てくれたら、警察にも迷惑をかけないのに。」という趣旨のことを述べ、すでに被告人が本件を犯してしまったのかと思っているふしが窺われ、被告人をかばい立てしているような供述は全く見られず、さらに同人の24・1・27検面調書では榮策が「このたび榮が世間をお騒せして誠に申訳けない。」旨の心境を吐露したうえでの調書であるが、そのような段階になってまで、すなわち、最早被告人をかばうという余地がない段階に至ってまで、敢えて供述を避けねばならないような事項であるとは思われないことを考えると、榮策やトメノが被告人をかばい立てして供述をしていないとみるのは間違いであると解する。同人の24・3・5原第一審証人調書も同様である。

また、当然のことながら、三三年前の被告人の調書にも全く見当らない事実である。検察官は被告人が家族の者らに類が及ぶのをおそれて敢えて供述しなかったとしきりに強調するが、一体どのような類を考えているのであろうか。考えられるのは犯人隠避の嫌疑ぐらいのものである。しかし、犯人隠避などということは、一般市民の念頭に直ちに浮ぶことであろうか。三〇日早朝実家に立寄ったことを供述することによって家族の者が被るであろう迷惑などは、被告人が強盗殺人を犯したことを自供したことによって家族らが受ける衝撃と比べ全く比較にならないほどのことである。強盗殺人を自供した者が敢えて隠さねばならないほどのことでないこと明白というべきであろう。

事実を確認すべき榮策は死亡し、同人に事実を確かめる術はないが、古色蒼然たる榮策、トメノの三三年前の巡面調書、検面調書、証人調書が、半仁田証言に対し物云わぬ強力な弾劾をしているとみることができよう。

(四) 本件を申し出るに至った経緯

半仁田証人は三三年を経て突如として現われた証人であるがゆえに申し出るに至った経緯は徹底的に検討されねばならない。

半仁田は、本件を届出るに至った経緯について「昭和五六年四月ころ、被告人が再審公判のため福岡の拘置支所から八代の拘置支所に移監されるという記事を読んで再審開始のことをはじめて知った、家族とも相談のうえ同年五月ころ、居住地近くの浦和地方検察庁越谷支部に電話した。」旨述べている。

当再審第八回公判において、裁判長の質問に対しつぎのように答えている。

問「ところであなたは新聞はよく見るほうですか。」

答「見ます。」

問「今度の再審開始になるということを知ったのは昨年(五六年)四月頃ですか。」

答「はい、四月頃だと記憶しております。読売で見ました。」

問「申し出たのが五月頃ですか。」

答「その頃だと思います。」

問「この再審は第六次再審までやっているんですが、第一審が再審棄却になって高裁で再審開始決定が下ったのは昭和五四年九月二七日なんですが、それは知りませんか。」

答「読んでいたかどうか、それは記憶にないんですが。」

問「大分、新聞にも大きく出たようですが。」

答「東京の方は免田事件というのは新聞にはめったに載りません。」

問「それから最高裁の決定が、今度の第六次について高裁の決定に対する特別抗告についての決定が昭和五五年一二月一一日なんです。これも知りませんか。」

答「私が一番憶えているのは、昨年四月頃の記事で、現在もその当時も読売を読んでいますので、読売に載ったのがきっかけで私は又考えるようになったと思います。」

問「その前にはこの事件に関する記事は見ていませんか。」

答「記事は見ておりません。」

問「間違いありませんか。」

答「ええ、見たような記憶がありません。」

と証言していながら、約半月後の第九回公判では検察官の質問に対しつぎのように答えている。

問「ところであなた、まあ新聞をどの程度見ていたかということですがね、会社を定年退職する前と後で何か違いがありますか。」

答「会社に勤めていました五五年一一月ころまではほとんど新聞は見る暇はなかったように思います。で退職しましてからも、二、三か月はいろいろやることが多くてから見ていないんですが、それから余裕ができてから、新聞を見るようになりました。」

問「あなたが退職した年の暮れに最高裁で再審が確定したという記事が東京のほうでも載ったのではないんですか。」

答「載ったらしいんですが、私はそれは見た記憶がありません。」

問「そういう趣旨で前回裁判長には話したということですか。」

答「はい。」

問「会社に在職当時新聞をよく読まなかったのはどうしてなんですか。」

答「まあ、守衛は三名おりましたですが、当時、私、責任を持っておりまして、工場の鍵を開けたり、準備のため、一時間位早く出ていました。ほとんど私、うちは六時ごろ出まして、晩には、残業も多かった関係でもう疲れていたから、まあテレビ番組をたまに見るぐらいで新聞はほとんど読んでおりません。」

と述べ、さらに裁判長の質問に対し、つぎのように答えた。

問「今の点ね、どうして前回そういうふうに答えなかったんですか。」

答「それが分からなかったもんですから……、現在のことかと思いまして、新聞読んでなかったんですが、やはりもう、最近暇ができましてから、新聞もある程度読んでおります。」

問「ですからね、速記録を読み返すと前回の質問は現在のことではなくて、五四年当時のことをぼくは聞いているわけですけどね。その時にいやその時は仕事が忙しくて新聞見る暇がなかったんだという答えがないもんですから……。」

答「はあ、そう申し上げればよかったんですが。」

問「新聞のことについてもう一回聞きますが、あなたは独自で読まないとしても、家族の人は読みますか。」

答「うちはちょっと女房も外に勤めてまして、読む者はいなかったと思います。まあ、テレビの番組ぐらいの程度で。」

問「ああ、新聞とっても読まないと……。」

答「はい、そういうような状況でございます。共働きでみんな働いておりますので。」

ここで職権証拠番号九六ないし一二八、新聞切り抜き(東京版各紙の写)を示す。

問「全然気が付かなかったんですか。」

答「気が付きませんでした。」

問「テレビのニュースでも見ませんでしたか。」

答「ニュースは、あれは後だと思います。あの女の人の何かの番組の中で見ましたけれども……。」

問「いや再審開始当時の……。」

答「それはニュースでは見ませんでした。」

問「家族の人も云いませんか。」

答「はい、何も云わないです。見れば、女房が話すはずですけど。」

と答えた。

半仁田証人との問答を長く引用したが、右問答の中に同証人が本件を申し出るに至った動機の不自然さがよく現われているからである。

まず、半仁田は当再審公判における証言で、免田事件(本件のこと)の再審が開始されることを知ったのは、五六年四月ころ読売新聞で免田被告人が再審公判のため福岡拘置支所から八代拘置支所に移監されるという記事を見てはじめて知ったということを固執するかのような供述をしている。そうして、新聞はよく見る方であるといいながら、五四年九月の本件に関する福岡高裁の再審開始決定及び五五年一二月の最高裁の特別抗告棄却決定の記事はいずれも見ていないといい、その理由として「東京地方では免田事件というのは新聞にめったに載りません。」とまで第八回公判でいっていながら、第九回公判で各紙がすべて大々的に報道している事実を示されると、新聞はとっていたが当時は忙しくて読む暇がなかった、前回新聞をよく読む方だといったのは、五五年一一月退職後二、三か月してから及び現在のことだと思って答えたなどその場しのぎの苦しい弁解をしており、テレビのニュースでも見なかったし、家族からも聞いてないという。しかし、ほかならぬ自己の郷里の事件で、事件当時から三十数年間脳裏を離れることのなかった事実を目撃している同人が、前記五四年九月の高裁決定や五五年一二月の最高裁決定に関するニュースを全く見ておらずあるいは見落し、耳にも入らなかったというのは、マスコミュニケーションの発達した現代社会に生きる者としてはいささか奇異といわざるをえず、不自然といわれても致し方ない。

ことに半仁田証人はかって刑事被告人として一度裁判を受けたことがあり、本件事件についてはすでに警察の手を離れていると思って「検察庁」へ電話したなどと証言していることから推せば、同人は一般市民の水準よりかなり高い法律知識をも身につけている一面があるように窺われるのであるから、なおさらである。

そうして、同人の再審が開始されることを知った日に関する公判での右証言部分が真実に反するものであることを実は同人が自ら五六年六月一九日に検察官に述べているのである。すなわち、同日付検面調書の第一七項にはつぎのようにいう。

「ところで私が免田榮の異様な姿を目撃した状況を最近になって検察庁にお話しするまで私は外部の人にその事をいいませんでしたが、私なりに事件のことが気になり、榮が死刑判決確定後も何度か再審請求をしていることを新聞記事等で読んでわかっていましたが、私の体験に照らし、榮が犯人であると思っていたので、まさか再審が開始されるとは思ってもいませんでした。ところがこの度再審開始が確定して、裁判のやり直しが始まることを新聞やテレビで知り、私の目撃状況に照らせば榮が犯人であると思っていたので、私自身榮には個人的なうらみはなく、このころまでに妻から多分妻の兄の甲義人の葬式で熊本県に戻った際かとも思いますが、榮策さんが亡くなった事を聞いたので、私はもう榮策さんに気がねする事はなくなり、自分なりにどうしても榮が犯人であると思い、私が榮の異様な姿を目撃した状況を警察にお話して何かの参考になればと思ったのですが、その時はまだ私は仕事を持っており、この事を通報して手間を取られたりする事をはばかり、その気持が正義感よりも勝って通報しなかったのですが、昨年一一月に定年退職してから一段落し、生活上も余裕が出て来た矢先、今年五月ころの記事ですが私宅でとっている読売新聞に、いよいよ再審裁判が始まるということで榮が福岡の拘置所から八代の拘置所に移監される記事が出たのを見て、私はその時までずっと榮の異様な姿を目撃した事が頭に残っていて通報しようかどうか気にやんでいたので自分でいうのも変ですが、間違った事はきらいな性格なのでもし私の目撃した話が何かの参考になればと思い、定年退職した後で生活上の余裕も出て来たので、私は関係機関にお話しようと思う気持になり……。」と述べている。

右の供述からすれば再審開始が確定し、裁判のやり直しが始まることをすでに新聞やテレビで知っていたが、その時は手間を取られたりすることをはばかり通報しなかったところ、一一月に退職してから余裕ができた折五六年四月ころの記事で身柄が移監されることを知ったので、正義感から同年五月ころ通報したということになるのではないか。公判において正義感が強いと自称する証人にしては、手間ひまと天びんにかけて通報をはばかるなど誠に妙な正義感ではあるが、右検事の前でいったことは、それはそれなりに理解できないではない。

しかし、当公判において再審開始を五六年四月ごろ、はじめて知ったことを強調するのはなぜであろうか。かたくなに固執しているとさえいえる。思うに、五四年九月や五五年一二月の時点ですでに再審開始のニュースを知っているとしたら、五六年五月検察庁へ通報するまでに余りに時間が経過しすぎていることの不自然さを糊塗せんがため五六年四月を固執しているのではなかろうか。同人は正義感の強いことを自称しているが、五四年九月や五五年一二月の再審開始決定に関する記事を読むと、すでに無罪が確定的であるかのような印象を読者に与える内容のものであることは何人も否定しがたいところ、もしこのような記事を同人が見ているとして、五六年五月まで通報していないとしたら、一体半仁田証人の正義感はどこへ行ってしまったのだろうか。この疑念を払拭できるような供述をもとより半仁田証人の口からついに聞くことができず、この当然の疑念を糊塗せんがための強引な弁解に終始しているのである。通報、出頭の動機において不可解な証人といわれても致し方あるまい。検察官は、半仁田のいう手間、暇、わずらわしさを避けた心情は理解できるというが、同人は正義感が強いことを自称しているのであるから、真実同人が証言するような事実を目撃し、被告人が犯人であると信じているのであれば、暇の出来た五六年五月を待つまでもなく、敢然と申告しているのが当然ではなかろうか。本件では申し出の動機及び時期の不自然さを検察官がいうようなことでは説明できない。

(五) 証言内容について

(1) はじめに

検察官は、半仁田は三十数年前の体験をその記憶に基づいて証言したものであるから、その意味で記憶内容の正確性については慎重に検討する必要があることはいうまでもないとしながら、同人が目撃したのは厳寒の年末の早朝、衣服がぬれ、泥にまみれたままかまどに抱きつくような格好で暖をとっていた被告人の姿であり、これは同人にとって極めて特異な体験であり、しかもこれを目撃した十数日後に新聞報道で被告人が本件の犯人として逮捕されたことを知り、その時間及び目撃状況から自己が目撃したのは、被告人が本件犯行直後自宅に逃げ帰った際の姿であったと考えるようになり、目撃状況は本件犯行と関連づけられてその脳裏に強烈な印象として深く刻み込まれたものであり、体験の基本的部分については迫真力に富み、臨場感あふれるものであって現実にその状況を目撃した者にして、初めて証言しうる内容のものであって、いささかの作為も窺われず、さらに公判廷において、弁護人らによる厳しい反対尋問を受けながらも、動揺することなく、淡々とかつ一貫して語られている旨半仁田証言の信用性が高いゆえんを強調する。何が体験の基本的部分かというと、厳寒である年末の早朝に、被告人が衣服がぬれ泥にまみれたままマラリヤでも起きたようにがたがた震えながら燃えさかえるかまどに抱きつくような格好で暖をとっていたこと、被告人は放心状態にあり、半仁田が声をかけても振り返りもしなかったこと、被告人を見たあと、同人の父榮策と用談したことなどであり、その際の被告人の服装の詳細、かまどの正確な位置あるいはその個数、さらには榮策方の家の正確な構造などは枝葉末節的部分であり、これらについて正確に記憶していないとしても、これが証言全体の証明力を減殺する事由たりえないとする。

半仁田が証言する目撃状況は、もしそれが事実とすればなるほど特異な状況であって、簡単に忘れ去ってしまうようなことでないことは検察官がいうとおりであろう。また目撃した事項というのも、つきつめれば被告人が震えながらかまどに抱きつくような格好で暖をとっていたということにつきるのであるから、そのような状況を目撃したとの証言自体を、見ていないのではないかと弾劾しようとしても水かけ論に終ってしまう可能性が強い。むしろ検察官のいう体験の基本的部分以外の事項というまわりからその信用性をテストする以外ない。そのような観点から前記六、3の(一)ないし(四)を検討したのであるが、ここでは証言内容自体の中で問題となる点をとりあげる。

(2) 着衣の汚れ

半仁田の証言によれば、

「被告人は、はんてんを着ていたと思う。」

「ズボンをはいていた。」

「ぬれてはんてんもズボンも泥にまみれたような格好だった。」

「田んぼか何かで足を取られて滑って転んだりしてたんじゃないかと想像した。」

となっており、56・6・4検面調書(ただし、刑事訴訟法三二八条書面)では、

「榮さんは頭の先から着衣まで全身ぐっしょり濡れ、着衣は泥のようなものでひどく汚れていて丁度田植えをして田圃から上がってきたときのようであり……。」と述べ、同じく56・6・19検面調書では「上衣の肩口、背中あたりに泥がかなりついており、その生地がはっきりしない位に汚れていた。」となっている。

ところで、被告人がはっぴ(はんてん)を着ていたとする点がまず問題である。被告人が一二月二九日実家から持参したはっぴは当夜黒い布に包まれた荷物の中に入っており平川飲食店に預けられたことは検察官も認めている(論告四五四頁)。そうだとすれば「自白の信用性」で詳しく述べるように、被告人が孔雀荘を出た後犯行までの間に別のはっぴを手に入れたとすれば格別、二九日夜はっぴを着ているはずはなく、したがって三〇日早朝実家で汚れたはっぴを着ているはずもないのではなかろうか。別のはっぴを手に入れることも考えられないし、もとよりそのような証拠は全くない。被告人の自白調書中はっぴを着ていたとする部分は客観的事実に反していると思われるところである。しかるに半仁田証人が被告人ははっぴを着ていたと明言するのは、第一に疑問とされなければならない。

つぎに、同日の午前一〇時か一一時ころ被告人に会っている平川ハマエは検面調書において

「翌日の服装も前の日の服装と同じ、上下とも国防色の白けたものを着ていた。別に変った事も気付かなかった。被服類がぬれたり、血がついた様な点も気付いていない。」旨供述しており、これを裏付けるかのように後に鑑定の結果被告人の着衣等から血痕付着の証明が得られなかったという厳然たる事実がある。

検察官もさすがにこの矛盾を看過できないと考えたためか、押収された着衣等は被告人が犯行時に着用していたものでない可能性が強く、着衣等に関する自白は被告人が故意に虚偽の供述をした疑いが濃厚であるとし、被告人は本件発生の一五日後に逮捕され、その間実家や知人方に何回も立寄ったことが明らかになり、その時被告人の着衣がぬれ泥にまみれており(このことは着衣を川で洗ったことを示している。)また素足でかまどで暖をとっていたことからして、別の着衣に着替え、別の地下足袋に履き替えたものと十二分に推認できる(被告人の着用していた衣服は当時における極めて一般的なものであるから、同様のものがあったであろうこと、また農家であるから、同じような地下足袋があったであろうことは想像するにかたくない)と主張するに至った。

当裁判所は、検察官の右着替え説は、当再審公判において、検察官が半仁田証言に基き、被告人が犯行後免田町の被告人の実家に立寄った旨冒陳を訂正した事実及び被告人が最初に俣口の又市方を訪れた日が二三年一二月二三日であるとした事実と並ぶほどの重要な意味を有するものと受け止めざるをえない。

検察官はさらに続けて、被告人は実家の者や知人に迷惑がかかることをおもんばかり捜査官に対し、着衣を着替えたことなどを隠し、嘘の供述をしたものと思料されるという。なお押収された袢天は、被告人が一二月二九日風呂敷に包んで平川ハマエ方に預け、翌三〇日受取り、二四年一月四日に「俣口」に持参した可能性が強く、本件当夜袢天を着ていたとすればそれは押収された袢天とは別の袢天であるかのごとき主張さえしている(論告四五四頁)。このように着衣に関する矛盾は証拠上いかんともしがたく、検察官もこれを認めざるをえなかったのであるが、この疑問点を検察官は弁護人の言葉を借りれば、証拠上全くあらわれていない「着替え」という奇手をもって見事に解明したということになる。

なるほど検察官がいうように着替えたということになれば、これら厳然たる矛盾点を一応それなりに説明できないではない。しかし、検察官のいう着替え説は、事件後三三年を経て初めて主張された事実であること、これを積極的に立証するような証拠は全くないということをまず第一に指摘しなければならない。

検察官は、被告人が犯行後着衣等を着替えた場合にもこれが他の証拠となんら矛盾しないとして、いくつかの証拠を掲げ検討を加えている。しかし、そこに掲げられている証拠によっては着衣を着替えた事実を積極的に認定できないことは明らかである。せいぜい着替えた可能性を認める余地がないわけではないということではなかろうか。例えば、平川ハマエの24・3・4原第一審証人調書によれば、被告人は本件犯行前後を通じて同じ着衣を着ていたものと認める余地がないわけではないがとしながら、たまたま「洋服は黄色い色のように思います。」との供述部分をとらえて、そのように断定することはできないというのであるが、色あせた国防色はどちらかというと黄色系統であろうし、平川ハマエの前記供述を素直に読むならば、「同じ着衣を着ていたものと認める余地」どころか「同じ着衣を着ていたものと認める」のが常識的で素直な事実認定であること多言を要しないのではなかろうか。

検察官の論旨は、要するに被告人が犯人であるから着衣に血痕が付着したり着衣が汚れているはずである。しかるに汚れておらず、血痕も付いていないのは、証拠はないけれども着衣等を着替え、地下足袋も犯行時はいていたものと別のものだと認定するのが相当であるとしているように思われてならない。

つぎに、検察官がいう被告人が一部嘘の自供をしたという点についても、被告人が実家に立寄った点を故意に供述しなかったとする検察官の主張に関してすでに触れたと同様の理由で、はなはだ納得しがたい主張である。また、被告人に着衣や履き物について故意に事実を隠ぺいし、嘘の自供をするほどの余裕があったであろうか。なかったとみる方がはるかに常識的である。検察官の着替え説は、本件捜査が極めて不備が多くかつ不十分であることを念頭に置いての主張であろうと思われるが、それにしても大胆な証拠に基づかない危険な推論であるといわれても致し方ない。

(3) 約一時間の間榮策一人であったとする点

半仁田の証言によれば、同人が榮策方の居間にいた一時間位の間に一家の主婦である榮策の妻トメノはその部屋に顔を出さず、榮策以外の者についてはその気配さえ感じなかったということである。

早朝であるといっても午前六時三〇分から一時間といえば午前七時半ころになる。そうしてかまどには二個か三個かはともかく火が燃え、朝食の準備中ではないかと思ったというのであるから障子一枚を隔てた居間にいる同人が炊事場の人の気配を一時間の間全く感じなかったというのも奇妙であることは否定できまい。検察官は、熊本県の山間部において一家そろって応待するというような風習があったものとは思われないというが、応待するか否かはともかく、午前七時半ごろまでの間榮策と半仁田二人が焼酎を豚肉をさかなに飲みかわし(半仁田は三合か四合飲んだという)ているのに、大家族であるはずの免田家において、他の家族の者の気配もなく、ちらりと見かけた被告人もいつの間にかいなくなっていたというのである。一体朝食の準備はどうなったのであろうか。鍋や釜は一時間もそのままだったのだろうか。来客があったとき、主人以外の他の家族は口をきいてはならず、じっと息を殺していなければならないという風習でもない限り不自然といわれても致し方ないのではないか。

(4) 被告人の態度

半仁田は、榮策方を訪れた際の状況について、榮策方に入る前に戸口の外から、その頃年も若かったから相当大きい声で案内を請うたところ榮策が半仁田さんじゃろうといった。戸の外に立っていても聞えるような大きい声であった。これらの声を聞いても、被告人は身を隠すなどの行動に出なかったと証言する。検察官は、被告人は放心状態で周囲のことにまで気が回らない状態にあったものと推測されるから、身を隠すなどの行動に出なかったとしても何ら不審を抱くべき事柄ではないという。

榮策と証人だけが大声で話をし、他は無言で物音も感じないというような状況は、まるでパントタイム(無言劇)を想起せしめ奇妙であるが、いかに放心したような状態といっても、犯人であれば一番恐れることは、いかにも犯行現場から逃走してきたかのような、いわば半仁田が証言するような特異な姿を第三者に見られることではないだろうか。被告人がもし四人を殺傷し、人吉市の北泉田町から、深夜実家である免田町まで逃走してきたのが事実であるなら、その目的は恐らく人目を避け、我が家に身を隠したいとの一心からではないだろうか。少なくとも他人の目から隠れるという意識が相当の比重を占めていることは否定できまい。そのような観点で半仁田が証言する前記被告人の行動を見るとき、やはり不可解、不自然といわねばならない。

(5) その他弁護人の指摘する点

半仁田証言の信用性に関して弁護人は、特に免田家の当時の家の構造、かまどの数、位置が実際と異るかあるいは同人の供述が転々としてあいまいであること、同証人の記憶が正確性を欠くことについて復員の日や草加市に移住した時期について不正確な証言なり供述をしている点を指摘している。

これに対し検察官は、かまどの正確な位置あるいはその個数、さらには、榮策方の家の正確な構造などは付随的に体験した事柄に過ぎず、枝葉末節的部分というべく、半仁田が三十数年後に正確に記憶していないとしても、これが証言全体の証明力を減殺するものとはいえない旨主張する。

しかし先にも触れたが、検察官がいうように証人の体験の基本的部分と枝葉末節的部分を区別することは、やはり何が基本的部分で何が枝葉末節的部分かについてはそれほど明確とはいいがたいものがあって相当でなく、また検察官がいう体験の基本的部分というのは要するに被告人が早朝榮策方のかまどに抱きつくようにして暖をとっていたのを目撃したということにつきるのであるから、これを同証人に見ていないのではないかと追及しても、前述のように水かけ論に終ってしまう可能性が強いのであって、むしろさりげなく証言なり供述をしているその他の重要な(枝葉末節とは片づけられない)事項をめぐって記憶の正確性や証言の信用性が吟味されなければならないこと当然であろう。そのような観点から弁護人の指摘するいくつかの点をみるとき、半仁田証人が証言や供述全体を通じ比較的確信を持ってはっきりと述べているものと受け取られるがゆえに、家の構造とか、かまどの位置及び個数、復員の日や草加市に移住した日について正確ならざる記憶しか持っていないのではないかという疑いが、逆に半仁田の証言なり供述の全体の信用性に影響を及ぼすといわざるをえない面があろう。

(6) 証言中鮮明かつ詳細にすぎる点

検察官は、先にも触れたように三三年前の経験についての供述であるから枝葉末節的な事柄について記憶が曖昧になるのは当然であるというのであるが、逆に半仁田証言全体を通じて、目撃事実に関係あると思われる問題のところは、余りにも詳細に記憶しすぎているのではないかとの印象を受ける個所が目につく。例えば、「本件馬の取引につき昭和二三年の一〇月の末ころにあった。代金は一万四〇〇〇円か一万五〇〇〇円だった。」「一二月三〇日朝の天気はいい天気だった。非常に寒く霜は若干降りていた。」「飲んだ焼酎の量」「免田家を出たとき太陽は薄ぼんやりと見えていた。」「農耕用の馬車も引けるような馬というような注文だったと思う。」「空を見ますとまだ星なんかもその朝出ていまして……。だから天気はいいなというふうに感じました。」「満天の星じゃないんですけど、ちらほら見えていましたので……。」「自分の家のそばは若干霜が出ていた。」等々。

ちなみに前示人吉測候所観測記録(人吉測第七二号、57・4・3別紙)によれば、二三年一二月三〇日の天気概況は昼(六時から一八時)曇、夜(一八時から翌日六時)曇時々雨と記録されており、右半仁田のいう三〇日の天気状況と合致しない。人吉地方と免田地方のちがいも考慮しなければならないであろうが、「いい天気で、ちらほら星も見え、太陽は薄ぼんやりと見えていた。」などと証言するような天候ではなかったのではないかと思料されるところであり、それにしても、もし客観的事実に符合しないことを口から出まかせいっているとすればもちろんのこと、そうでないとしても、検察官の言葉を借りれば付随的に体験した枝葉末節的部分について、余りに詳細に記憶しすぎているのではないかと疑問視され、かえって作為すら感じられるところである。

なお、検察官は、半仁田の証言によると、「かねてより榮策から『被告人がうちの米を持ち出して困る』などと愚痴を聞かされたりしていた。」という点をとらえ、被告人が当時実家から米を持ち出しそれについて榮策が愚痴をこぼしていたという事実は、右証言によって初めて明らかになった事柄であるところ、右証言のあと再審第一三回公判における被告人質問において、被告人は、検察官の質問に対し「(小遣銭は)家内に内緒でやみ米を売っていた。父にこのことで叱られたことがある。」旨右証言を裏付ける供述をしているのは、半仁田証言に信用性があることを物語るものであり、しかるに、被告人は半仁田を全く知らないと供述している(再審一二回公判供述など)が、右供述は到底措信できないという(論告二八〇頁)。

なるほど右検察官の指摘は一応理由なしとしない。しかし、半仁田が本件で被告人が逮捕されたのを知ったのが、同人が供述するように当時の熊本日々新聞の報道によるものであるとしたら、同人の56・6・19検面調書に添付されている24・1・19同新聞には「金につまった青年のしわざ」との見出しのもとその記事の内容として被告人の遊興状況が若干記載されていることが窺われる。当時家が中農で米を作っており、息子が遊興して強盗殺人に及ぶほど金に困っていたというのであれば、家の米を一度や二度といわず持ち出すことは半仁田証人ならずもまず第一に念頭に浮かぶことではなかろうか。

右半仁田の証言をもって、検察官がいうほど半仁田証言が信用性があることの証左とみるのは相当ならざるものがあるし、仮りに半仁田が榮策からそのようなことを聞かされた事実があるとしても、半仁田証言によっても同人は免田家の家族とそれほど親交が深かったとは認めがたい。否むしろ榮策以外とはほとんど親交がなかったかのように窺われる半仁田を被告人が全く知らなかったとしても、それほど異とするに足りないのではなかろうか。

(六) 結論

かくて三三年目に登場した半仁田証人の証言には、年月の経過をみただけではなはだ危険な供述証拠であるといわれてもいたしかたないのみならず、同証言によっては同人が当時免田家に何回か出入りしたことがあるかも知れない程度の心証を抱かせることはあっても、被告人が二三年一二月三〇日の早朝、免田町の実家でかまどに抱きつくようにして暖をとっていたなどという事実は到底認めることができず、いわんや、前記のように極めて証拠価値が高いと思料される物的証拠並びにこれらに裏付けられた各証拠によって認められる二三年一二月三〇日又市方泊、したがって同月二九日丸駒泊のアリバイを崩すほどの証拠ではないと結論する。

半仁田証言が右のようなものであるとすれば、検察官が当再審公判において、被告人の自供内容に反してまでも敢えて行った冒陳の修正及び着衣等の着替え説はその根拠を失うことになること多言を要しない。

すなわち検察官は、当再審公判において、事件より三十数年を経過した時点に至ってはじめて被告人が逃走の途中免田町黒田の実家に立寄った事実及び同所で着衣等を着替えた事実を打ち出したが、この二つの事実は、はじめに述べたように半仁田証言が信用できることを前提にしての立論である。そうして、半仁田証言を信用するということは、反面これに矛盾する被告人の自供部分が真実を述べていないことを認めるものであり、検察官がしきりに被告人が家族等に類が及ぶのをおそれ敢えて供述しなかった旨強調するところである。しかし、被告人が捜査段階において右の点を供述しなかったということは、検察官がいうようなことで到底説明しうるものではなく、また被告人の自供する事実が、三十数年を経過して突如として出現した半仁田証言をもとに、検察官をして証明の主題を修正せしめざるをえないほど不自然かつ矛盾にみちたものであることは、後に自白の信用性の個所で詳論するが、右にみたように半仁田証言が信用性を欠くものとなったことによって、その反面右半仁田証言と矛盾する自供部分の信用性が回復されるかというと、一度検察官によって供述の欠落と指摘された事実は否定しようもない(信用性が回復するなど便宜的な考えが許されるはずもない)。同時に検察官の前示実家立寄り及び着替えという再審公判における柱も崩れることになることが指摘されねばならない。

第五自白の信用性

一  はじめに

自白の真偽を判断するには、自白内容の合理性を探求することが重要である。もともと、自白内容が被告人の経験に基づいた事実の供述であることを前提とする限り、客観的な証拠との間に矛盾の生ずることはありえないはずである。しかし、供述者は自己の経験した事実について、供述時に記憶を失ったり、または間違った記憶に基づいて供述する場合があるほか、意識的にせよ無意識的にせよ自己に有利に事実を潤色して供述し、あるいは自己に都合の悪いことについては供述を回避し、または曖昧な供述をすることがあり、その供述内容が終始一貫し、客観的証拠との間にいささかのくいちがいもなく述べられることはむしろ稀であるから、供述内容と客観的証拠との間にくいちがいがあるからといって、直ちに供述全体が真実性を失うものと評価することは正しくない。しかしまた、供述者は、自己が経験したことのない事実について、客観的証拠を示されて、これに合致した、あたかも自己が経験した事実があるかのように供述することもありうるのである。それゆえ自白の真偽を判断するにあたっては、自白に犯人でなければわからないような秘密性のある事実の供述が含まれているかどうか、また、自白内容と客観的証拠との間に合理性のある範囲を超えた重大なくいちがいが含まれているかどうかを検討する必要がある(最決昭和五二・八・九刑集三一・五・八二一参照)

さらに加うるに、自白の信用性については、自白に客観的証拠による裏付けがあるかどうか(自白について、これが真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けがあるかどうか)、証拠上明らかな事実について説明が欠落していないかどうか(自白から本件犯行の真犯人であれば容易に説明することができ、また、言及するのが当然と思われるような証拠上明らかな事実についての説明が欠落していないかどうか)、自白の内容に不自然、不合理な点がないかどうか(自白に不自然、不合理で常識上にわかに首肯しがたい点がないかどうか)などあらゆる観点から自白内容の信用性が検討されねばならない。けだし、本件において自白は被告人と犯人とを結びつける唯一ともいいうる証拠だからである。

そこで、以下自白の信用性につき、これらの点を個別具体的に検討し、合せて自白の任意性、さらには原第一審第一回公判において被告人が認めたことなどについても特に言及することとする。

二  自白調書の信用性

1 自白調書全体についての総論的意見

(一) 被告人の捜査段階における自白

被告人の捜査段階における自白としてはつぎのようなものがある。すなわち

1 24・1・16員面調書(弁解録取書)

2 同日付員面調書

3 24・1・17員面調書

4 24・1・18員面調書

以上1・1・3・4はいずれも福崎巡査部長作成に係る。

5 24・1・19検面調書

野田英男検事作成に係る。

6 同日付裁面調書(勾留尋問調書)

2の員面調書の要点は「私は今迄何度も何度も嘘ばかり云って申訳ありません。只今から本当のことを申し上げます。」で始まり、被告人が白福事件の犯人であること、凶器は鉈であり、伊藤方においてあること、犯行当時着用したはっぴと地下足袋は又市方にあること、犯行当時の現場の模様を図面に書かせていることの四点をまず押えている調書ということができる。

つぎに3の員面調書が最も詳細な調書であり、身上経歴、犯行当日である二三年一二月二九日午後六時二七分免田発の汽車に乗って人吉に行ったことから始まって、犯行までの経緯、犯行態様、逃走経路とその状況、逃走後逮捕されるまでのことを順を追って供述している。

4の員面調書は3の調書の補足的調書であり、5の検面調書は2から3までの各調書の内容を要約した内容であるが、検事の前であらためて一度否認していること、他の調書では記載されていない犯行の大体の時刻が述べられていること、被告人に鉈を示して尋問していることなどが他の調書にない重要な事柄といえよう。

(二) 総論的意見

これらの調書全体について、まず総論的な意見を述べると、これらの調書のうち中心的なものはいうまでもなく、24・1・17及び同・18福崎巡査部長作成にかかる員面調書であるところ、右各調書は一見具体的かつ詳細なように思われ、その供述中には犯行現場の状況等客観的事実と符合する部分も少なくなく、一見信用性を備えているかのように見えるが、子細に検討すると、強盗殺人事件の調書としては、例えば重要な事項である犯行時刻についての記述がないこと、前科前歴も見当らず、中農の長男で特に粗暴とも思われない被告人が突如として急に鉈による恐喝や鉈を所持しての忍び込み盗を企てるにしては、犯行の動機も薄弱で迫真性、必然性を欠くといわざるをえないことなど粗雑なものであり、その犯行態様に関する記述も周章狼狽の状態にあったとされているとはいえ、はなはだ通り一遍のもので、その中にはあらかじめ捜査官の知りえなかった事項で捜査の結果客観的事実であると認識されたといういわゆる「秘密の暴露」に相当するものは見当らず、右自白がその内容自体に照らし高度の信用性を有するものであるとは到底いえない。のみならず、後述するように証拠上明らかに認められる客観的事実との重大なくいちがいや不自然な供述が随所に見られ、犯行後の行動も客観的事実と多くの点でくいちがいを見せ、逃走経路として述べられているところは、長距離、長時間に亘るため一応それなりに具体的な供述がなされているといえそうであるが、被告人が真実自供のような経路を逃走したのであれば、その距離、時刻、時間から考えて犯人以外に知りえない秘密の暴露もしくはそれに近いような迫真性及び臨場感あふれる事実の供述があって当然と思われるのに、ただ単に実家附近(免田村、深田村、木上村附近)まで行って、人吉市に引き返したことを供述することに急で、信用性を判断するうえで大事と思われる、例えば、鉈を埋めたという場所やはっぴを洗ったり、鉈を洗ったとされる川に関する供述及びその裏付けはいずれも極めて不十分であったり、あるいは客観的に辻つまが合わない事実が述べられているなど、自白の信用性を疑わせる不自然、不合理な事実が数多く見出されることが判明し、あたかもアリバイの成立を裏付けるかのように被告人の捜査段階での自白は多くの点で破綻を示しているといわねばならない。また自白調書を通覧して、犯行と直接関係のない身上や二三年一二月三一日から翌年一月一〇日までの足どりについての供述は、後に調べられた客観的証拠によって裏付けられ、ほぼ正確なことを自白当時に供述しているといえるのに、ことが犯罪事実に直接間接に関係する犯罪に至る経緯や犯罪事実、逃走経路、逃走後の行動についての供述になると前記のとおり客観的事実とくいちがいを示し、また、不自然、不合理な点及び客観的証拠の裏付けを欠いていることが多いことである。そこで問題の24・1・17及び18調書を作成した福崎良夫の六次証言を検討したうえで、これらの点を逐次明らかにする。

(三) 福崎良夫の六次証人調書について

福崎良夫の六次証人調書をみると、同人は被告人の自供調書中他の証拠に符合しない点や不自然、不合理な点があったとしても、とにかくそれはそれとして被告人の供述するとおり書いたのだから、致し方ないという趣旨を強調している。

供述調書に記載されていることが、取調べ官が把握している事実と異なっている場合には、被告人の供述が任意になされ取調べ官による誘導や強制あるいは押しつけがなかったということの証拠であるといえる面が確かにあろう。しかし、通常の取調べにおいては、ただ単に被告人の供述するとおりをそのまま調書に書くというより、もし捜査官が把握している客観的事実に反していたり、明らかに不自然、不合理な点があれば、それを問い質し確認するということが当然であろうし(ただし、事の内容によってはわざと供述したままを書くこともあろう)、被告人の供述するところをただ機械的に書くということは考えられない。ただし、そのような問い質しや確認が可能なためには、取調べ官において正しい事実(客観的に認められる事実)を取調べの前に正確に知っているということが不可欠の要件となるのであって、もしそれがなされていない場合には、たとえ供述者が苦しまぎれに有りもしないことをでたらめに述べたとしても、それを追及し糺すことができないことになるし、逆に取調べ官の想定する事実の誘導に供述者が安易に乗ったとしてもそれをそのまま調書に記載するしか方法がなこいとになる。もとより、取調べ官といえども、すべての事実を詳細に把握しているわけのものではないし、そのようなことを要求するのもいささか酷であろうが、しかしできるだけは客観的事実を認識したうえで取調べに当たるべきは当然である。

このような観点から見るとき、本件福崎巡査の事実認識はいささか粗雑のそしりを免れず、本件自供調書の供述内容に多くの疑問個所を残すことになったといわざるをえない。つまり、事実に合わない不合理な供述がなされた場合、一応云うままにメモを取るというようなことがあっても供述調書にする場合には当然矛盾点を指摘するなりした内容になっているべきであり、それを欠いた調書では果たして信用できるものか否か取調べ官自体心証がとれないのではないか。それがない調書というのは、やはり供述者が苦しまぎれにでたらめを云ったとしても、取調べ官においてそれを糺すだけの能力なり知識なり準備がなかったか、さらには自分の誤った事実認識に基づく安易な誘導か強制があったとさえみられても致し方ないのではないかということである。

供述は客観的証拠や客観的事実により裏付けられることによって信用性が与えられる。供述自体がいくらもっともらしく見えても客観的証拠や事実に合わなければ、これを信用することができないのであって、やはり自白の信用性の一つのメルクマールとして客観的事実との符合の問題があるというべきである。客観的事実と合わない供述や不自然、不合理な供述はそれが被告人が任意に述べた証拠にほかならないから、自供内容としても信用できると考えるのはやはり通常ではなく、でたらめを述べたから、そのような供述になったと考えるのが自然であろう(もっとも、合理性、不自然、その程度や内容は当然問題になろうが)。このようにみるとき、福崎証言はいささか強引にすぎるように思われる。

2 創傷の順序(客観的事実との不符合)

被告人の24・1・17員面調書によれば「母親が『泥棒』と声を立てられたので私は全身が『くわっと』なり家族の方を振向きましたところ親父が起き上ろうとしたので恐しさと逃げるに逃げられない状態とが一緒くたになり発作的に『斬って仕舞へ』と云う気が起り右手で腰の『ナタ』を取りそれを振り上げて起き上ろうとする親父の頭を目掛けて二回か三回位斬り付けましたところ親父は『うん』と云って倒れ、そうする中母親が私に向って来るような気配を突差に感じたので私はそのときは逆上しておりましたので今度は母親の頭を目掛けて二度か三度位斬り付け愈々無我夢中になり、その後は娘二人を後先に斬付けました。」「私は無我夢中で斬ったくっておる中に母親の傍に刺身包丁の様なも(の)がありましたので私はそれを取り私が手に持った『ナタ』は畳において刺身包丁の様なものを右手(に)持って父親のところに行って父親が苦しまぎれに起き上ろうとするところを押え付けて父親の『のど』を二回位刺しました。私が最初刺そうとしたとき親父さんが私の手を握りましたのでそれを振り離して刺し二回目刺したとき父親が刺身包丁様なものの刃先を握らしたので私は力まかせにもぎとって刺身包丁の様なものは畳の上に捨てて、それから自分の『ナタ』を右手に持って茶棚の側の裏戸を突き開け、其処から飛び出て……。」と述べ、24・1・18員面調書では「それから私は最後に親父さんののどを刺身包丁の様なもので刺してから皆殺して仕舞ったものと思い逃げ出す際に……。」となっている。また24・1・19検面調書には刺身包丁様のもので刺したとする供述は全くなく、検察官も押収してある鉈のみを被告人に示しているようである。

右24・1・17及び18の自白調書によれば、はじめ鉈で白福角藏(以下角藏という)をなぐり、それから白福トギヱ(以下トギヱという)、ついで娘二人を鉈でなぐった。それから一度鉈を畳に置いて、最後にトギヱの傍にあった刺身包丁様のもので苦しまぎれに起き上がろうとする角藏ののどを二回位刺した後、これを畳の上に捨て、自分の鉈を再び持って裏戸を突き開けて逃げたということになる。角藏ののどを刺身包丁で刺したことをもって「止め」という言葉は用いられていないけれども、その内容とするところは明らかに「止め」を意味するものと受けとられる。しかも右刺身包丁による刺傷は、角藏に対する「止め」であると同時に一家四人に対する殺傷行為の「最後」の実行行為であることにもなっている。すなわち刺身包丁で角藏ののどを二回刺したのを最後に鉈を拾って裏戸から逃げたとなっているのである。

ところで、本件で取調べられた創傷の順序についての鑑定(鑑定書及び各鑑定証言を含めて単に鑑定という)のうち、右自供内容に副うのは後に鑑定人自身が訂正した世良第一次鑑定書のみである。矢田鑑定は包丁→鉈の順、牧角鑑定は鉈→包丁そうして最後に鉈の順、さらに世良鑑定人も第二次鑑定で前記第一次鑑定を訂正し、包丁→鉈の順であるとする。したがって、刺身包丁による刺創が止めでないこと、少し詳言すれば、刺身包丁による刺入があった後に鉈による矢田一次鑑定書にいうその七、八、九の頭部割傷が出来たことは三鑑定人全員が一致しており、明白な事実というべく、もはや現段階では多く論ずる必要がない。そうだとすれば、刺身包丁による刺入をもって止めとする自白調書の右部分は明らかに客観的事実に反していることになる。

検察官は右自供について、右自白調書はたしかに刺身包丁により角藏に前頸部刺創を加えたのち、さらに鉈で角藏の後頭部に割創を加えたことに触れていないが、被告人は興奮ないしは逆上の余り、角藏に頸部刺創を加えたのち、さらにその頭部に鉈で割創を加えたことを記憶していなかったにすぎない。つまり、被告人は、前記のようにタンスの引き出しから盗み出した財布の中味を物色中、トギヱから「泥棒」と声をかけられ、その声を聞いて角藏が起き上がろうとしたのを見て逆上し、角藏はじめ家人全員に鉈を振って切りつけ、角藏の前頸部に刺身包丁で刺傷を加えたのであり、犯行時の興奮状態、心理状態は相当異状なものであったと認められるから、かような状況に照らすと被告人は実際は、角藏の前頸部を刺したのち、同人が被告人の腕や刺身包丁の刃を握って抵抗したので、さらに鉈で角藏の後頭部に切りつけたものの、犯行時における異常心理などにより、犯行順序等についての記憶が欠落したため、最後に後頭部に割創を加えたことを捜査官に供述しなかったと認められるし、このように犯人の興奮ないし逆上などのため犯行の一部を記憶していないということは往々認められるところであって、本件において被告人が最後に頸部刺創を加えたかのように誤って供述したことをもって自白の信用性を否定せんとする判断は誠に形式的かつ皮相的な見解であるという。

ところで、「犯人が興奮ないしは逆上などのため犯行の一部を記憶していないということは往々認められるところ」というのは、一般論として決して間違いではなく、むしろ当然のことをいっているのであるが、本件にそのようなことがいえるかはさらに慎重なる検討を要する。自白調書には、鉈を一度刺身包丁に持ちかえ刺した後これを捨て、鉈は拾って逃げたとなっている。しかも、前記のように刺身包丁による刺入が角藏に対する止めであり、わざわざ鉈による殺傷行為が全部終ってから最後に行われたとなっていることを看過してはならない。すなわち右調書の前記供述部分は刺身包丁による角藏に対する刺入が「止め」であり、かつ「最後」の殺傷行為であるということがきわ立った供述とみざるをえないと思料されるのである。

この点は、例えば、鉈を振った回数(これも二、三回となっており、実際は一〇回位であるから事実と異る)とか、切りつけた部位、そのときの被害者らの状態とかいった細かな点に関することと同列に論じえないものがあるように思われる。また、前記七、八、九創が刺身包丁による刺入のあとに生じたということであれば、これらは刺身包丁によっては殺害の目的が達しがたいか、あるいは止めの効果がなかったがために、あらためて鉈を振って生じたことになるのであるから、それはむしろ目的意識の明白な行為というべく、そのような重要な意識的意図的な行為について「記憶が欠落」したとは考えにくいし、24・1・17付のみならず24・1・18員面調書にもだめ押し的に右のくだりが録取されていること前示のとおりであるから、調書の記載もれとか記憶が欠落したため誤って供述されたとははなはだ考えにくい状況があるといわねばならない。また、証拠によれば、他の傷と時期を異にした七、八、九創はいずれも深々と後頭部に、しかも本件鉈を振った行為のうち角藏にのみ加えられた最も重篤な傷害であり、また牧角鑑定によれば他の傷とは位置をも異にして加えられたものというのであるからなおさらである。

以上のようにみてくると刺身包丁による刺入を止めとした被告人の自供部分は、単に興奮、異常心理による記憶の欠落というには余りにも重大な事実の齟齬であり、しかるになぜ右のような供述調書ができあがったかを証拠から推認すると、本件直後、角藏とトギヱの屍体の検分をした医師山口宏の23・12・30屍体検案書によれば、角藏の受傷部位は(イ)前頭部割創(脳実質創面に露出)(ロ)右側頭部割創(創面に脳実質露出)(ハ)頸部刺創(ニ)後頭部割創(創内部に脳実質露出)となっていて、死因は(イ)、(ロ)、(ニ)による脳実質の割創と頭蓋腔内の広汎なる出血となっている。世良鑑定人による角藏の屍体解剖は二三年一二月三〇日命ぜられ、「同日午後六時より同病院手術室に於て、解剖、同日午後九時二〇分終了。兇器及び個数は重量のある大きなる刃器と鋭利薄刃の刃器。割創と刺創。各創傷の部位とその程度。本屍の死因は前記頭部割創に基く脳挫滅並に失血にして頸部の刺創は恐らく死の留めを刺したるものと認められる。」となっている。また手掌部の防禦創にも触れている。前記24・1・17及び24・1・18各員面調書の供述は、なるほど誤った世良第一次鑑定書の説明と非常に似ている。特に「刺身包丁、死の止め」はそうである。捜査官があらかじめ得ていた知識に基づいて誘導し、被告人が実際に経験しなかった事実を調書に作成した疑いがはなはだ強いといわざるをえない。そうして、前掲最高裁決定にいう「しかしまた、供述者は、自己が経験したことのない事実について、客観的証拠を示されて、これに合致したあたかも自己が経験した事実があるかのように供述することもありうるのである。」とするところを想起させる点ではなかろうか(福崎良夫の49・11・15第六次証人調書一二三ないし一二六項及び六三〇項、六三三項など参照)。このようにみると将に「世良鑑定人は、学者としての良心から翻然として前説の誤りを認め、二次鑑定でこれを訂正したが、誤りをそのまま引きついだ福崎巡査部長作成の自白調書は、訂正の機会を得られないまま公判記録に残ってしまったのである。」との弁護人の洞察は核心をついた言葉といえる。

なお、検察官は創傷順序のくいちがいの一事をもって被告人の自白の信用性を否定するのは相当でないというが、当裁判所はこの一事をもって信用性を否定しているのではなく、右が信用性の判断に重要な影響を及ぼす一つの事実として無視しえないということであって、本件自白には他にも多数の重要な矛盾点や不自然、不合理があること以下に詳述するとおりである。

角藏が受けた最初の一撃は何であったかにつき、矢田、世良両鑑定人は刺身包丁による前頸部への刺入であるといい、牧角鑑定人は鉈による前頭部割創であるという。もし第一撃が刺身包丁による前頸部への刺入であるということになれば、刺身包丁による刺創が止めでないということ以上に被告人の自白調書が客観的事実と大きく齟齬することになり、検察官といえども犯行時の逆上興奮、異常心理による記憶の欠落があったからでは納得しがたいほどの事実の齟齬といわざるをえないところであろう。

しかし、この点については前記のとおり、鑑定人見解が鋭く対立し、それぞれ専門的見地から自説の根拠が説明されている。当裁判所は、すでに述べたように刺身包丁による刺入が最後になされたものでもなく、止めでもないという前記動かしがたい事実と自供調書の齟齬だけでも右は看過できない重大なる齟齬であり、自白の信用性に疑問を投げかける重要な事実であると解するので、第一撃が刺身包丁であるか鉈であるかを敢えてここで論ずるまでもないかとも思料されるところ、なお証拠調べの経過に鑑み付言すると、矢田鑑定、牧角鑑定ともその専門的、科学的見地からそれぞれ自説を克明に根拠づけ、「前頸部創傷群が最初に形成されたという可能性は到底考えられない」(牧角鑑定)とか、「最初一二創(刺身包丁による刺創)をうけたと推定される。一二創は止めとは考えられない」(矢田鑑定)という結論的部分については、断定的に述べているのであるが、その過程における事実の科学的正確性を推論する場合、一つの仮説を立て、こうであるとすればこうなるという論理の立てかたが多く、したがって可能性や蓋然性という表現が多く用いられており、重要な点について断定していないことが多いという事実に注意を要する。

本件創傷鑑定が、世良一次鑑定書や実況見分調書、その他数少ない白黒写真等を資料に鑑定せざるをえないものであったがために、鑑定人がこれらの資料からいろいろ推認し、一つの可能性を前提にして或る結論を導くという論法をとらざるをえなかったことは、科学的正確を期する以上当然であろう。右のことから例えば世良一次鑑定が五創上端と六創右下端の間の直接距離を計測し全長一五センチメートルとしている事実の評価一つにしても、矢田鑑定人はこれを六創か五創の上半分を共有し全長直線距離で一五センンチメートルの長大な創であるとするのに対し、牧角鑑定は五創と六創は明らかに別個の創であり、六創は右下方に約八センチメートルの創に止まるとする点にしても、世良一次鑑定書の記載の趣旨がかならずしも明確でないことに由来して両鑑定人の評価がわかれたところであり、創の大きさがどのようなものであったかということは当然意識喪失の可能性につながってくる事柄である。

そうして、第一撃が鉈によるか刺身包丁によるかという問題の結論を大きく左右すると思われる「意識回復の可能性」さらには「A創はB創と同様の防禦創であるか」あるいはこれと異なる「割創」であるかについて、両鑑定人の鑑定書や証言を注意深くみると、いろいろな事実を前提にしたうえで、その可能性や蓋然性を述べるに止まり、結論を断定的に述べていないことが多いことに気付く。

言うまでもなく刑事裁判における有罪の事実認定にあっては、単なる可能性や蓋然性による認定は許されない。

右の観点から鉈が第一撃であるか刺身包丁が第一撃があるかという問題に対する矢田、牧角両鑑定のいずれを正当とすべきかは、なお慎重なる検討を要するところであろう。

第一撃が刺身包丁による頸部刺入であるとする矢田鑑定の示す根拠を、牧角二次鑑定書は逐一否定しているが、矢田鑑定人も57・10・4意見書でこれに対し逐一反論を加えている。

両鑑定人の見解のいずれを正当とすべきかについては、なお、さらに論議検討を深めねばならないところもあるように思われ、例えば意識消失の点、脳幹部の顕微鏡的出血の問題、母指内転筋や痛覚神経切断の問題など、右矢田意見書に対する、牧角鑑定人の反論も予想され、科学的、法医学的見地から論議を呼ぶことも予想され、この段階で裁判所がいずれが正当と断定できないものがあるように解されるのみならず、本件において被告人の有罪、無罪を判断するに当って、これ以上の医学的論議が必要不可欠とは考えないので、両鑑定人の論拠についてここで一々論及しないこととする。

ただ、ここでいえることは、五、六、一〇、一、二創等(牧角鑑定は一ないし六創、一〇創は刺身包丁による刺創より先という)は、いずれも頭部に重大な損傷を与えており、矢田鑑定がいうように意識を喪失し、手掌面の防禦創の説明に困窮することから、第一撃は刺身包丁によってなされたのではないかとの疑いを、再審公判における牧角鑑定の反論によっても払拭できたとはいえないのではなかろうか。

さらに、牧角鑑定は手掌面の一四創のうちのA創は、牧角一次鑑定書添付写真31ないし33のようにして鉈によってできた割創であり左側頭部の一〇創のそばの表皮剥脱もその際鉈のとびの部分で形成されたと推定する点、また同鑑定書写真37に最もわかり易く写っている角藏の腰部付近の袋状の物、あるいはかすりの着物らしき物付近の血痕状態からみて、角藏は一たん同所付近に倒れ、その後起き上がって最終的に現場写真にある場所に倒れたとし、このことを鉈で殴られたあと一時意識を回復したことの一つの根拠にするなど鑑定資料の丹念な観察と検討に基づき鋭い指摘と推論を述べるのであるが、しかし、やはり矢田鑑定が指摘するように、A創は前頸部右側に刺入される凶器を左手を手掌を上に向けて差し出してつかんだときにでき、ついで凶器を抜き去る時これが左上方に方向を転じたためB創が生じたと推察する方がA創B創のいわゆる近位端部が連続していることを考えても、矢田鑑定の方が常識的には理解し易いように思われ、牧角鑑定の推論は余りに偶然が重なりすぎはしないかとの念を禁じえず、また腰付近の血痕についても、矢田鑑定によれば滴下血痕で説明できるというのであるから、いまだ決定的なものとなしがたい。しかし、意識喪失や回復の問題に関し、トギヱが死亡するに至る程度の負傷をしたにもかかわらず直ちに意識喪失していない(白福イツ子の供述)という事実があることは、検察官も牧角鑑定においても特に指摘されていないが、もちろん角藏と負傷の程度のちがいがあるとしても矢田鑑定が正しいと断定してよいか疑問となりうる事実のように思われる。

なお、検察官が論告において鉈第一撃説の根拠として主張するつぎの点について付言すると、検察官は、白福イツ子(以下イツ子という)が二三年一二月三〇日山口医院において益田巡査に対し「『父が一番先に叩かれて』『三男』と二、三度呼んだ。次に母が叩かれ、父がばたばたして苦しんでいるのを又叩いて頭を割った」と供述していること及び二五年一二月一〇日原控訴審において「午前二時頃、母の泥棒という声で目が覚めました。すると母の方で一度、父の方で一度薪を割る様な音が聞えました。」と証言している点をいうが、イツ子の証言なり供述は白福ムツ子(以下ムツ子という)のそれと同様に唯一の犯行目撃証人として相当重要なものであることには違いないのであるが、この点のみで重視されるのはやや片手落ちではないかとの批判は後述するとして、右イツ子の証言は刺身包丁第一撃説に完全に矛盾するともいいがたい面があるといわねばならない。

すなわち、そもそも刺身包丁があった場所について自供によれば寝ている母親の傍にあったというのであるか、このようなことは誠に考えにくい不自然なありえないことといってよく、(イツ子、ムツ子の証言にも反する)、犯人は恐らくあらかじめ台所から刺身包丁を持ってきて用意していたとしか考えようがない。鉈でたたいた後途中で刺身包丁を取ってきたことを窺わせる証拠は全くないのである。ただ、検察官かいうように第一撃は自分が用意してきた凶器を用いるのが自然との見方はあろうが、現に刺身包丁を用いている事実がある以上、また途中で台所から持ってきた事実が窺われない以上、事実認定としては前記のように認定せざるをえないのではないか。そうだとすれば、まず用意した刺身包丁で一撃するという可能性が出てくるし、同証言によっても、「泥棒」という声のあとはたして間髪を入れず、鉈でなぐる音がしたのか必ずしも明らかでないこと、イツ子も割創で重傷を負っていること、同人は頸部刺入について何ら供述していないことを合せ考えれば、右イツ子の供述は鉈第一撃説の有力な根拠と直ちになしえないものがある。

3 被告人の着衣、履き物等と血痕付着

被告人の自白が真実とすれば、犯行現場の状況から考えて当然被告人の着衣や履き物等に血痕付着や汚れが認められるはずである。

犯行時の服装等について、被告人は24・1・17員面調書第一七項において「当時の服装は帽子は被らず、上衣は国防色の色のさめたしらけたステン襟の洋服でズボンは毛布の様な地で色は霜降りの濃い色のものでした。首には『白マフラ』を掛けておりました。又穿き物は地下足袋を穿いておりました。」となっているところ、第二三項で突然「それから着ていたハッピは高原に行く途中ぬいで手に持って免田と深田、木上の境の六江川で『ハッピ』についていた血を洗い落しました。『ハッピ』には胸のあたりに大分血が附着していました。」という供述がなされており、ついで同1・18員面調書では「私は前に申し上げた中で申し忘れていた点は『ハッピ』を白福さん方に這入ったとき着ていたことで、その外に『白マフラ』を首に掛けておりました。又そのとき着ておりましたしらけた上衣は警察に捕る迄自分で着ておりました。」とさすがに前記一七日付員面調書第二三項で突然はっぴ(印袢天のこと、以下同じ)が出てきていることについての説明がされている。しかし、同じ同日付員面調書第一一項では、当日免田から持ってきた荷物の中には衣類と米二升が入っており、これを平川飲食店に預けたとなっているところ、溝辺ウキヱの24・3・5原第一審証人調書によれば、二九日の夜汽車の中で榮と会ったとき「黒色の布で包んだ角ばったものを持っていた。」と述べ、同人の検面調書では「榮は汽車の中迄は黒い布に包んだ紐をかけた一尺四方の荷物を持って居りましたが、その晩孔雀荘に来た時は所持品はなく、風呂に入って来たといっていた。」となっており、平川ハマエの24・3・4原第一審証人調書には「二九日夕方、いくらか暗くなった頃榮が荷物を置かせて下さいというて一尺四方位の黒い布で包んで紐で結んだものと黒のオーバーを預けに来ました。」「服装は国防色の上服とズボンを着ていました。」と述べ、同人の24・1・17巡面調書には「黒の風呂敷包は幅一尺位、長さ一尺五寸位、高さ一尺位のものを紐の様なものでしばっていた、服装は上下共国防色の白けたものを着ていた様で履物や他に所持品等あったか記憶ない。」とある。

以上の証拠からすれば、被告人の原第一審第三回公判で「作業服と米三升入った荷物を平川食堂に預けた、その時の所持品は作業服、袢天、米三升を黒い風呂敷に包んだものでした。」という供述を持ち出すまでもなく、はっぴは平川飲食店に預けた紐を十字にかけた黒風呂敷包の荷物の中に入れていたと認定する以外ないように思われる(検察官も論告四五四頁でこれを認めているかのようである。)。また、すでにアリバイの個所で触れたように履き物についても、被告人の原第一審第三回公判における供述及び当公判廷における供述によれば、二三年一二月二九日五百円でズック靴を買い、そうしてそれまで履いていた地下足袋と履きかえ、荷物の中に入れたとなっており、右事実は、前記山並、文子、又市等の各供述にも符合し、二九日ズック靴を購入してからは地下足袋ではなく、ズック靴をはいていたと認定される(同日免田駅前でズックを買ったことは検察官も認めていることも前述、冒陳参照)。

以上の証拠に照らせば、被告人の二三年一二月二九日の夜の服装は、24・1・17員面調書で述べているようなものではっぴは着ていなかったと認定せざるをえず、それがなぜ唐突に同調書第二三項ではっぴがでてきたのかはなはだ理解しがたいところである。

捜査官は、ここでもあるいは被告人が供述したままを書いたにすぎないというかも知れないが、同調書を見る限り、それまでに服装について供述し、衣類を荷物に入れていると供述している被告人が、なぜわざわざはっぴを持ち出し血の付着した部分を川で水洗いしたと供述するのか理解しがたい。

思うに、当時着ていた国防色の軍隊用上衣とズボンに血痕の付着が認められないので、犯行現場の状況を見て知っている福崎巡査部長が不思議に思い、はっぴを上から着ていたことにし、これとズボンを洗ったことにしたのではなかろうかとの疑いさえいだかせるものである(もっともはっぴの押収は二四年一月一七日であるが。)。いずれにせよ、犯行時はっぴを着用していたという被告人の自供は、虚偽の疑いが濃厚であり、また、被告人自ら敢えて嘘の供述をする必然性も必要性も認めにくい事柄であるから、この部分も捜査官が自己の構想に基づき誘導して事実でないことを事実であるかのように供述せしめた疑いがあり、前記のように当夜地下足袋ではなくズック靴を履いていたことと相俟って被告人の自白の信用性に影響を与えずにはおかない点である。

本件証拠をつぶさに検討すれば、前述のように被告人は、一二月二九日当夜はっぴを着ておらず地下足袋を履いていなかったと認定すべきであり、少なくともはっぴを着て地下足袋を履いていたとする右自白部分は真実に反するのではないかとの疑いが濃厚である(客観的事実との齟齬)といわねばならない。

ところで、つぎに、当夜被告人が自白するような服装でかつ地下足袋を履いていたと仮定して、もし真実本件犯行を敢行したというのであれば、なぜ着衣等に血痕付着の証明が得られないかという重大な疑問が残ることになる。

医師山口宏作成の診断書(三通)、世良完介作成の一次鑑定書によれば、本件は四人の被害者に対し、二二回にわたって重量のある凶器でそれぞれ打撃を加えており、そうだとすれば少なくとも二二回凶器が振りおろされていることになる。23・12・31司法警察員作成の検証調書によれば、現場の畳には多量の血液が浸潤し、屏風、両側の障子の腰板まで飛沫血痕が付着していることが認められ、さらにその状況は当審で証拠調べがなされた白福事件現場写真(昭和五六年押第七号の11)に明瞭に見られる。また、魚住一義の30・5・30三次証人調書によれば、座敷はほとんど血の海で特に母親の頭部横付近がひどかったようでしたとなっており、浦川清松の六次証言にも同旨の供述がある。してみれば、犯人の着衣等に飛沫血痕やその他血痕が付着するとみるのが合理的である。

被告人の自白するところを真実とすれば、はっぴとズボンに血液が付着していたから逃走の途中川の水で洗い落したということになるが、どのような洗い方をしたか証拠上全く明らかになっていない。もしもじゃぶじゃぶズボンを洗ったとしたら後それをはいたのか、手に持っていたのか、はたして洗い落したくらいですべて洗い流せるものなのが等々疑問点が続出するのみならず、24・1・18伊藤一夫作成の鑑定結果によれば、自白調書で当時被告人が着用していたとされる紺色木綿製袢天、国防色木綿製上衣、薄茶色毛糸製チョッキ、白色絹製マフラー、軍隊手袋、褐色ラシャズボン、地下足袋において「血痕付着の証明を得ず」というのである。ことに被告人は白マフラーを首に巻き地下足袋を履いていたというのであれば、当時の鑑識技術をもってしても血痕付着(血液型の判定までいっているのではない)が証明されそうなはずである。しかるにそのような結果になっていないのは、着衣等について被告人が全くでたらめを云っているか、しからざれば被告人が犯行現場に行っていないことを疑わせる以外説明のしようがないのではないか。そうして、はっぴと地下足袋の着用については前述のように真実に反する疑いが極めて強いのであるが、その他の着用物については特に真実に反するような証拠もなく、被告人の供述も一貫しており敢えて事実に反する供述をすることも考えられないから、前記「着衣等に血痕証明なし」との判定は、被告人の自白の真実性に重大な疑問を投げかける事実といわざるをえない。

この点の不自然さは、さすがに検察官においても承認せざるをえなかったようで、前述のように被告人の着衣から血痕付着が証明されなかったのは、それらが犯行時着用のものではなく、被告人が後に別の着衣に着替えたものだからである旨主張する。

すなわち、被告人の自白するとおり押収された着衣等が真実被告人が犯行時に着用していたものであるとすれば、それに血痕が付着していると思料されるのであるが、つぎに論証するように、押収された右着衣等は被告人が犯行時に着用していたものでない可能性が強く、右着衣等に関する自白は、被告人は実家に立ち寄って別の着衣に着替え、別の地下足袋に履き替えたものと十二分に推認できるから、押収された着衣等から血痕の付着が証明されなかったこと自体、なんら不自然、不合理なことではなく、被告人は実家の者や知人に迷惑がかかることをおもんぱかり、捜査官に対し、着衣を着替えたことなどを隠し、嘘の供述をしたものと思料されるとする(論告四四六、四四七頁等)。

このように、もし被告人の自白が真実とすれば着衣から血痕が証明されないはずはないということを検察官自身が認めており、したがって着衣に関する被告人の自白は故意に虚偽を述べたものであるというのであるが、はたしてそのようにいえるであろうか。検察官はこれをいうために、半仁田証言にいう被告人が犯行後三〇日早朝黒田の実家に立ち寄ったという事実をもとに着替え説を出したが、そもそも右半仁田証言が全く信用できないこと前記のとおりであるから、検察官の立論はその点ですでに破綻しているのはもちろんのこと、実家で着衣や地下足袋を履きかえた事実のごときは、自己が強盗殺人罪を犯したことを自白し、親族等に大変な迷惑をかけている者として、親族の迷惑をおもんぱかりわざわざ捜査官に事実を隠して嘘の供述をするまでの事実でもないし、何よりも平川ハマエの供述するところに反することすでに半仁田証言の信用性の項で述べたとおりである。

また検察官の着替え説は、結局、ズボンが弟光則のものであったこと、国防色の上衣は当時多くの市民が着用していたことぐらいの事実を根拠にしているもののようであるが、ズボンが弟光則のものであったことは原第一審ですでに、榮策、アキエの証言で判明していたことであり、榮策は「いつの間にか榮が着て行ったものです。」とまで云い、これらの証言は何ら隠し立てもせず正直に述べていることを窺わせ、また被告人の当再審公判(第一二回)の供述によれば、一月一〇日伊藤方へ行った時の服装も元のままだったと云っており、そうだとすれば一〇日になってもそのままの服装であったということになるが、これは終戦直後の衣類の極度の不足を想起せしめ、一概に排斥しがたいものがあり、検察官の右根拠とするところは、着替え説を出すには余りにも薄弱なもので証拠らしい証拠は全くないといってよいのであるから、単なる憶測といわれても致し方ないものであろう。

以上のように着衣等に血痕付着が証明されなかった事実は、検察官をして急拠着替え説を持ち出さねばならなくなったほど被告人が犯人であるとすれば不自然なことであったことを一面物語っている。

なお、検察官も溝辺ウキヱ、平川ハマエ、井手迫敏子らの供述によれば、一二月二九日夜被告人がはっぴを着用していなかかったと認められ、押収されたはっぴは、被告人が同日風呂敷に包んで平川ハマエ方に預け、翌三〇日受け取りさらに、二四年一月四日に「俣口」に持参した可能性が強いという(論告四五四頁)。しかし、それでは自白にいう着用していたはっぴは一体どこから手に入れたというのであろうか。前記のように半仁田証人は、ずぶぬれの「はっぴ」を着た被告人を目撃したというのであるから、同証言を信用する検察官の立場からは、被告人が犯行時はっぴを着ていなかったとすることはできない。検察官ははっぴに血痕が付着していなかった事実を説明するに急な余り、はっぴ着替え説を出したまではよいが、自白に犯行当時着ていたというはっぴをどのようにして手に入れたか(半仁田が見たという泥に汚れたはっぴは実家で着替えたといっているが)触れていないし、二九日家から持参したはっぴを前記のように平川飲食店に預けたとする以上、他にこれを手に入れようもなく、犯行時や逃走時にはっぴを着ているはずはないのである。論告自体矛盾に陥っているといわざるをえない。

さらに本件において血痕付着の証明が得られたという唯一の鉈であるが、これとても付着血痕がO型であると認定することには多大の疑問があることは別に詳論する。

4 犯行時刻及び逃走経路

(一) 事実の概略

検察官は、被告人の主として捜査官に対する自白調書に基づきつぎのように冒頭陳述をする。

被告人は、二三年一二月二九日午後六時二八分国鉄湯前線免田駅発の人吉駅行列車に乗車し、午後七時一〇分ころ人吉駅に着き、平川食堂に立ち寄り衣類米などを入れた黒い布包みとオーバーを経営者の平川ハマエに預けた。当時被告人の所持金は現金二千数百円であったので孔雀荘に対する一四五〇円の飲食残代金を支払うと所持金が乏しくなり、当座の生活費や遊興費にもこと欠くことになるところから、鉈で通行人を脅して金員を強取するいわゆる「辻強盗」を思い立ち鉈は右平川に預けず、そのまま腰にさして平川食堂を出た。しばらく人吉市内をぶらついた後、同日午後八時ころ、鉈を孔雀荘の近くに隠して同荘に赴き、飲食代金一四五〇円のうち一〇〇〇円を支払い、別に女中に二〇〇円渡して買わせた菓子を女中の溝辺ウキヱ、井手迫敏子らと食べながら談笑したり、風呂に行ったりした。同日午後一〇時ころ、孔雀荘を出て再び鉈を腰に差し、しばらく同市駒井田町の特殊飲食店街をぶらついた後、辻強盗するため、人通りの少ない同市泉田町方面の通称中学校通りに行って通行人を物色したが、適当な人と出会わなかった。そのうち、被告人はたまたま祈祷師の白福角藏が金員を相当貯えているとの風評を思い起こし、角藏方に忍び込んで金員を窃取しようと決意した。同日午後一一時三〇分ころ角藏方に到着し、八畳間西側南端の雨戸をこじ開け、同所から屋内に侵入して本件犯行に及んだ。犯行後、被告人は刺身包丁をその場に捨て、鉈を持ち、母屋東側北端の出窓の戸口を押し開けて同所から屋外に逃走し、同家の東側にある茶の木の植込みを飛び越えて中学校通りに出た。中学校通りへ出た後、東人吉駅前、願成寺町を経て、旧人吉航空隊高原飛行場の滑走路跡地に至り、同所付近の開墾地内の土中に兇器の鉈を埋めた。その後東進して実家のある免田町と旧木上村(現錦町)、深田村の境界付近の「ぬつごう」などと呼ばれる小川で着衣に付着していた血痕を洗い落した上、前示半仁田供述をも加えて、翌三〇日早朝、いったん免田町字黒田乙一四八三番地の実家に立ち寄り、かまどにあたって暖をとるなどした後、湯前線の線路伝いに西村蟹作町を経て人吉城趾に赴き、同日午前一一時ころ平川食堂に立ち寄って、前日預けた荷物を受取り、人吉城趾に戻って城内の石垣の間に右荷物を隠し、同日午後五時ころまで同所に休息した、とする。そうして、半仁田証言によれば早朝とは午前六時三〇分か四〇分ころであり、被告人の24・1・17員面調書によれば六江川ではっぴの血を洗ったのが午前五時ころ、人吉城趾に着いたのが午前九時三〇分ころとなっている。

右のうち、二三年一二月二九日平川食堂に現われ荷物、オーバーを預け、午後八時三〇分ころ孔雀荘にきて一〇〇〇円支払い、同日午後九時三〇分から午後一〇時ころ同所を出て、翌三〇日午前一〇時か一一時ころ平川食堂に荷物を取りに来たことは、すでにアリバイの項でみたように裏付け証拠があり、動かしがたい事実と認定してよい。しかし、犯行時間が午後一一時三〇分ころであり、逃走時間が午前零時ころであるとする点、午前五時ころ六江川ではっぴの水洗いをしたとする点、午前六時三〇分ないし四〇分黒田の実家にいたとする点など時間の点及び時間時刻を含めた逃走経路に関する自白全体には、多大の疑問があるといわざるをえない。

(二) 犯行時刻

犯行時刻について、起訴状及び検察官の冒陳は、二三年一二月二九日午後一一時三〇分ごろ角藏方に侵入し、続いて本件各凶行に及んだことになっており、証拠上は、被告人の24・1・19検面調書に「白福方に着いたのは午後十一時から十二時迄の間と思いますが時計を持って居ませんでしたから正確な時刻は判りません。」という供述があるのみで、同16、17、18の員面調書には全く犯行の時刻に関する記載がない。世良完介作成の24・1・27第一次鑑定書によれば、二三年一二月三〇日午後六時解剖開始で解剖検査終了時は同日午後九時二〇分であるところ「其死後経過時間は二〇時間以内と推測せられ、其食後経過時間は四時間内外と推定せられる。」と記載されている。右によれば解剖検査に三時間二〇分かかっていることになるが、死後経過時間は通常死から解剖開始時までをいうのか解剖終了時までの時間をいうのか鑑定書の記載だけからではよくわからないけれども、山口医師作成の診断書により死亡した時刻が三〇日の午前八時三〇分と明らかになっているトギヱについての鑑定書の死後経過時間をみると、弁護人がいうように解剖終了時とみるのは疑問であり、解剖開始時までをいうのではないかとも思われるが、この点断定できない。

また医師山口宏作成の23・12・30屍体検案書によれば、角藏の受傷年月日は同月二九日午後一一時頃(推定)とするとし、右山口作成の同30診断書(トギヱに関するもの)には受傷年月日として同月二九日(推定)となっている。

しかし、巡査稲村政春作成の電話録取書(二三年一二月三〇日午前三時四〇分に作成したことになっている。)によると、事件の概要として「三〇日午前三時三〇分頃被害者宅に強盗が侵入」と記載されており、白福実の23・12・30巡面調書によれば、「午前三時二〇分頃二回目の見廻りにいったとき母屋の中からウーンウーンといううめき声が聞こえイツ子が血まみれで戸を開けた。」となっており、永尾将郎の同日付員面調書も同旨である。

夜警二人の供述にイツ子、ムツ子の供述は、時刻及び事件発見時の状況でも一致し、白福実や永尾将郎は夜警の任務を持っていたのであるから一回目二回目の巡回の時刻には特に注意していたはずであり、事件直後の供述であることから信用性は高い。そうして、前記稲村巡査が、午前三時三〇分ころに事件発生との通報を同四〇分ころ受けていることから、午前三時三〇分ころ白福実と永尾将郎が二回目に見回って異状を発見したことは間違いないと考えてよい。さらにイツ子の原第一審証人調書によれば、実が来たのが犯行後間もないときのようである。イツ子の証言が事実とすれば、何時間も何十分もたっているようには思われない。夜警が一回目の午前一時三〇分から午前二時一五分までの間に母屋の前あたりまで行って、異状を認めていないとすれば、犯行は三〇日午前三時ころだったのではないかという疑いが濃厚である。

これに対し、世良一次鑑定書は前記のようにいい、ムツ子の証言によれば、午後九時三〇分就寝でその時角藏がアンコを食べたとなっているところ、同鑑定書は食後経過時間は四時間内外と推定されるとするので、これによれば角藏の死亡推定時刻は翌三〇日の午前一時三〇分ころとなり、同じく同鑑定書の角藏の死後経過時間が二〇時間以内と推定されるとするところによれば、右経過時間を解剖開始時までだとすれば同月二九日午後一〇時となり、解剖終了時までだとすれば翌三〇日の午前一時二〇分が犯行時刻として推定されることになる。

検察官は、被告人の犯行時刻に関する自白は、被告人自身正確な時刻はわからないと断っているように、もともと明確な根拠に基づく供述ではないうえ、仮に犯行時刻を三〇日午前一時三〇分ころとしても、自白による犯行時刻と一時間三〇分ないし二時間三〇分程度の差があるにすぎないのであるから、このことが自白全体の信用性に影響を与えるものではないという。しかし、孔雀荘を訪れた時間、そこを出た時間、翌日平川飲食店に荷物を取りに行った時間等客観的に存在が裏付けられる事実に関して被告人は比較的正確にそれらの時間を供述している本件において、最も重要な犯行時刻について一時間半ないし二時間半さらには三時ころとすると三時間半ないし四時間も時間のずれがあることになるのは不可解で、三時間半から四時間ずれるとなれば全く不合理といわざるをえない。

一二月二九日午後九時ないし午後一〇時に孔雀荘を出て一、二時間くらい中学通りを物色するというのは普通考え易い。しかし警戒のきびしい歳末、寒い冬空に外とうも着ず(自白ではいつのまにかはっぴを着たようになっているが)、三時間以上中学通り付近を物色することは可能であろうか。不可能とはいえないとしても、はなはだ考えにくいのではなかろうか。したがって検察官がいうように本件では一時間半ないし二時間半のずれと軽々にいえないものがあるといわねばならない。まして三時間半ないし四時間のずれとなればなおさらである。

被告人の24・1・19検面調書の午後一一時ないし午後一二時という時刻は前記普通考え易いということで検察官が誘導し大して意識しないままそのようになったのかあるいは前記山口医師の死体検案書の記載に引きずられた真実に反する供述を引き出した疑いがあるといわねばならない。

右に関連し、被告人は24・1・19検面調書で「時計を持って居ませんでしたから正確な時刻は判りません。」と述べているが、原第一審第三回公判(同年四月一四日)で時計を当時所持していたといい(当再審公判でも同じ)、さらに原第一審第四回公判(同年五月一九日)では、弁護人の「昭和二三年一二月二九日頃被告人が家を出たとき時計を持っていたか。」との問いに対し「持っていました。検察官には時計を持っていなかったとのべたのは嘘で、本年一月三、四日頃まで持っていて、横山一雄(一義のこと)の母に頼んで時計を入質して金を八百円借りてもらいました。それでその入質まで腕時計を持っていました。」と答え、また、横山一義は原第一審第五回公判(二四年七月一二日)で弁護人の「被告人は証人方に泊って居る間に金がないからと言って、時計を抵当にして金を借りたことはないか。」との問いに対し「私の居る家の家主の植木ふみという人から千円借りたということを此の事件の発覚後私の母から聞きました。」と述べ、さらに裁判長の質問に対しつぎのように答えた。

問「時計を抵当に金を借りたという話は被告人が検挙された後か。」

答「そうです。」

問「その金を借りたのは何日か。」

答「馬を二頭買って送り父から金を貰って焼酎一升を下げて来たと言ったことから二日の日だったと思います。」

となっている。

検察官は、被告人が本件犯行当時腕時計を持っていなかったと供述していることに徴しても、右横山の証言から本件犯行当日被告人が腕時計を携帯していたものとは容易に認定することができないという。しかし、母親に頼んで家主に腕時計を質に入れたという話は具体的であり、供述調書及び証言を通じ、知人ではあるが、全般的に被告人に対し余り好い感情を持っていないことが窺われる横山一義の証言は、右被告人の「腕時計を入質して金を借りた」旨の供述を裏付けるものと評価できるように思われる。けだし、横山がわざわざ作為して証言するようなこととは考えにくい事柄だからである。さらに被告人は当時人吉等へ行くのに頻繁に汽車を利用していたことが窺われるのであるから、もし公判でいうように父親から貰った腕時計を持っていたとすれば、時計を持っていると見る方が自然であるということもいえる。もっとも時計を入質しているが、右は当座の金に困ってしたと考えられよう。

もし、被告人が当時時計を持っていたとすれば、午後一一時ないし午後一二時とか午前五時とかの本件時間に関連するすべての供述がおかしなことになってしまう。

つぎに、被告人の自供にある逃走経路全般についての疑問は後述するとして、逃走経路をまず時間的な面にしぼってその疑問を指摘したい。起訴状及び冒陳は自供調書に基づいて犯行時刻を午後一一時三〇分ころとしているから、記載されている犯行内容から推測すると逃走時間は午後一二時ころということになろう。右犯行時刻が証拠に適合しないこと前述のとおりであるが、仮りに自白の犯行時間を前提とすれば、その後の逃走経路において検察官が主張している各「時間」の点にことごとく重大な疑問が生じ、その点からも犯行時間、逃走時間、逃走経路の不合理が浮き彫りにされることがわかる。

四八年一二月二六日検証(以下四八年検証という)によれば、通常徒歩で犯行現場から古町橋までの所要時間は、三時間五分(ただし、木上川付近で一〇分休憩)、五六年一二月二五、二六日検証(以下五六年検証という)では、古町橋までの所要時間は約二時間四二分である。もっとも、検証の目的はいうまでもなく、歩行の難易度、明暗、時間、疲労度、寒さなどが主なものであるが、二三年一二月二九、三〇日当時と四八年や五六年当時とでは、照明、歩行路の条件が恐らく相当あるいは全くといってよいほど変っているかも知れないことを勘案しなければならないし、個人差も無視できないことを念頭において、余り検証結果を過大視してはならないこと当然である。けれどもそこにいわれている全体の歩行距離自体にはさほどの違いはないとみてよい。各検証によって若干のちがいはあるが、大体三〇キロメートル前後と考えてよいと解する(前記四八年検証は自動車の距離計で約三六・五キロメートル、五六年検証は万歩計で約三四キロメートル、三一年二月二七日検証(第三次再審検証)は自動車距離計で約三四キロメートルで、検察官は約二七キロメートルという)。

そうして、自白調書によれば、「高原の滑走路まで走ったり歩いたりして行った。」となっており、「同所で鉈を埋めて六江川に至りハッピの血を洗ったのが朝方五時頃と思われる。」と供述されている。前述したように四八年、五六年の検証時とは明暗、歩行路の条件が異なっていると思われるので確定的にはいえないとしても、犯行現場から古町橋(検察官がいうぬつごう付近)まで四八年、五六年各検証では約三時間で行くことができたのであるから、二三年当時も、もし歩行が可能な状態だったとすれば、走ったり歩いたりして行ったというのであるから、鉈を埋める時間を入れても、大体三時間ぐらいで着くことができることになるのではなかろうか。五六年検証では高原で道路から約四〇〇メートル離れた滑走路まで行って再び戻っているが、二時間四五分で到着している事実がある。犯人であれば、ゆっくりゆうゆうと歩行するよりも急いで走ったりすることも推測にかたくないので、歩行条件を考慮し鉈を埋める時間を考慮しても大体三時間あれば古町橋付近(のづごう)に着くことができるとみるべきであろう。ところが前記のように自白調書では「五時頃六江川でハッピの血を洗った。」となっている。早朝五時ころはたしてはっぴの血を識別できるほど明るさがあるかは一つの問題であり、また検察官は五時ころというのも時計を持参していないのであるから大体の時間で正確なものではないというであろうが、いずれにしても、一二時ころ犯行現場から逃走したとすれば、四八年、五六年の検証の結果からすれば、午前三時ころには古町橋付近に到着してしまうことになる。寒い暗闇の中で約二時間のあいだ何をしていたのかという疑問が生じる(検証ではたき火をし、軽食を取って時間をつぶしたが)。もとより自白調書にはその点全く出ていない。検察官はあるいは午前五時という時間が正確ではないから午前三時ころを午前五時と供述したにすぎないというのであろうか。それでは血痕識別の明るさになおさら問題が出てくるし、そして何よりも半仁田証人による午前六時三〇分ないし四〇分ころ実家にいたという証言内容との関係が説明できなくなるのではないか。それとも二三年当時は歩行路が悪く暗かったため五ないし六時間くらいかかって古町橋に着いたというのであろうか。もしそれほどまでに難渋する道程ならば、そもそも本当に当時犯行現場から被告人の自供にあるような経路を歩いて古町橋に至り、さらには湯前線を人吉まで踏破することができたのか疑問とされなければなるまい。

以上のように検証の結果により、逃走経路に関する自白部分については、疲労度とか、着衣の汚れもさることながら、何よりも犯行時刻と六江川到着時間の関係が不合理であることが明らかになったと解される。

(三) 逃走経路

逃走経路全般についての疑問はすでに第六次抗告審決定でつぎのように指摘されている。

「寒気、暗闇、悪路の中を三十数キロメートルもの距離を歩行することはきわめて容易ならざることであるうえ、犯行当時は気温こそ検証時より若干高いことが推認されるものの、一人きりで暗闇の中を懐中電灯もなく、途中暖をとったり飲食をするすべもなく、そのうえ被害者四名を殺傷する兇行で体力を使ったあとの歩行であり、途中の河川では自己着用のハッピやズボンに付着していた血を洗い落したというのであるから、右道程を踏破するに当っては、その肉体的精神的な苦痛は著しいものが存し、右検証時における仮想犯人の場合と比較しても、より一層困難であったことが推認できる。したがって、右道程を踏破したとすれば、請求人(被告人以下同じ)が人吉城趾に到着した昭和二三年一二月三〇日午前九時三〇分ころには、極度の疲労により半病人の状態となり、肉体的精神的な憔悴、衣類の汚れ、言動の鈍麻など通常とは異なる顕著な様子が現われる筈である。しかるに請求人は同日午前一〇時には平川食堂に姿を現わしたが、平川ハマエが見たところ、請求人には何ら変ったところはなかったというのであって、前日会ったばかりの請求人の服装や態度に別段の変化を認めていないのであり、このことは請求人が右道程を踏破したことと矛盾するというべきである。のみならず、その所要時間についても、右検証時においては往路約三時間、帰路約四時間であって(ほかに折り返し地点での休憩約一時間半)、往復で若干の差がみられるが、これは帰路が距離的にやや長く、また歩行者にとって距離が長くなるにしたがい疲労がたまることを考慮すると、帰路の時間の長いのは当然と考えられる。ところで原第一審判決は、犯人が被害者方に侵入したのが昭和二三年一二月二九日午後一一時三〇分ころと認定しているので、これに従えば逃走開始時刻は早くても同月三〇日午前零時ころとみられるところ、請求人は自白調書の中で『免田と深田、木上の境の六江川で『ハッピ』についていた血を洗い落した。そのときの時間は朝方五時頃と思う。それから湯前線の線路伝いに西村方向に出た。人吉城趾に九時半頃着いた。』旨供述しているのである。しかし、右検証調書(昭和四八年一二月二六日実施の分)によれば、周囲が明るくなったのは午前六時四五分ころであり、それ以前には衣類の付着血痕を識別することが困難であったと認められるので、請求人が付着血痕を洗い落とすために衣類を洗ったとすれば、その時刻は早くとも午前六時四五分ころでなければならず、衣類を洗った時刻、場所が午前六時四五分ころ折り返し地点であったとすると、請求人(被告人)は往路に約六時間四五分、帰路に約二時間四五分かかったということになる(昭和二三年一二月三〇日午前三時には騒ぎが起ったことが認められるので、本件犯行がその以前に敢行されたことが明らかなところであり、逃走開始時刻を仮に午前二時半ころとしても、往路は約四時間一五分、帰路は約二時間四五分となる。)。してみれば、往路と帰路の差があまりに大きいばかりでなく、帰路の方が往路よりも所要時間が短かいうえに、帰路時間が二時間四五分というのは、検証の結果(帰路約四時間)と比較して短時間にすぎ、きわめて不自然である。なお、三村境界付近の六江川については、古町橋付近にぬつごう(のづごう)という河川が存在することは認められるけれども、六江川という名称の河川の存在は確認することができなかった。」との趣旨のものである。

当裁判所の五六年検証の結果に照らすと、右のうち、周囲が明るくなったのは午前六時四五分とする点は明るくなる程度にも関連するのでかならずしも不当といえないが、右五六年一二月二五、六日の検証では午前六時すぎころにはいわゆる「周囲明るくなる」といえるし、午前六時四五分以前には衣類の付着血痕の識別をすることが困難であったと認められるという事実認定を前提にして、被告人が付着血痕を洗い落すために衣類を洗ったとすれば、その時刻は早くても午前六時四五分ころでなければならないとして、往路と帰路の所要時間の不自然をいう点にはにわかに賛同できず、また「右道程を踏破したとすれば被告人が人吉城趾に到着した昭和二三年一二月三〇日午前九時三〇分ころには、極度の疲労により半病人の状態となり、肉体的精神的な憔悴、衣類の汚れ、言動の鈍麻など通常とは異なる顕著な様子が現われる筈である。」とする点は、なるほど暗さや歩行路の条件によってはそのようなことも当然考えなければならないところであろうが、表現として「半病人の状態」となり、通常とは異る「顕著な様子」が現われるかは条件いかんによっては、にわかに断言できないものがあるようにも思われるが、同所で指摘されているところは依然疑問として残されるし、前述した時間の点に関する不合理のほか、被告人の自白調書にある本件逃走経路は人吉市北泉田町の犯行現場から実家に近い古町橋まで逃走し、そのまま再び人吉市に戻ったというのであるが、本件のような大罪を犯した犯人が、隠れる場所として勝手の知った故郷を目ざすことは、犯罪者の心理として、当日が冬の暗やみで故郷の免田まで相当の距離があることを考慮しても、一応理解できないわけではないとしても、なぜ再び検問のきびしいであろう人吉市に戻ったか、すなわち、なぜこのような周回行動をとったかは誰が考えても疑問に思われることであるにもかかわらず、自白調書では一片の説明もなされていない。大罪を犯した後の犯人の心理をいうのであれば、折角実家のある免田町まで帰ってきたのであるから実家に立寄ってひっそり隠れるなり、休息するなりするのが自然であろうし、もし我が家に立寄ることができない事情があったとするならば、その理由についての説明なり、そこで激しい心理的葛藤が述べられてしかるべきであるのに自白調書にそのような記載は全くない。さらに各検証の結果によって判明した、また当時ではなおさらであったろうと思われる暗闇の中の歩行が難渋したであろうことの説明も全くない。まるで灯りを持って(懐中電灯を持っていたとの証拠はない)淡々と逃走したように記述されている。鉈を埋めたという地点も、願成寺から県道に至る地点も黒田の踏み切りから湯前線の鉄橋を渡る際も、ほとんど数メートル先しか見えない暗闇と足もとの危険性、そのようなところを歩く心細さなど実際にその道程を逃走し歩いた犯人でなければわからないような事実についての記載をことごとく欠いた供述は誠に迫真性を欠いているといわれても致し方がないであろう。

当裁判所も、供述調書というものは何から何まで細大もらさず記述されているものであるなどとは考えないが、右の点は枝葉末節の一言のもとに無視してしまうには余りに重要なことのように思われる。もし人目を避けて逃走するなら湯前線の線路伝いに免田方面へ逃げることが考えられ易い。しかし、なるほど線路上は暗くかつ歩きにくいし暗闇では危険な箇所も多いため線路上を歩くのをあきらめ、県道へ出たというまでは一応説明がつくけれども、県道には柳瀬橋のたもとに夜警の詰所があったことが認められ、しかも馬場止の第六次証人調書によれば、柳瀬橋は長年取締の重要交差点になっていて、歳末警戒で私服の警察官も出ているというのであるからやはり逃走経路としては不自然不合理といわなければならない。

右のような数多くの重要な疑問点や不合理な点について、それ以上吟味した形跡もないまま供述調書が作成されたように窺われるのであるが、なぜであろうか。作成した警察官は、被告人が供述するままを録取したからだという(福崎第六次証言)が疑問である。

四人を殺傷し深夜一〇数キロを逃走して我が家のそばに至りながら家にも寄らず、体力を消耗していると思われるのに警戒のきびしい犯罪地の人吉市までそのまま歩き通し、人吉城趾で夜までぶらぶら時間をつぶしたということの不自然不合理さは検察官をして三三年目の証人半仁田秋義を法廷に立たしめ、その冒陳を修正せしめるほどのものがあったのではないか。しかも、この不自然不合理は捜査官において、すでに三三年前に気付くべきものであり、裏付けその他の捜査をしていたら当然真相が判明するはずのものであったと思われるのに、三三年を経た今となってはその裏付け捜査なり証拠収集は不可能に近い。

思うに、本件では被告人が二三年一二月二九日夜午後八時半か午後九時ころ孔雀荘に行き、同所を同日午後九時半か一〇時ころ出て、翌三〇日午前一〇時ないし午前一一時ころ平川飲食店に現われている事実が溝辺ウキヱや平川ハマエの供述によって裏付けられ、動かしがたい事実となった以上、同月二九日午後九時三〇分ないし午後一〇時から翌朝午前一〇時ないし午前一一時まで捜査官は被告人を人吉→免田→人吉と周回させざるをえなかったのではないかとさえ推測するにかたくなく、周回について自白を取るに急で、その不自然さ不合理さを全く看過し、その途中の出来事について裏付けを欠いた、杜撰な調書が残されたとみるべきである。そうして、この調子がしばらく続くのである。すなわち、二三年一二月三〇日午前九時三〇分人吉城に着き、午前一〇時ないし午前一一時平川飲食店で荷物を受け取り、人吉城に戻り、午後五時ころまで休憩し、その後大工町や駒井田方面をぶらぶらし丸駒登楼というのであるが、もし真実犯人であれば警戒のきびしい人吉市で午後五時まで過し午後八時ころまで現場近いところをぶらぶらするであろうか。絶対しないとはいえないだろうが、余りにも本調書にはぶらぶらする時間が多く長すぎ不自然である。

このようにみてくると、犯行後の行動に関する被告人の自白には余りにも不自然、不合理な点が多く本当に被告人が自白するような経路を逃走し、再び人吉市へ周回し、午後八時ころまで同市内でぶらぶらした事実があるのだろうかと根本的に疑ってかかる必要があるように思わざるをえない。

(四) 半仁田証言との関係

右にみたように当裁判所は、被告人の自白中犯行後の逃走経路に関する供述部分も信用しがたいといわざるをえないのであるが、ここで重複を厭わず、半仁田証言との関連で論じると、すでに詳しく述べたように、検察官は半仁田証言を根拠に、被告人は三〇日の午前六時三〇分か四〇分ころ、いったん黒田の実家に立ち寄り、かまどにあたって暖をとったり着衣をとりかえるなどした後、湯前線の線路伝いに人吉城趾に赴いた旨、その冒陳を修正し、被告人の自供部分のうち右の点は供述の欠如ないし虚偽である旨主張している。黒田の実家近くまで逃げ帰り、家にも立寄らず、そのまま人吉まで周回したことの不合理はさきに詳しく指摘したとおりである。検察官は半仁田証言を根拠に、被告人は家人等に迷惑を及ぼすことを恐れて、実家に立寄ったり着衣を着替えたことを敢えて供述しなかったというのであるが、すでに半仁田証言の信用性のところで触れたように、この場合実家に立寄ったことを供述することにより家人等に及ぼす迷惑とは一体何を想定しているのか、強盗殺人を自白した者が隠さねばならないほどのことであるか、また事実立寄っていたなら、当時捜査官に当然発覚しそうな事柄であること、榮策やトメノがこれを隠し通すほどの事柄でもないし、また隠さねばならない事情も認めがたいこと、その他半仁田証言の個所で詳論したように、被告人が三〇日早朝免田町の実家に立寄ったという事実は否定されざるをえない。

(五) 秘密の暴露の不存在

つぎに、被告人が自供する逃走経路は人吉市から免田町に帰り、そしてまた人吉市へ出てくるというものであるから、長距離かつ長時間にわたるものでそこで述べられている逃走経路が事実とするなら、その中に犯人でなければわからないような秘密性のある事実もしくはそれに近いような事実の供述が相当含まれていそうなものである。いわゆる秘密の暴露というのは、あらかじめ捜査官の知りえなかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたものをいうが、これだけ長大な逃走経路及びそこでの数々の出来事の中でいわゆる秘密の暴露と認めうるものは全く存在しないということである。

例えば、裏の垣根を越えて出てから、願成寺方面に行き湯前線の線路伝いに約一〇〇メートル行った地点で右土堤に上る場所があるか否か、高原の滑走路と旧道の境目はどこでどんな状態か、鉈を埋めたという場所はどこでどんな状態であるか、免田、深田、木上の境の六江川はどこで、はっぴやズボンをどこで洗ったかなどが問題となりうるところで、もしそれらが十分確認されていれば自白の信用性を裏付けるものとして重要な意味を持ちうる事実であるが、裏の垣根はあらかじめ捜査官が現場検証をして確認ずみであり、湯前線で右土堤に上る地点の存在は、実はこの付近の状況について馬場巡査が自殺者の捜査を担当し詳しく(馬場止の49・9・20六次証人調書によれば二三年夏、奥村という高校の先生が鉄道自殺した事件を扱ったことがあるという。)、それ以上進むと右に上ることができない地形になっていることは、一度現場付近を捜査していればすぐにわかる。

そうして、この問題に関し、最も重要な点は犯行に使用されたとされる本件鉈が被告人の自白調書にあるとおり真実高原の畠の土中に埋められたことがあり、これを掘り出して伊藤方に持参した事実が裏付けられるならば秘密の暴露として決定的な意味を有するといっても過言ではないことである。

被告人の24・1・17自白調書によると「高原の滑走路と旧道の境目のところで畠の中に『ナタ』は土を掘って埋め上から草を少し被せ、一月一〇日山並政吉方から実家に帰る途中高原からこれをとって実家に行き、実家に付く前に家の前の山中に隠し、同月一一日頃家を出るときに義母(トメノ)から布団や毛布を貰い、免田駅から那良口駅へ送り、鉈はゴザに包んで那良口へ出かけた。鉈は一月一一日伊藤イチ方に持っていってから竹切り等に使用し、伊藤方に置いてあるのを押収された。」というのである。

しかし、何よりもまず、鉈は高原の畠から発見され押収されたものではないことを銘記すべく、また、そもそも、犯人が折角発見されそうもない山中の土中に埋めて隠した凶器を本件後一〇日間ぐらいしか経っていない後日わざわざ掘り出して使用するということも、当時いかに物資不足の時代であったとはいえ、また特別の鉈でもない、ごくありふれた鉈であること、を考えても不合理に思われてならない。そうして、掘り出した鉈を今度は実家に帰るとき再び隠したというのであるからなおさらである。

前記のように、一月九日山並方から帰る途中掘り出したことになっているが、山並の原第一審証人調書によれば「九日の朝榮に会ったから訊いたら、山は一尺五寸位雪降りで寒いから夜具とりに来たといいました。」となっている。人吉測第七二号57・4・3別紙によれば、なるほど二四年一月四日から気温も下がり、同日から同月五日、同月六日、同月八日と雪が降っていることから考えると、高原にはあるいは雪が積っていた可能性もあるのではなかろうか。そうだとすれば、ますます埋めたなどという場所の見当のつけようがないと思われる。また、供述調書にいう「滑走路と旧道の境目」なるものが滑走路と旧道の中間の一帯を意味しているのか、滑走路への道路と旧道の分れ目付近を指すのか右供述だけでは必ずしも明確でないと一応いいうるかも知れないが、当再審における証人上田勝治の証人調書によれば、旧県道木上方向から直角に一〇〇ないし二〇〇メートル入ったところといい、到底滑走路と旧道の境目といえるような場所ではないといわざるをえず、また第三次再審での検証調書によるも鉈を埋めた場所として多良木巡査の指示するところが被告人や他の証人が述べるところと異なるなど誠に漠然としているとしかいいようがなく、当裁判所の検証によっても同所付近は全くの暗闇に近く、かすかに見えるアスファルト道路の両側の白線をたよりにやっと歩くことができるような状態の場所であるから、六次抗告審決定がいうように広漠としていて目印とてなく後日これを捜し出すことは地形上至難の業といっても過言でない。

そうして、鉈を埋めこれを掘り出したという跡について、なるほど現場写真(昭和五六年押第一七号の9)及びこの写真を撮った上田勝治の証言やさらには尾方均の証言が存在する。しかし、折角写してある写真も一見して鉈を埋めた跡であることがわかるようなものではなく、何か黒ずんだくぼみらしきものが写っているにすぎない。馬場止の30・2・14第三次証人調書も「その写真は私も見ましたが埋めた状況ははっきりしませんでした。」と述べているくらいである。尾方証言は、鉈の跡が歴然としていたというが、写真を写したという上田勝治は、第一審ですでに「うめたといえばそういえるようなくぼみ」と証言し、当再審証人調書でも同趣旨の証言をしている。畠の中といえばくぼみは当然考えられるのではなかろうか。

以上のように「鉈を高原の土中に埋めた」とする供述部分は、決して確定的な証拠によって裏付けられているわけではなく、むしろ前記のような疑問が存するのであるから、到底「鉈を埋めた場所の存在を疑う余地はない」などということができないのはもちろんのこと、たやすく信用できず、むしろ虚偽を供述した疑いが濃厚とみるべきである。

なお、尾方均の証言によっても「田山刑事ら主任ら五、六名の警察官と共に、被告人の案内で『高原』へ行った。新県道に車を止め、新県道より南側に一〇〇メートルないし一五〇メートルくらい入った左側に黒土の畑が一、二枚あり、その畑の南隅に本件鉈を埋めたと指示説明した。その畑の周囲は五〇センチから一メートルくらいの笹とか雑草が繁茂しており、畑自身は黒土のもので周囲とはっきり区別できる状態であった。」(当再審第二回証言)というのであり、被告人自身当再審第一三回公判において、その見分の際鉈を埋めた場所と特定されたのは「旧道と新道の中ぐらいのところにあった開拓の畑の窪地であった。」と供述している。旧道を滑走路と誤解したのであれば、指示した場所が被告人が前記自白調書で述べるように「滑走路と旧道の境目」といっていえなくもない。しかし、「滑走路」と「旧道」の両方を意識している右表現からみてそのような誤解は考えにくいし、実際旧道は飛行機の滑走路と誤解されるほどの広さを持っているとは認めがたい。

検察官は「分岐点」を指すものと考えているが、分岐点とすれば、むしろ場所がかなり特定されるのであって、分岐点からはるかに離れた畠の中を指示するのは全くおかしい。検察官はさらに、被告人の自白はその「付近」という趣旨で「数白メートルほど離れ、若干の食い違いが存在するにすぎない」というが、それではむしろ「高原の(滑走路付近の)どこか」というに等しいのではないか。前記の暗闇の中であるから、本当に埋めたのであれば、むしろ「高原のどこか」という自白の方が自然かも知れないが、それでは場所の特定ができないから後日掘り出したという自白がますますおかしいことになってしまう。

当裁判所の前記検証によって、高原付近はアスファルト舗装道路に引かれた白線を目印に旧道に沿って何とか歩行することができたというほどの暗闇であることがわかったのであるが、二三年当時は、旧道の舗装も白線もなかったのであるから(四八年検証)、同所を灯りを持たず歩行することは非常に困難だったのではなかろうかと推測されるところ、一体前記上田や尾方や被告人がいう一〇〇ないし一五〇メートルの地点まで、笹や雑草の中をどのようにして行ったのか、しかも、それがどのような場所か見当のつけようもないのではなかろうか。また、鉈を埋めるために、恐らくゆっくりはうようにしてでなければ行くことができないと思われるところまで、わざわざ行くであろうか。鉈を隠すつもりであったら途中いくらでも隠す場所があるのではないかと不思議に思われる。

5 逃走口

被告人の24・1・17員面調書によれば「茶棚の側の裏戸を突き開け、其処から飛び出して垣を越えて逃げた。」とあり、同19検面調書では「私の考えでは裏口の戸を押し開けて出たと思いますが、こまかな記憶はありません。屋外に出てから戸はしめたと思って居ります。」となっている。

この点についてはすでに六次抗告審がつぎのように疑問を提起している。すなわち、「原第二審検証調書(25・12・26検証調書)によると、犯行現場となった家屋には裏の出入口はなく、右裏口とは、炊事場横の窓以外には考えられないが、その大きさは縦一・九尺、横三・二尺であり、下辺(地面より一・九尺の高さである)には幅二・一尺の棚が取り付けられ、棚の上には摺鉢、茶腕、丼、鍋等が置かれていたことが認められるので、右窓から外へ脱出すること自体は可能であるけれども、あらかじめ摺鉢等を取り除いておかない限り脱出の際身体が当って落したり、割ったりする筈なのに、犯行直後の現場にはそのような形跡は少しも認められないこと、犯人脱出に関する原第一審証人白福イツ子及び同ムツ子の『犯人は床下の方に音をさせて出て行ったと思う』旨の各供述部分と相容れないこと等に照らすと、被告人の自供調書中逃走口に関する部分も疑問なきを得ない。」としているところ、当裁判所も同様の疑問を持つものであり、さらにふえんすると、裏戸の構造は原控訴審検証調書添付第一ないし第三見取図のとおりであり、当時の状況は現場写真(昭和五六年押一七号の7・特に写真一三枚目)及び白福事件現場写真(同押号の11、特に写真8号参照)のとおりであり、23・12・31検証調書には「ここは内部から固定されているので出入りは出来ない」とあり、24・6・26原第一審検証調書によれば「この戸を内側から紐で引き括ってあるのでこの部分から屋内には侵入できない。」となっており、白福三男の原第一審証人調書には「その戸(ながしもとの外に開く戸)は外から開けられぬように紐をつけ釘に括りつけてありました。紐はどうであったか分かりませんが戸は開いていませんでした。ここには茶碗等置いてあり、そのまま事件後ものっていました。事件後二日経ってからみたが紐は従前のままにしていました。」と供述し、さらに同人の24・1・25検面調書も同旨を述べ、「平素は柱と戸の両方に釘を打ち経二分位の棕梠縄で結んで戸締をし、内部には炊事道具等を積重ね同所からの出入はしない様になっていましたが、事件後も此の部分に付いては異状はなく、私が色々調べて見る際確実にその縄を解いた上元の様に結んでいた事実があり、内部の炊事道具等も蹴散らし等した形跡は認めませぬでした。」と供述している。当時家屋の内部の状況に最も詳しいと思われる白福三男がこのように供述し、さらに前掲現場写真や検証調書によって右事実が裏付けられているといえる。もっとも、白福三男の31・1・16三次証人調書は裏の開き戸は人が出入りできるくらい開いていたといい、同人の31・2・20証人調書では閉まっていたといい直しているが、同人の原第一審証言や検面調書は事件直後のことであり、信用性は高く、三次再審請求段階での右証言等を特に問題として検討する必要がないと考える。

検察官は、角藏の従兄弟である漆尾角藏が犯行の翌日犯行現場に立入った際、逃走口の裏戸付近に破損個所が認められたと供述しているというが、同人は「流しの『さま』が少し壊れていたように思いますがよく判らない。炊事場のところが開戸かどうかはっきりしない。」と供述しているのであって結局、不確かな供述というべく、前示のような裏口から逃走したとすることを否定もしくはこれに疑問を呈する信用性の高い客観的証拠が数多く存する本件では、被告人の供述する逃走口に関する疑問を到底解消せしめるほどの証拠とはいえない。

また、検察官は、イツ子、ムツ子の前記原第一、第二審における各証言について、両名は犯人が床下から出て行くのを直接目撃したのではなく、両名とも重傷を負わされたことによる恐怖と混濁した意識の中で犯人の行動についての明確な認識がないまま、物音の発した位置、方向を勘違いして述べているとも考えられ、その供述を全面的に措信できないという。なるほどイツ子は当時中学二年、ムツ子は小学五年の少女であったことをも合せ考えると検察官の右主張も理由なしとしない。しかし、イツ子、ムツ子の証言や供述は、犯行時間の個所でも触れたように、犯行の唯一の目撃証人として軽視しえないのは当然として、さらに、その供述内容もよく見ると記憶ないことはないとはっきり証言し、また証言するところも臨場感あふれ、迫真性があり、検察官のいうようには一蹴できないものがある。ことに、山口宏の30・5・30三次証人調書によれば「イツ子の方は骨膜には達していましたが、脳実質や骨には異常はなく、大体応答できました。」旨述べており、イツ子は現に実が夜警にくる足音を聞き分けて助けを求めるなど相当しっかりした意識を持っていることが窺われることを考えると、両名が一致して述べる供述を措信できないと一概に排斥するわけにはいかないのではなかろうか。さらにいえば、検察官は角藏とトギヱがたたかれた順序等については、イツ子の証言を信用しているのであり、しかるに逃走口に関しては勘違いをしたというのであるが、いささか片手落ちのきらいがあるように思われるところである。

そこで、積極的に床下から逃走した可能性が窺われるかをみるに、西側土間入口の右下にある床下のはめ板北端は二枚とも柱から外されており、その中一枚には新しい割目がついており、床土には内側からなにものかを外に引きずった跡があり(司法警察員松本尚之作成の23・12・31検証調書)、土間と八畳敷の間の床下とは何らの障壁なく、大人でも自由に土間から床下に侵入できる状況であり(24・3・6原第一審検証調書)、雨戸の床下は前記長さ二枚の敷居の下方でその敷居から地上まで約一尺三寸の間である(24・6・23同検証調書)とあり、25・12・10原控訴審検証調書には、八畳間床下の高さは約一尺三寸となっており、前記松本検証調書では板戸をはめた閾の高さは「下端まで」地上から一尺三寸を距てと記載されている。そうだとすれば、地上から閾の下端まで約四〇センチメートルの間があるといってよいから、多良木利次の30・4・11三次証人調書や黒木助三郎の30・2・2同調書で述べる反証はあるけれども、床下逃走の可能性もあると認むべきである。

そうして前示原控訴審検証調書によれば、同所は窓わくに外から板戸の形式で開閉するようになっていることが認められ、もし板戸が閉っていれば同所が一見して人が出入りできるような場所とはわかりにくいのではないかと疑われる。すなわち、右原控訴審の検証調書に逃走口の状況が詳しく記載され、また前掲白福事件現場写真に同所付近の状況が比較的鮮明に写されている写真8号があり、これを見ると一見して同所が出入り可能な個所になっているとはわかりにくいように思われる。前記24・6・23検証調書で、立会人松本が当時は出窓であるということは知らなかったので調べなかったと述べた記載がある。そうして、もし一見してそこが出窓になっていることがわかり同所から逃走したとすれば、白福家の構造など事情をよく知っている者でなければならないのではないか。もとより被告人は白福家に行ったこともないし、家の構造や状況を知らないこと証拠上明らかである。

しかるになぜ裏口から逃走したという供述になったのであろうか。この点に関しては、被告人の当再審第一三回公判における供述によるもはっきりしないといわざるをえないが、多良木利次の前記三次証人調書では「床下を通った跡がなかったので調べなかったと思う。」と述べられ、黒木助三郎の同調書では「入口にごみがたまっていて人が出入した跡がなかったので、床下から出入りしていないとの結論に達した。」と述べられているところからすれば、当時の捜査官等は床下から出入りしていないとの結論を持っていたことが窺われ、このような観念があったために右のような自白になったのではないかと疑われるところである。

6 トランクの物色(重大な事実についての説明の欠落)

被告人の24・1・17員面調書には、被告人が白福家に侵入してからの行動についてつぎのような記載がある。「私は最初手前の右側のタンスから金をとる算りで上から二番目か三番目かの箪笥の抽出しを少し開け様としたときおっかさんかなんかがあまり大きい声ではなかった『誰れか』と声を立てられた……。」「今度は母親に近い箪笥の方に近づきその箪笥の下から三番目かと思いますが、その抽出しを開けたところ財布が這入っていましたのでそれをとって中身を改め様としたところ母親が『泥棒』と声を立てられたので……。」となっており、そのあとは殺傷行為をして逃走したことになっている。

ところで、前記23・12・31松本検証調書、白福事件現場写真記録(再審昭和五六年押第一七号の11中写真第一〇葉)、白福三男24・3・4原第一審証人調書の「かねて東側の箪笥の上にあるトランクが母親の寝ていた布団の上に在りました。」旨の証言、同30・3・14三次証人調書中「何時も箪笥の上にあったトランクが布団の上に下し開けて中をいじった跡がありました。」旨の証言、白福実30・4・11三次証人調書の「箪笥の抽出は引開けてあるし、トランクは下に取り乱してありました。」「トランクは何時も東側の箪笥の上にあった。」旨の証言及び、上田勝治の当再審公判における証人調書によれば、いつも東側の箪笥の上に置かれてあったトランクが、母親の寝ていた布団の上付近に置かれ、中を物色された形跡があることが明らかに認められる。

犯人は殺傷行為の前か後かはともかくとして、東側箪笥の上から、前記松本検証調書では中型と表現されているが、現場写真によれば比較的大型と認められるトランクを下ろし、これを開けて物色していることが認められるのである。しかるに被告人の自白調書中にトランクを下ろし物色したことに関する供述は全く見当らない。

トランクが母親の布団の上付近に置かれていることと前記イツ子の証言及び供述を総合すると、犯人は白福一家を殺傷したあと時間をかけて物色したのではないかとすら推測されるのである。すなわち、イツ子は24・3・4原第一審証人調書で「目を覚ましてから男が出ていくまでの時間はながい半時間ぐらいの思いがした。」「その間泥棒は火鉢の側に居たと思う。」といい、25・12・10原控訴審証人調書では「父と母のうなる声が聞えなくなって暫くすると水が飲みたくなったので起きようと思ったとき土間の入口に近い部屋の西北の隅でかさかさという紙の音が間を置いて二度聞えたので私はああまだ居たのかと思って、そのままじっとしていました。又暫くすると紙の音がして居た辺の床下でごとごとという音がしてトタンに何か当った様な音がしたので……。」と述べ、23・12・30巡面調書では叩いた後で箪笥をゆっくりあけていた、火鉢のところに大分長く居たので早く帰ればよいがと思った。」旨供述し、前述のようにイツ子は当時中学二年生の一四歳の女の子であって鉈で頭を叩かれ重傷を負っていることを考慮しても、実が来たとき起き上がって戸を開けて事件を知らせるなど比較的意識行動がはっきりしていた様子が窺われるのであるから、同人の証言なり供述は信用性も相当高いというべく、前記山口宏医師の三次証言によって認められるイツ子の傷の程度、応答ぶりからみて意識混濁などを理由に簡単に斥けるのは相当でない。

右のところからすれば、犯人は角藏らを叩いたあとトランクなどを改めて物色している可能性が強いと思われるが、少なくともトランクを東側の箪笥の上から下ろしていることは動かしがたく、しかるにこれらの点について全く供述が欠落しているのはなぜであろうか。

検察官は、前記23・12・31松本検証調書、白福三男の24・3・4原第一審証人調書、本件犯行現場の各写真(写真一四葉((原第一審証第一二号、再審昭和五六年押第一七号の7))中の三丁表上段及び同丁裏下段の写真、現場写真一冊((同押号の10))中の一四丁裏上段左側及び中段左側の写真、白福事件現場写真記録((同押号の11))中の写真一一、一二葉)により、東側箪笥の上部開き戸が左右に開放されていることのほか、南側箪笥の上部右端の開き戸が開放され、また、右箪笥の上下に五段ある引き出しのうち三段目の引き出しがわずかではあるが、手前に引き出された状態になっており、トギヱとイツ子の寝ていた東側の掛布団の上にトランクが放置されている状況が明らかであるとしながら、自白と現場の状況と一致しない点について、被告人は、極めて不安かつ焦燥にかられた興奮状態にあったものと推認でき、かような場合、通常自己の物色行為の状況を正確に記憶していることは困難であるから、自白が現場の状況と完全に一致していないとしても不自然、不合理とはいえないのであり、このことは、むしろ被告人の自白が誘導等によらず任意になされたことを示しているということができるとし、ここでも興奮状態による記憶喪失をいうのであるが、なるほど箪笥のどの引き出しを開けたか、どの開き戸を開けたかなどについて検察官がいうようなことがいえるとしても(それにしても余りにくいちがいが多いのであるが)、少なくともトランクについてはわざわざ高い所から下ろして物色しているのであるから、これらと同列に論じることは相当でないし、例えば被告人の自供調書によれば、角藏とトギヱにそれぞれ鉈で二、三回切りつけたと福崎巡査部長に供述しているが(24・1・17員面調書)、実際には角藏は頭部に鉈による割創一〇個を、トギヱは同じく割創七個を受けているくいちがいや、計画性との関係では、刺身包丁を実際にはあらかじめ台所から持ち出しているのに、たまたま布団の側にあったとする点などについては、あるいは検察官のいうように少しでも自己に有利なように供述しようとする犯罪人の心理の現われであると説明できないこともないが、トランクに関する供述の欠落は記憶喪失とか右犯罪人の心理の現われでは説明できない不合理なことといわねばならない。この事実は福崎巡査部長をはじめ捜査官が被告人を取調べる際そこまで細かく現場の状況を把握していなかったかあるいはこのことを念頭に置いていなかったために、財布の物色などとは異なり、誘導して調書に載せることができずそのために欠落したのではないかとの疑いが濃厚である。取調べに当った捜査官がトランクの物色に気付かないはずはないとの反論もあるいはありうるかも知れないが、現にこのような重大な事実が調書に出ていないこと及び今まで全くこの点が取り上げられたことがない事実に鑑みるとやはり念頭になかったとみるのが相当であろう。

トランクを箪笥から下ろした行為が、もし鉈を振う前であれば、それまでの物色行為を比較的細かく供述していることと対比し、この点だけ記憶を失ったというのは不自然といわざるをえないし、もしそれが鉈を振った後とすれば、鉈を振って無我夢中で飛び出したという自供内容と余りにも矛盾することになる。

7 一二月二九日の所持品

被告人は、24・1・17員面調書において「免田から荷物を持ってきた。荷物の中には衣類と米二升が入っていた。兼田又市のところで働くつもりで必要な作業衣を免田の実家から持ってきた。」「平川飲食店にその荷物を預けた。」「当時の服装は帽子は被らず、上衣は国防色の色のさめたしらけたステン襟の洋服でズボンは毛布の様な地で色は霜降りの濃い色のものでした。」「首には白マフラを掛け、穿き物は地下足袋を穿いていた。」旨供述している。

右のうち、いつのまにか服装が荷物の中に入っているはずのはっぴを着用していることになっていること、履き物は被告人が一二月二九日黒ズックを購入して履きかえているはずであるのに地下足袋を履いていることになっていること、したがって、この点に関する被告人の自供部分は矛盾があり真実に反していると思われること、また、溝辺ウキヱ、平川ハマエの各供述や証言により被告人は一二月二九日黒布で包み、紐で十字に結んだ一尺四方位の荷物を所持しており、これとオーバーを平川ハマエ方に預け、同月三〇日午前一〇時か一一時被告人が右ハマエ方に右荷物とオーバーを取りにきたことは明らかなところ、右1・17員面調書には「その後、平川飲食店から荷物(黒布包みとオーバー)を受けとり、城内に引き返し、午後五時頃までいた、荷物は人吉城内の石垣の間に隠して午後八時頃まで大工町や駒井田方面をうろついて廻り、午後八時頃駒井田町の丸駒料理屋に行き、そこの文子という女に上がった。」「翌八時文子に千百円渡して丸駒を出て午前中は市内をうろつき廻り午後四時すぎ人吉市蟹作町山並政吉方に行き一泊して翌元旦の朝人吉に行く途中人吉市の城内に隠しておいた荷物をとり、その荷物を特って八代に行った。」「八代に午後一時すぎ着きそこで私は駒井田町の丸駒で知会いになった文子の家を尋ね、同家に一時間位いて、宮地町の横山一義のところに行き三日めの晩まで泊り、四日の八代発一一時半頃汽車で那良口駅に来て、直ぐ同駅から俣口の兼田又市方に行き同人に荷物を預けた。」となっており、右供述するところによれば、一二月三〇日午前一〇時か一一時ころ平川食堂から荷物を受け取り、人吉城内に戻って午後五時まで同所に休み、荷物は城内の石垣の間に隠して、午後八時ころまで人吉市内をぶらぶらして、丸駒に登楼し、翌三一日荷物は石垣に置いたまま山並方へ行って同所に泊り、翌元旦石垣から荷物を取って八代の村上キクヱ方、横山一義方へ行き、一月四日又市方へ荷物を預けたということになるが、右は米など入った荷物を二晩城の石垣に放置していること、一月一日から四日までの間村上キクエや横山一義が荷物やオーバーを全く見てないことが窺われることなどから真実に反した自供と考えられることについてはアリバイの個所「五荷物の所在及び被告人の履き物」のところで詳論したので重複を避けるが、同所で述べたことは、被告人の着衣、所持していた荷物さらには履き物に関し被告人の自供は客観的事実とくいちがっており、その信用性に影響を及ぼす点といえる。

つぎに、被告人は、右1・17員面調書において、鉈について「免田の家を出るとき家から鉈を持出し、その鉈は人吉駅に着くまで腰にさしており、人吉駅についてからも肌身離さず腰にさしていた。」「孔雀荘に入る前に鉈は腰からとって孔雀荘の筋向いの木炭倉庫の隅の方に隠して孔雀荘に入った。」「孔雀荘を出てから、木炭倉庫の隅においた鉈を右腰のバンドに柄を下に刃先を後ろにさし駒井田の料理屋を冷かして廻り、それから人通りの少い泉田町の中学通りに行った。」と供述するのであるが、一二月二九日被告人と会った孔雀荘の女中溝辺ウキヱと井手迫敏子及び平川飲食店の平川ハマエの三名が、被告人が鉈を所持していたことには気付いていない旨供述していることについて、検察官は鉈を腰のバンドに柄を下に刃先を後ろにして差していたのであるが、溝辺ウキヱが右同日免田駅から人吉駅前までの間被告人と会った時、被告人はオーバーを着用していたため(原第一審第三回被告人供述)、溝辺は鉈に気付かなかったし、平川ハマエが気付かなかったのは被告人が国防色の少し色あせた服を着ていたためであり、孔雀荘の溝辺や井手迫が気付かなかったのは、筋向かいの木炭倉庫の隅に隠したからであるという(論告四四七頁及び四四八頁)。

しかし、鉈は全長二尺一寸五分(約六五センチメートル、被告人の24・1・18員面調書)のものである。オーバーや服を着ていたからわからなかったとの検察官の主張もわからぬではないが、歩いたり坐ったりするのに不自由であることは容易に推測されるし、オーバーや服の上からでもこれだけの大きさのものであれば何らかの異常を感じることも当然考えねばならないし(平川ハマエの29・10・7三次証人調書は「私方には山師が来ますので鉈を差しているのが服の上から判りますが、榮は差していなかったと思います。」とさえ証言している。)、服を着ただけでは、柄の部分が下の方に見えるのではないかとも思われる。いずれにしても誰も全く気付かないという事実は疑問なしとしない。

また、孔雀荘の筋向かいの木炭倉庫の隅に隠したとする点であるが、溝辺ウキヱの24・3・5原第一審証人調書では「孔雀荘の筋向いに人吉木炭配給所の木炭倉庫があり、炭の出し入れの時以外、夜間に出入りが出来ないと思う。」旨証言し、24・1・24検面調書には「同所は完全に戸締が出来るようになっていますから殊に夜分等は庫内に入れぬと思います。」との供述がなされているところ、戦後間もない物資不足でかつ治安不全の折、しかも木炭配給所の倉庫というのであるから、むしろ夜間施錠していると考えるのが当然であって検察官がいうように「単に戸が閉まっていただけ」とみる方が不自然である。もっとも、木炭倉庫の隅がどこをさすのか必ずしも明確とはいいがたいが、通常の用例としては倉庫の内部の隅を意味するもので倉庫の外とはとりにくい。被告人の自白調書中のこのくだりも、孔雀荘の女中が誰も鉈を見ていない事実、また鉈を持ったまま孔雀荘に上ることも考えられないとすれば、それまで腰に差していたとする鉈をどこかに隠さねばならないことになるが、捜査官が事実を十分検討しないまま手っ取り早い筋向いの「木炭倉庫の隅」なる供述を引出したのではないかと疑われるところである。

8 被告人が一月四日に又市方を訪れたのは二回目である事実

すでにアリバイの個所で、被告人が二三年一二月三〇日最初に又市方へ行っている事実が明白であることを論証し、そのように認定しなければ証拠上首肯しがたい矛盾に遭遇する点の一として前記7の被告人の所持品等の行方を指摘し、この点に関する被告人の自供部分が信用できないことを説明したのであるが、ここではやはりアリバイの個所ですでにみた、被告人が一月四日に又市方を訪れたのは二回目である事実と被告人の自白との関係を検討する。

すでに述べたように、検察官は原第一番公判の段階では被告人の24・1・17員面調書の記載に基づき、被告人は一月四日の日に又市方を最初に訪れたという認識を持っていたように思われるところ、その後各証拠を検討した結果、当再審公判では、年内に一度最初に又市方を訪れていることはどうしても否定できないとの認識に立ち、その日が一二月二三日であるとする。

右は、被告人の自白の重要な部分が検察官さえも事実とくいちがっていることとして認められたことになり、もし被告人が犯人であれば、犯行が終って山奥の俣口へ初めて行ったのが年内であるか、一月四日であるかは、当時捜査官は被告人が身を隠すため俣口へ行ったとみていたらしいのであるから(木村善次等捜査官の証人調書により認める)、決して看過しうるほどの枝葉末節的な事柄でないことは、これが荷物の所在ひいてはアリバイの成否に関し重要な意味を持つこと捜査当時においても当然意識されていたことと推測できることからいえる。

しかるに、被告人の右24・1・17員面調書では前示のように一月四日又市方に初めて行ったようになっているのはどういうことであろうか。

自白調書が右のような齟齬をきたした合理的な理由を見出しがたく、結局一月四日が二回目の訪問であるということを認めることは、荷物や履き物の関係から一二月三〇日に一回目の訪問があったことを認めることに一歩近づくことになることから、これを認めない捜査官の誘導に迎合してなされた供述ではないかとの疑念を生じ自白調書の信用性を疑わしめる点といわねばならない。

9 その他

(一) 動機及び白福家の位置の認識

被告人の前示1・17員面調書には、犯行の動機及び白福家の認識に関し「私が人吉駅前通りの平川飲食店に荷物を預けたのも丁度汽車の中で孔雀荘の溝辺という人から飲代の請求を受けたので孔雀荘にその代金を支払うと考えたのと、外には今から那良口に行くのも翌いので駒井田町の料理屋にでも遊んで行こうという考えからでした。」「何故私が平川飲食店に鉈を預けずに何時も腰に差していたかと申しますと実はそのとき二四〇〇円位しか金の持ち合せがなく、それに孔雀荘の飲代を一四〇〇円余り支払えば残る金が不自由であるから鉈でも持っておれば人を脅かして金を取ることが出来るという考えからです。」「中学通りでは、私が脅して金をとるような人は通らずそのうちにふと祈祷師の白福さんのことを思い出しあそこならかねて評判が良く賑っているから金を貯めておるだろうと考え、その家に行って金を盗ろうと決意しました。」「白福さんの家は以前同家の前を通りがかりにここが白福さんの家かな位に知っていました。」となっており、24・1・19検面調書では「又昨年八月頃と思いますが、何かの用事で白福方の近所まで来た事があり此の家が例の白福の家だなあと思って通った事がありました。」と白福家の位置の認識について少し詳しい調書となっている。

当時の金にして被告人が所持していた二四〇〇円という金額は相当大金ではないか。人から恐喝したり盗みに入ることを決意するほど切羽つまっていたのなら孔雀荘の借金を返したり駒井田で遊興するであろうかという常識的な疑問、さらに被告人はその後オーバーやズボンを入質して金を作り、また当時としては貴重品ともいえる米二升を所持していた事実等を考えると、鉈を用いて通行人から金員を脅し取ろうなどと決意するのは、いささか唐突の感があることはやはり認めざるをえないように思われ、ましてや強盗殺人を犯すとしては動機がはなはだ弱いとの印象は免れないが、それらの点もさることながら、まず白福家の位置の認識の点に関する疑問はどうしても看過できない。

すなわち、48・12・25六次棄却審検証調書添付見取図(二)に示すように白福家の位置は中学通りを山田川方面から願成寺方向へ向って歩き笑美ラーメン店の角で左折し、人吉消防第五分団の所で右折し、電柱(北泉田第一〇の一班)の所で左折し、約二五・五メートル行った所で右折した幅員一・二〇メートルの路地の行き詰りにある。なるほど「同家の前を通りがかりに」見るような場所とは考えにくく、「何かの用で白福方の近所まで来たことがあり、此の家が例の白福の家だなあと思って通ったことがある。」(24・1・19検面調書)という供述部分ははなはだ疑問といわざるをえない(昭和五六年六月一二日実施の検証により、百聞は一見にしかずのとおり現に通行してみてその感を深くした。)。そうして、白福三男の24・3・4原第一審証人調書では祈祷師について「旗等の目印はしていない。一〇年前から旗はとりはずしてあった。」といっている。

検察官は、被告人が以前から角藏方を知っていたことについて、被告人は原第一審第一一回公判で弁護人と初めて八代拘置支所で面会したとき「以前は白福方の前を通りかかって祈祷師方があると判ったと述べたような気もする。その際白福方の庭先に小さな御宮があったと云った。それは人吉警察でそのようにいったのでいった。」旨述べたことを指摘するが、右の供述は検察官がいうように被告人が右第一一回公判で角藏方を以前から知っていた事実を認めたものではなく、弁護人との第一回の面会のときのやりとりを述べているにすぎないのである。そうして証拠(六次棄却審検証調書)によれば庭先に小さな御宮も存在しないようである。

特段の目印もなく、はなはだ通りがかりには目につきにくい(わざわざあのような奥まで確認に行ったのなら別であるが)奥まった比較的見た目には見すぼらしい白福方を本当に被告人が知っていて当夜目ざして行ったのであろうか疑問とせざるをえない。

(二) 被告人の利き腕について

原第一審第一回及び第四回公判における被告人の供述によれば、被告人は左利きであることが認められる。しかるに、右1・17員面調書には「右手で腰の鉈を取り、それを振り上げて起き上がろうとする親父の頭目がけて二回か三回切りつけた。」「母親の傍に刺身包丁の様なものがありましたので私はそれを取り、私が手に持っていた鉈は畳において刺身包丁の様なものを右手に持って父親のところに行って親父が苦しまぎれに起き上ろうとするところを押えつけて父親ののどを二回位刺しました。」となっている。

右のうち鉈の使用に関し、右手で犯行を行ったとは記載されていない。左利きは右腰にさしていて、右手で取り出し左手で使うのが自然であって調書にはそのとおり記載されているにすぎないとの見方もあろうが、右の該当部分を素直に読むならば、右手で腰の鉈を取って右手で切りつけた趣旨とみるのが自然であるし、つぎの刺身包丁を持つに至ったくだり及び福崎良夫の24・3・5原第一審証人調書に「鉈を右手に持って……。」と述べていることを総合すれば、鉈を右手に持って犯行を行ったという趣旨の記載と認めるべきであるし、つぎの刺身包丁に至っては右手で使用した趣旨の記載であることは否定しうべくもない。

左利きの者が利き腕に非ざる右手でほかならぬ殺人の実行行為たる鉈を振ったり刺身包丁で刺したりするであろうか。疑問の存するところであり、これは一般に右手が利き腕の者が多いとの認識に基づき、十分検討しないまま捜査官が自己の構想を押しつけたからこのような調書になったのではないかという指摘も一理なしとしない。

しかるに、被告人は原第一審第一回公判において「私は左利きでありますのでこの鉈を左手で握って刃を下向きにして角藏等に斬りつけました。」と供述しているのである。誠に不可解といわざるをえない。被告人は自分が捜査官の前でこの点に関し一体どのような調書を取られているかさえ全く記憶していないのではないかとさえ疑われるところである。

(三) 六江川について

被告人は、右1・17員面調書で「着ていたはっぴは高原に行く途中ぬいで、手に持った免田と深田、木上の境の六江川ではっぴについていた血を洗い落しました。はっぴには胸のあたりに大分血が附着していました。そのときの時間は朝方五時頃と思います。」「申し遅れましたが犯行現場に着用しておりましたズボンははっぴを洗ったところで洗い、血を洗いおとして人吉城内に来る途中そのズボンははき、私が四日の日那良口字俣口に上るまで自分で着用しておりました。」と述べ、翌一八日になって「私は鉈の血を洗ったことを申上げておりませんので、そのことを申上げます。本年一月一〇日頃山並さん方を出て実家に帰る途中高原の滑走路の側に土を掘って埋けておいたのを取りそれを深田村の古町橋を渡って向う側の川端の平屋建の一軒屋の側で鉈の刃についている血を洗い落しました。その鉈には刃のところと柄に血が附着しておりました。」となっている(同日付員面調書)。

検察官は六江川について、その後冒陳で免田町と旧木上村(現錦町)、深田村の境界付近の「ぬつごう」などと呼ばれる小川であると述べ、「六江川」は「むつごうがわ」と読むことができるから「ぬつごう」あるいは「むつごう」という発音に近い「六江川」という漢字を用いて取調べ官が表現したとしてもなんら不自然ではないという。そうして、球磨郡深田村南八二番地に居住する前田一男は、同人方の南側には「自分が生まれたころから『ぬつごう』と呼ばれる小川があり、『ぬつごう』は東から西に流れ、下流は球磨川に注いでおり、その後昭和四七、八年ころ、構造改善事業のため以前より南側になって川幅も狭くなったが現在も存在する。また以前の『ぬつごう』はわき水で冬でも比較的暖かく、免田町黒田付近の人達が魚をとったりしていた。」と証言し、被告人も当再審第一三回公判で「古町橋及びその南側の一軒家の存在を知っている。」旨供述している。当裁判所の56・7・8検証調書によれば、右三町村の境界は前田一男方から南西に約一キロメートル離れた球磨川の中央付近に存在することが認められる。

そうして検察官は、したがって前田一男方南側から西方に流れる「ぬつごう」は、まさに「免田と深田と木上の境」付近に存在するという。さらに、はっぴ等を洗った「ぬつごう」と一月九日に鉈の刃の血を洗った古町橋を渡った一軒家(前田一男方)の傍の小川は同一であると釈明する(当再審第四回公判)。

しかし、当裁判所は、まずはっぴやズボンを洗った六江川と鉈を洗った小川とが同一の川であるのか、供述調書上は明らかでないことを指摘したい。すなわち、ズボンを洗った場所については「はっぴを洗ったところで洗い」となっており、六江川をさすこと明白であるが、鉈の血を洗い落した場所については翌一八日に作成された調書とはいえ「古町橋を渡った云々」とかなり具体的になり、はっぴやズボンを洗った川といっていないことはもとより、三村の境とか六江川という表現も全くない。同一の場所というのであれば、はっぴやズボンを洗ったところとかあるいは六江川といえばすむことであって、古町橋を渡って云々というまわりくどい説明は要しないはずである。

24・1・17員面調書中、そもそも逃走経路に関する供述部分ははなはだ簡単であって、一体どの橋を通って球磨川を渡ったのかが調書上明らかでないため、三次再審では馬場巡査の「深田村の二子橋のところで夜がほのぼのと明けた、ここでズボン、はっぴを洗たくしたと被告がいった。」(30・2・14三次証人調書)との証言によってであろうか二子村の大二橋まで逃走経路を検証しているようである(三次検証調書)。なお、ここで馬場巡査の証言と被告人の自白調書の関係について触れると、同巡査はさらに六次証人調書でも「免田と深田に通じるふたご橋の付近で洗った。」旨被告人が供述していたと証言する。ただし馬場巡査の証言は、鉈の血痕のところで触れるように、事件後六年または二五年も経過した後の証言でどれだけ正確に供述しているかは慎重に吟味されねばならず、同人が云っているからといって、ただちにそのとおりであったと認定するのははなはだ危険ではある。馬場六次証人調書は被告人の供述内容についてつぎのように述べている。「それで逃走経路になりますたいですね。捜査の言葉では。願成寺のお寺の前から、願成寺のお寺の横に踏切がありまして、それからずっと行って岩清水というところがあり、そこの鉄道線路の上に県道の橋がありますね、ガードになっておりますね。その先だったと思うですが、とにかく、その付近から木上往還に上がったと。木上往還ちゅうのが人吉から球磨郡の今、錦町になっておりますかね、前の木上村という村落があります。それに通ずる道路に上がったというふうなことでしたね。それから途中で柳瀬というところに年末警戒があって、消防団やら警察の人もおったろうということですたいね。私服ですからよくわからんでしょうね。その当時やっぱり私服で出とったから。消防団は団服着とるけど。そういうことでおったばってん何とも言いなはらんだったと言うたですね。そしてあの橋を渡って高原の飛行場に行ったと。で飛行場のどの辺か、何とか言うたっでしょうばってん、とにかく飛行場の道付近の畑に鉈をいけて、そしてからずっと歩いて免田と深田に通じるふたご橋という橋があるですもんね。ふたご橋て俗に言いよったですけど、今もそういうか知らんとです。とにかくふたご橋の付近でズボンと上から着とったはっぴか服か、もう覚えませんがとにかく着とったつば上下洗ったように言うたですね。そしてしぼりあげて持って、免田の自分の自宅に帰ったか、それからすぐ西村に帰ったか、どっちでしたか、とにかく鉄道線路ば伝うて行ったというふうに言うたごたったですね。そして西村の実母の実家に行き、そこで朝御飯どん食うて、そして人吉へとことこ出て、人吉の城内にその洗った衣類を石垣の穴の中へ詰めて……。」となっている。馬場巡査は福崎巡査部長が供述調書を作成する直前に調べており、福崎に引き継いだ形になっているのに、そこでいわれている自白内容と福崎作成の調書内容が違うことに驚く。また、同証言により馬場巡査がいわゆる逃走経路付近の地理にくわしいことも窺われる。馬場証言のとおりだとすれば、柳瀬橋を血の着いた服装で血の着いた鉈を下げて私服が年末警戒中を通ったことになる。しかるに福崎の六次証人調書によれば、歳末警戒のことについて免田はあなたに何か触れなかったかとの問に対し、別にありません、と答えている。このようにみてくると、馬場巡査や福崎巡査部長が一体どのような取調べをし、被告人がそれぞれにどのような供述をしていたのかわかりかねるものがあるといわざるをえない。被告人は、馬場の面前と福崎の面前ではずい分と異なった供述をしたのではないかとの疑いがあり、さらに自己が体験していないことを供述するため、苦しまぎれにでたらめを供述し、あるいは取調べ官の誘導に易々と迎合した供述をしたのではないかとさえ疑われるところである。

検察官は前記のように、三村の境界から約一キロメートル離れた付近に前田方があり、その南側を「ぬつごう」が流れているから、それが調書にいう「六江川」であり、そこで鉈の血も洗い落したという。なるほど鉈の血を洗ったというところ(古町橋を渡った一軒家の傍)が「ぬつごう」らしいとまではいえるとしても、弁護人がいうように三村の境界から一キロメートル離れた「ぬつごう」をはたして「三村の境の六江川」とすんなりいえるだろうか。被告人は同所付近の地理には詳しいはずであるから、そのような場所を流れている「ぬつごう」が三村の境でないことはわかるように思われるし、前記のように三村の境の六江川(はっぴを洗ったというところ)と鉈の血を洗ったというところが同一であると直ちにいえるか疑問がある。

以上のようにみてくると、自白調書にいう「六江川」なるものが影も形もない架空の川ということまではいえないとしても、それが検察官のいうように前田一男方裏の「ぬつごう」であることに疑いがないとはいえないように思われる。

そうして、仮に検察官がいうように六江川は「ぬつごう」であるとした場合、当裁判所の検証調書によって明らかなように、同所付近は全くの暗闇に近いし、足場も悪い。前述のように午前五時ころはっぴやズボンに付着した血痕を識別することは不可能かどうかははっぴの色や血痕量にもよるから断言できないとしても、はなはだ困難であるといわざるをえないという疑問が逆に残ること、また、細かい点ではあるが、被告人は24・1・18員面調書で鉈の刃と柄に血が付着していたと供述しながら、前記のように同調書で「一軒家の側で鉈の刃についている血を洗い落しました。その鉈には刃のところと柄に血が付着しておりました。」旨刃についている血痕だけを洗い落したような調書になっているのであるが、弁護人がいうように、ほんとうにこの鉈が四人殺傷事件の凶器であったとしたならば、刃のみに止まらずその柄にも被害者の血液が付着していたはずであり、しかるになぜ刃の部分だけを洗ったというのか問題にされよう。

思うに、福崎六次証人調書によれば、同人は取調べにあたり本件鉈を見ているというのであるから、鉈の柄部はともかくとして、刃部に血痕らしきものがなかったことから、この事実に辻つまを合わせて、右のような一見不合理な調書が作成されたのではないかとの疑いさえ推測せしめるところであり、創傷の順序を前記のように世良第一次鑑定に合わせたことと同様、また、被告人が犯行時身につけていたという国防色の上衣やズボンに見た目に血痕がなかったことに合わせて着ているはずのないはっぴを着せてこれとズボンを暗闇で洗濯するような不合理不自然な調書を作成せざるをえなかったのではないかとの疑いなど余りにも不自然不合理な点が目立ちすぎる調書である。

検察官は、被告人が二四年一月九日高原で鉈を掘り出し「ぬつごう」で刃についた血を洗い落したとするが、そうであれば、血痕の付着した凶器を下げて昼間犯行の日と同じ経路を歩いたことになりはしないか。血痕のついた凶器を持って昼間数十キロ歩き、わざわざ「ぬつごう」まで来て洗うであろうか。途中いくらでも血痕を洗うに適当な場所があるように思われる。

(四) 指紋について

六次抗告審決定は「犯人の決め手となるべき指紋の有無については被告人の自白調書によると、被告人は白福家の雨戸より屋内に侵入して、タンスの引出しを開けて金品を物色し、その場にあった刺身包丁を握って角藏の頸部を刺したというのであるが、全記録を精査しても、被告人において手袋を使用したり、指紋を残さないように配慮した形跡は全く窺われないのに拘らず、福崎良夫(六次棄却審証言)、熊本地方検察庁検事麻生興太郎作成の報告書によると、指紋採取作業の結果は、白福家のタンスや雨戸からはもとより、現場に遺留されていた刺身包丁からも、重複したり紋様形状が不鮮明な指紋ばかりで、被告人の指紋を検出することができなかった」事実を指摘している。

検察官は、たとえ犯人が手袋を使用したり指紋を残さないように配慮した形跡が全く窺われない場合であっても、犯人が手を触れた物件から犯人の指紋であると特定しうるに足る程度の指紋が検出されない事例は数多く見受けられるところであり、被告人の指紋を検出することができなかったとしてもなんら異例のことではないと主張するようである(特別抗告理由補充書二二丁参照)。

しかし、雨戸はともかくとして箪笥や刺身包丁の柄などは、最も指紋が残され易い場所であることも事実であり、六次抗告審決定のようにやはり疑問点の一つと考えるのが相当である。それとも当時の科学捜査の内容がそれほど弱体なものであったことを物語ることになるのであろうか。後述の血痕鑑定が本件において自白と相俟って決定的に重要な証拠となったことを考えると当時の科学捜査の内容が一体どれほどのものであったのか気になるところである。

(五) 犯行現場に居合わせた被害者イツ子・ムツ子の供述と犯人の特定

ムツ子の24・3・4原第一審証人調書では「帽子は被らず、頭髪は伸ばしていました。丈は余り高くありませんでした。若い男でした。三男兄さんより年寄った者のように思います。」「上下とも同じ黄色い兵隊服のようなものを着ていました。」「何も洋服の上には着ていませんでした。」「顔はよく見えました、頭髪はぼさぼさで油はつけていませんでした。」と答え、また25・12・10原控訴審証人調書では「私は目が覚めてすぐ一寸顔を上げて土間の方を見ると電燈がついていて、母と姉が寝ている蒲団の足許の方に私の方を向いて泥棒が両手を後ろにまわすようにして立っていた。」「その時泥棒は国防色をした服(上下共)を着ていたと思う。」「私が一寸泥棒の方を見ると泥棒が寄って来て私の顔に蒲団を被せました。」「泥棒の顔を見るのは一寸見ましたが半ば気が遠くなっていたので唯今では泥棒がどんな顔をしていたか記憶していません。」「(この時立会している被告人を示した。)背の高さや体付はこの人に似ていました。年令もこの人位に思われました。服もこの様な服を着ていました。(この時被告人は旧軍隊の夏衣袴を着用していた。)顔はかくしていませんでしたが、この人であったかどうか判りません。」となっており、さらにムツ子の31・3・23三次証人調書では「怖くて顔はよく見ませんでした。」「検証のとき、現場で私が犯人はここに立っていたと云って、その場所を指しますと、警察の人がそこを測りました。そのとき免田もおりました。警察の人が免田に意見はないかと尋ねました。免田は意見はないといいました。免田が意見はないといったので私はこの男に間違いないだろうと、はっきりした自信はなかったのですが安心しました。」「はっきり自信がなかったというのは、はっきり見ていないもんですから。」となっている。つぎにイツ子の23・12・30巡面調書では「あんまり恐しかったので悪い奴の顔が見られなかったが、よく見ておけば仇がとれたのに。」と述べ、24・3・4原第一審証人調書でも「服装は見なかった。」となっており、結局イツ子は犯人を余り見ていなかったようであって、比較的顔を見ていたように証言するムツ子も、顔はよく見えたといったり、よく見ませんでしたといったり、必ずしも一貫しないが、顔を見ていながら検証(二四年三月六日の原第一審裁判所の検証と思われる)のときにも被告人が犯人であるというはっきりした自信がなかったことが認められ、ムツ子が被害当時満一一歳の少女であったこと及び頭をたたかれ大けがをしていることを考慮すれば被告人を犯人と推定するに足りないものである。

(六) 鉈と凶器との結びつきについて

被告人の右1・17員面調書によれば「昭和二三年一二月二九日免田町の実家を出るときに本件鉈を持ち出し、汽車の中でも人吉市に着いてから平川食堂でもずっと腰にさして携帯し、孔雀荘に入るときだけ、筋向いの木炭倉庫の隅に隠した。その後右鉈を使って本件凶行に及んだ。犯行後間もなく鉈を高原の土中に埋め、昭和二四年一月一〇日頃、これを掘り出して免田町の実家に帰り、鉈は家に入る前にぐるりの山中に隠し、同月一一日頃、家を出るときに義母トメノからふとんや毛布を貰い、免田駅から那良口駅へ送り、鉈はゴザに包んで携帯し、那良口へ出かけた。」旨供述しているが、原第一審第三回公判において右自白を翻し、「昭和二三年一二月二九日家を出るときには、黒い風呂敷包み(作業服、袢天、米在中)を所持していただけで鉈は持たず、車内や人吉市内で鉈を持ち歩いたこともない。」旨及び「昭和二四年一月九日ころ免田町の家に帰り、ふとんと鉈を持って出たが、井川政喜方でふとんの中に米を入れてゴザで包み、鉈もゴザで包んで二個の荷物にし、翌一〇日ころ一勝地へ出かけた。」旨供述している。

検察官は、当再審における上田証言、同尾方証言、写真(昭和五六年押第一七号の9)などによって、被告人が本件犯行後、その凶器である本件鉈を「高原」に隠したことは動かしがたい事実であるというが、これらの証拠から鉈を埋めた場所を確定することはできず、かえってその場所が極めて曖昧であることを示すこと、広漠たる地形、暗闇を考えれば後日捜し出すこと困難であることはすでに述べたところであり、また車中や人吉市内で一二月二九日会った溝辺ウキヱや平川ハマエが鉈を目撃したり気付いたりしておらず、鉈を所持していた事実を目撃した者は全くいないことについてもすでに触れた。

そうして、前記トメノは、24・3・5原第一審証人調書において「被告人が昭和二三年一二月二九日家を出た際鉈を持って出たかどうかは知らないが、昭和二四年一月八、九日ころ家に戻り家具を持って出た。」旨供述し、二四年一一月二四日(第八回公判)においても「同年一月八、九日頃夕方少し前頃家に帰ってきて、鋸、よき、鉈を持って行くがそれは何処にあるかと私に尋ねた。」と述べ、29・12・20三次証人調書でも同旨の証言をしている。検察官は右29・12・20トメノの証言は被告人が本件犯行を否認したのちに被告人をかばってことさら被告人の弁解に合わせてなされた不合理な供述で到底措信しがたいというが、被告人が犯行を明白に否認した原第一審第三回公判は二四年四月一四日であるから右同年三月五日証言はそれ以前の証言であり、さらに注目すべきは右トメノはすでに24・1・17巡面調書において「榮は本年(昭和二四年)一月九日に帰って来て夜具を取りに来たといい、ふとん一枚、毛布一枚をつつんで外に私に鋸は何処にあるか斧は何処にあるかと云っておりましたが、私は探してやりませんでした。」と供述している点である。

これらの供述と被告人が現に井川政喜方で荷造りをし一月一〇日ころ鉈を持って一勝地へ出かけた事実(井川マスノの原第一審証人調書、井川政喜の24・1・9三次証人調書等、この点は検察官も明らかに争ってはいないようである)を総合すれば、右被告人の鉈に関する原第一審第三回公判における供述を裏付けるものがあるとみるのが相当である。

さらに、前述のように、仮りに高原の土中に埋めたというのが真実であるとすれば、なぜ折角人里離れた、隠し場所としては恰好な山中に隠した凶器をわざわざ掘り出すのであろうかという疑問、家に入る前ぐるりの山の中に隠さねばならないほどの凶器を掘り出して逃走経路と同じような道を昼間持参して歩いていたのかという疑問もある。

以上の諸点に照らすと、被告人の自白調書中、本件鉈を一二月二九日家から持参し、凶行に用い、高原の土中に埋めたとする部分もたやすく措信できないところであり、後述の鉈に付着していたとされる血痕の疑問点を考慮するまでもなく、すでに本件鉈と犯行との結びつきが切断されているとさえいいうる。

鉈に関する自白に限ってみても、すでに述べたように不合理な点が多く、自白を裏付けるに足りる証拠はほとんどなく、これに反するような証拠が多いのに対し、むしろ被告人が自白を翻した原第一審第三回公判でいう「鉈は昭和二四年一月九日頃はじめて実家から持ち出したものである。」旨の供述に副いこれを裏付けるに足りる証拠が少なからず存在するということになろう。

10 秘密の暴露について

本件自白には犯人でなければわからないような秘密性のある事実が含まれているかどうか。

検察官は(1)押収された鉈が本件の凶器であること、(2)被告人の逃走経路、(3)鉈を高原の土中に埋めたこと、(4)角藏方への侵入口と侵入方法、以上の供述がいわゆる秘密の暴露にあたると主張する。前述したようにそもそも秘密の暴露というには、秘密性のある事実で捜査官が知りえなかったものが被告人の口から供述され、後に客観的証拠によって事実が裏付けられることが必要であり、以上のうち、特に(3)はなるほどそれが真実であるとすれば、自白の真実性を裏付ける重大な秘密の暴露といえよう。しかし、この点については信用性のある客観的証拠の裏付けを欠くのみならず、真実鉈を高原の土中に埋めたとするには多くの疑問があることすでに詳しく論証したとおりであるからくり返さないが、検察官は特に留意すべきとして、鉈を隠したこととか、その場所は、被告人が捜査官に秘匿しようと思えば極めて容易であったのに、被告人がこれを自白した点をあげている。しかしそのようにいうためには、前提として高原の土中に埋められた事実が立証されなければならないのではないか。

本件凶器が鉈であり、それが一勝地の伊藤イチ方に置いてあることについて二四年一月一六日に自白をとったのであるが(同日付員面調書)、二三年一二月二九日に犯行に使用された鉈がどのような経路で伊藤イチ方に至ったかについて翌一七日に調書が作成されている(24・1・17員面調書)。現に伊藤方にある鉈と犯行との結びつきは捜査官においても最も強い関心を寄せている事項の一つであることは当然であるところ、一般に犯行に使用した凶器を肌身離さず持って歩くというのは常識的にみてもおかしいのでどこかに隠匿したであろうということは捜査官ならずとも推測することであり、それがたまたま逃走経路のうち最も人目につかない場所である高原の土中ということになったのではないか。しかし土中にあるままでは伊藤方にあるはずはないので二四年一月九日にこれを掘り出して同月一〇日に同人方に持って行ったということにして鉈と犯行とのつながりをつけたにすぎないのではなかろうか。そうして、そのような自白調書が残されていることから逆に前述のように常識に合わない不合理な点が指摘され、むしろ虚偽の疑いが持たれることになるのである。

さらに、検察官が秘密の暴露という凶器、逃走経路、侵入口と侵入方法などはいずれもそれが真実であるとの裏付けを欠き、何ら自白の信用性を高めるものでないのみならず、自白にいう逃走径路などは極めて大雑把なもので人吉市から免田町に行くには当然通るべき道筋を述べているにすぎず、前示のようにその間球磨川をどこで渡ったかさえ述べられていないものである。古町橋にしても同橋を渡ったところにある一軒家にしても秘密性のある事項とまではいいがたい。侵入口と侵入方法にしても、入口から入っていないとすれば床下か雨戸をこじ開けて入るしかなく、捜査官は床下から入っていないというのであるから雨戸をこじ開けて入ったと当然想定されるところであって、もしそれが真実であるとしてもそれほど秘密性のある事実といいがたいものがあり、また、そもそも床下から侵入したのではないかとの疑いさえある。逃走口に至ってはなおさら立証があったといえないこと前に述べたとおりである。

なお付言するに、右1・17員面調書に「中学通りのタバコ屋の横の小路を少し行って右に折れ、しばらく行ったところで左脇に家があり、その家の中で二、三人青年の話し声が聞え……。」の供述があるけれども、この事実は永尾将郎(23・12・30員面調書)、白福実(同日付巡面調書)、折尾博(同日付巡面調書)によって裏付けられているように見られそうで、実は同人らの調書の日付から明らかなようにすでに二三年一二月三〇日に捜査官が知っていた事実であって秘密性のある事実とはいえないこと当然である。

11 任意性

(一) はじめに

以上のように被告人の捜査官に対する自白調書の内容には、重要な点で客観的事実に反し(創傷の順序、一回目に俣口を訪れたのが一月四日になっていること、二九日夜はっぴを着用し、地下足袋を履いていたことになっていることなど)、または反する疑いがあること(犯行時刻、逃走口、利き腕、鉈の所持など)、不自然不合理な点が多いこと(着衣等と血痕付着、犯行時刻と逃走経路、鉈を埋めたとする地点、動機及び白福家の位置の認識、指紋など)、さらに重要な事実について供述の欠落があること(トランクの物色)など到底信用に価せず、逆にいうと、自白調書に見られる客観的事実との不符合や不自然、不合理な点があたかもアリバイの成立を裏付けるかのような関係になっていることを述べた。この関係はことに「被告人の所持品や履き物」、「第一回目の俣口訪問の日」の点で顕著に認められる。

しかるに、なぜ強盗殺人という重大な事件についてこのような自白をしたのか、はたして任意性があるのかという点が当然疑問として問い直されねばならないことになろう。

それを究明するには、取調べの状況や自白するに至った経過、被告人の当時の健康状態、知識能力、経験など多岐にわたる事実の解明が必要になる。

自白の任意性は証拠能力の問題であるから、自白の信用性の前に論じられるべきとも考えるが、当裁判所は、本件がすでに確定判決を経、事件から三十数年経過したものであることに鑑み、また全証拠を検討した結果、証拠上最も明確な事実から順に論及する方がより実体的真実に接近することができ、より納得的な結論を出すことができると解し、かつまた本件ではそれを可能とする条件があると認めたので、敢えて前記のように信用性をまず検討したものである。

そうして、自白の信用性を検討した結果、前記のようにその内容には余りにも矛盾点、疑問点が多いことが明らかになったのであるが、そのこと自体からすでに自白の任意性に疑念を抱かせるほどのものである。

しかし、任意性の有無を判断するには前記のように取調べの状況等についての解明がどうしても必要であるところ、結論として、当裁判所が見る限り被告人の取調べ状況等については、証拠上弁護人や検察官がいうようには明白ではないといわざるをえない。

しかし、なぜ前記のような疑問点の多い自白調書ができたかという事実の究明は、自白の信用性にも関連することであり、また本件においては被告人が原第一審第一回公判で自白しているという事実があることを考えると、限られた証拠しか存在しないけれども可能な限りなされるべきものと解する。

(二) 捜査の経過

そこでまず、捜査の経過をみると、多良木利次の原第一審証人調書及び30・4・11三次証人調書並びに49・10・28六次証人調書、益田美英の原第一審証人調書、馬場止の同証人調書、福崎良夫の同証人調書、木村善次の30・5・23三次証人調書、被告人の24・1・19裁面調書、同日付検面調書及び員面調書(同1・14((弁解録取書))、同16二通((うち一通は弁解録取書))、同17・18)並びに巡面調書(同15)、山並の員面調書(同16)、溝辺ウキヱ(同16)及び村上キクエ(同18)の各巡面調書、被告人に対する逮捕状(二通)及び勾留状、司法警察員作成の緊急逮捕手続書(二通)及び逮捕状請求書(二通)並びに差押調書(二通)、人吉市警察署高尾選警視作成の24・1・25送致書、酒井喜代治作成の23・12・20盗難届、犬童清作作成の24・1・15盗難始末書によれば、本件捜査の経過は、おおよそつぎのようなものであることが認められる。

二四年一月四、五日ころ八代署巡査部長木村善次は、熊本県八代郡宮地村の駐在巡査島崎恵吉より、同月一日午前九時ころ宮地村に一人の男が現われて近所の者に対し「人吉で殺人事件があり犯人が宮地村に賍品を売りに来たことを聞知したので捜査に来た。人吉の丸駒に働く女の家を訪ねに行く。」と申し向けた旨連絡を受けたので、署長に報告のうえ聞き込み捜査にあたったところ、その男は人吉署の刑事と名乗ったことが分り、特殊飲食店「丸駒」で働く女の母親である村上キクエ方を訪れたところ、同女からその男が自分は刑事だが、丸駒に一泊してあなたの娘に事情を聞いたところ、かわいそうな境遇なので請け出したい等と語ったことを聞き、かつその男は白福事件についての手配犯人に服装、人相、体格、年齢等がよく似ており、右事件当時人吉市内に居たことが窺われたので、同事件の犯人が自己の不安な心理を隠し切れずに刑事と名乗ったのではないかとの疑いを抱き、さらに村上の話を手掛りに宮地村の大石組で尋ねたところ、村上方を訪れたのは被告人であるということが判明した。そこで木村巡査部長は同月一二日ころ人吉方面に赴き、免田町の被告人方、免田町警察署、人吉市内等で被告人の素行等を捜査したところ、被告人は二三年一二月二七日ころから家を出ており、人吉市内の旅館「孔雀荘」で稼働している溝辺ウキヱが白福事件の犯行当日である同月二九日の夕方、国鉄免田駅から人吉駅まで被告人と汽車で同道しており、しかも被告人は二四年一月六、七日ころから夜具を持って同県球磨郡一勝地村那良口の山奥に行っていることなどを聞き込み、前記情報を合わせて、被告人に対し白福事件の犯人との疑いを深め、同月一二日ころ人吉署に赴いて同署の警察官に捜査状況を通報した。人吉署では被告人の白福事件前後の動向等を捜査し、被告人が同事件の犯人であるとの嫌疑を抱き、同月一三日夕刻、右木村巡査部長及び人吉署の警察官四名が拳銃や手錠を携帯して自動車で同署を出発し、午後七時ころ前記那良口に到着後、歩いて山道を登り、午後九時すぎころ一勝地村俣口の伊藤イチ方に至たっが、その時被告人は寝床に入って右伊藤の子供と雑談していたので警察官二人が室内に入り、二三年一二月末ころ人吉を訪れたことはないかと尋ねたところ、被告人は曖昧な返答をし、人吉には行かなかった旨答え、溝辺らの供述と全くくいちがっていることから、警察官は被告人に対する嫌疑を深め、被告人に対し人吉署まで同行を求め、被告人を取り囲むようにして約二時間かかって山道を下り、那良口からは人吉署まで自動車に乗り二四年一月一四日午前二時三〇分ころ同署に到着した。そうして、同署警察官が被告人に対し二三年末の動向について尋問したところ、返答は暖昧でそのうち被告人は免田町の酒井喜代治方の玄米窃盗事件(以下別件窃盗事件という)及び同町の犬童清作方での籾窃盗事件を自白したので、別件窃盗事件についての盗難届を確認のうえ、同事件で被告人を緊急逮捕し、逮捕状請求書には同月一三日午後九時三〇分に伊藤イチ方で逮捕した旨記載し、同月一四日午前三時に人吉簡易裁判所に逮捕状を請求し、同裁判所裁判官より逮捕状が発付されたが、警察官は同日午後三時三〇分に別件窃盗事件についての被告人の弁解録取書を作成し、ついで翌一五日、酒井喜代治の盗難届の送付を受け、犬童清作に盗難始末書を作成させてこれを受理し、右各窃盗事件についての被告人の自白調書を作成したうえ、起訴猶予相当の意見を付して同日午前一一時三〇分人吉区検察庁検察官に事件送致の手続をとり、同検察庁はこれを受理した。さらに、人吉署警察官は同月一四日から被告人に対し、二三年一二月二九日孔雀荘を出た後の被告人の行動について尋問したが、被告人は同日夜は山並方に泊ったなどと弁解したので、裏付捜査をしたところ、同人方には同月三一日に来たことが判明した。二四年一月一五日になって被告人は白福事件についての犯行を一部認め、凶器は斧で高原の滑走路付近に捨てた(または埋めた)旨自白したので、二度にわたって捜索したが発見できなかったところ、被告人は自白を翻した。そうして、警察では同月一六日正午ころ被告人を別件窃盗事件については釈放したが、白福事件については被告人の犯行と断定し、同日午後二時ころ白福事件の嫌疑により被告人を緊急逮捕し、同日午後五時逮捕状を請求し発付された。右再逮捕後、同日夕刻から司法巡査馬場止が被告人を取調べたところ、被告人は白福事件について全面的に自白し、凶器は鉈で伊藤方に置いてあること、犯行状況、逃走経路について供述したので、司法警察員福崎良夫において同日午後一〇時三〇分弁解録取書を作成するとともに、同月一六日付の自白調書を作成し、同月一七日捜索差押状の発付を受けて鉈、マフラー等を押収し、同日付及び同月一八日付の自白調書がそれぞれ作成された。同月一九日には検察官において被告人の自白調書を作成し、勾留請求をしたが、被告人は勾留尋問の際白福事件についての犯行をすべて認め、勾留状が発付された。

概略以上のようなものである。

(三) 手続的違法

右捜査の経路から本件にはつぎのような手続上の違法が認められる。

第一は、六次抗告審決定が指摘しているように、警察官は白福事件について取調べる意図の下に、令状はもとよりこれといった証拠もないのに、被告人を一勝地村俣口の伊藤イチ方から警察署まで同行したものであって、日も暮れたあとすでに床に就いていた被告人に同行を求め、深夜きびしい寒気の中を警察官五名の看視下に約二時間ばかり山道を歩行させた後、自動車に乗せて人吉警察署に連行したものであることを考えると、拳銃や手錠をちらつかせたか否かを問うまでもなく、右同行は任意同行として許される範囲を超え、逮捕と同視すべきものというべきであり、したがって右は違法拘束であり、かかる違法拘束は許されないということである。

つぎに右認定事実によれば、被告人の窃盗事件に関する弁解録取書は逮捕後約一三時間を経過した一月一四日午後三時三〇分作成されていること、また本件白福事件に関する弁解録取書は逮捕後約八時間三〇分を経過した一月一六日午後一〇時三〇分に作成されており、いずれも被告人に対する刑事訴訟法二〇三条一項に規定する手続は逮捕後直ちになされなかったというべきであって、右法条に反するものといわなければならない。検察官は新しい訴訟法が施行され間がないことから不慣れのための過ちにすぎないというけれども、法律に違反していることは厳然たる事実であり、実質的に問題視される点は、逮捕後弁解録取書を作成するまでの間に取調べがなされおおむね自白を得たうえで弁解の機会を与えたことになるのではないかということである。単なる過誤ではすまされないといわねばならない。

最後に、別件窃盗の送致書には同月一五日釈放と記載されているが、被告人は実際には同月一六日正午ころ釈放されている。もし同月一五日釈放指揮されているとすれば一日違法拘束されたことになる。事実関係は、必ずしも明確でないところはあるが、右記載からすればなるほど一日違法拘束をした疑いがあるといわねばならない。そうして、その間に高原へ同行するなど白福事件について取調べをしていることは間違いない。検察官は、一五日釈放の起載は単なる誤記にすぎないというが、重要な事柄であり簡単に誤記されることも考えにくく、やはり他に明白な反証なき限り記載されている一五日釈放指揮がなされた疑い、したがって一日違法拘束の疑いは残るというべきであろう。

右に指摘した点は、新刑事訴訟法施行直後である二四年当時の犯罪捜査がいかに手続面にうとく杜撰なものであったかを示すものとみざるをえないのであるが、右に指摘した手続的な違法がただちに自白の任意性を否定してしまうほどのものであるかはにわかに断言できないが、自白の任意性を判断するに当っては手続の正当性も当然考慮されるべきであり、ひいては自白の信用性にも影響することを念頭に置かねばならない。

(四) 取調べ状況

(イ) はじめに

被告人の取調べ状況がどのようなものであったかについては、多くの事件がそうであるように証拠が非常に限られている。そうして本件では特にこのことが痛感される。しかし、当裁判所は、11(任意性)の(一)(はじめに)で述べたように本件被告人の自白調書がいかに矛盾に満ち、客観的真実と符合しないものであるかを考えるとき、そのことだけからすでに何らかの無理な調べがなされたのではないかと疑わざるをえないものがあるように思われるのであるが、なお限られた資料ではあるけれども本件における取調べ状況に関する各証拠を検討してみる。

(ロ) 被告人の弁解内容

なぜ捜査段階で自白したかについて被告人はつぎのようにいう。

まず、被告人がはじめて明確に自白を翻した原第一審第三回公判で「警察に引っ張られたのは初めてなので嘘をつくってそう云うて来ました。」「人吉警察で三日三晩そんなことはないと云うたが白状せんと腕立伏せをせろとか板張りの上に座っておれと云われるので私は嘘をつくって云うたのであります。」と答え、38・5・20四次本人調書(同月一八日実施)によれば「昭和二四年一月一四日人吉署についてから益田刑事に調べられた。私がおろおろして答えるとまわりを取囲んでいる人達が嘘を云うな、はっきり云えと云った。その人達が手にした警棒で私の身体をつついた。私は警察で調べられたりするのはその時が初めてなのでびっくりして、余計おろおろしてしまった。その夜は眠らず、主に一二月二九日を中心にどこでどうしていたか何回も何回も尋ねられた。夜が明けてから別の小さな調室に入れられ、午后二時頃まで刑事が一人見張るだけで一人で放っておかれた。午后二時ころから松川刑事がやはり二九日を中心に聞かれる。私の返事を聞いては室外に出て行き暫くして帰ってきて嘘を言うなといって、私の首筋をつかんで机に押しつけたりした。一晩中眠らせずに調べられた。途中で机に突伏して寝てしまった。一五日は窃盗事件で調べられ結局認めた。同日の夜はそのまま舎房に帰されてそこに寝た。一月一六日は一度釈放されたが午后二時ころ再逮捕された。また狭い調室に入れられ、一二月二九日は丸駒に泊ったというと刑事は出て行き暫くして上ってきて嘘を云うなといって私の頬を打ったり、背中をつついたりしていじめた。同月一八日の夜名前を知らない二、三人の刑事が明日は検事調べだが警察でいった通りに供述しておれば調べの結果許されるかも知れないといったのでそう思っていた。人吉署から八代の検察庁に連れてこられる間に多良木刑事から警察で述べた通りのことをいえば執行猶予などで家に帰れるかも知れんといわれた。検事調べのときも初めは否認したが、検事がそんなことをいうと又地獄に行くぞというので、又人吉の警察に連れて行かれるのかと思って警察でいった通りを認めた。第一回の公判前、父に面会したが、隣に看守がいたし、おどおどしていて別に話はしなかった。」旨答え、裁判官の「人吉署で調べられていて一番辛かかったことは何か。」との問いに対し「夜眠らせて貰えなかったことです。」と答え、「一晩中寝なかったことがあったか。」との問いに対しては「一月一三日から一八日までの間で舎房で寝たのは一晩だけでした。」と答え、また「私の返事が合わんので嘘を云うなといって平手で頬を打った。窃盗の調べで首筋を押えて机に押しつけたり床の上を引きずったり、押転ばして頬を打ったりされた。」旨述べている。

45・2・18及び同19各民事本人調書ではつぎのように述べている。すなわち、同18調書では「一四日二時ころから一五日の午後一一時まで睡眠を与えられずぶっ続け調べられた。二九日丸駒泊のアリバイを主張すると、床にけ倒して踏んだり、けったりして、とにかく今考えてみるとむごいことをされた。上衣ジャケツを取られシヤツ一枚、暖房のない部屋で取調べ、寒さでふるえ、体が硬直して言葉も出ないような状態になっていた。多良木刑事が私の名前を書いて私の拇印を押された。一八日から一九日午前三時ころまで取調べられ、その後私は浦川刑事と片手に手錠をかけられたまま当直室で一寸仮眠した。検察庁では否認すると地獄に行くぞといわれたので再び警察に連れていかれるのではないかと思って一応認めた。」旨、また同19民事本人調書では「突き落されて踏まれて、私が長くなるとたたかれたり、応じるまで後ろに両手を逆手にねじられた。床の上に正座させられ、三〇分も四〇分も座っていたことがある。」旨供述している。

そうしてまた、同19民事本人調書では「一三日から一九日まで、その間監房にはいったのは一五、一六日の晩二回だけ、一五と一六の晩も体が痛くて休まれなかった。弁護人に会ったとき、殺しなんかやってないという余裕はなかった。自分が本当のことをいっても取上げてもらえそうもないと思っていたのと、ぼくたちの経験からして君は自分がやったことを忘れてしまう病気があるといわれた。一応相手が警察官でもあるし、私は当時はいなか者だったから、そういうこともあるのかなというような疑問を持って曖昧な考え方だった。」旨答えている。

さらに、50・8・14六次本人調書では「疲労でふらふらだった。眠れなかったし、取調べがきびしかった。詳しく言ったらもう果てしないけれども、床の上に座らされたり、腕立てをさせられたりということを繰り返し、夜寝せられなかったから、そういうことで相当疲労していた。一六日の夜間浦川清松と仮眠した。寒かった。それから球磨地区署の留置場へ連れて行かれた。独房だった。夜中の二時過ぎぐらいかと思う。警察の方がどうしてこんなに遅く連れてきたかと言っていたから。一七日は朝から取調べ、完全に調書が出来上ったのは一八日の夜。留置場には行ってない。猟銃のことを持ち出して進駐軍に渡すと再三おどされた。窃盗事件も強盗事件も否認すると助からないぞと拘置所の中で聞いた。二二年ころ頭を打ち記憶がおかしくなった。警察で記憶を追及されたときにしどろもどろになったことがある。」旨答えている。

さらに、本件再審第一二回公判において「一四日人吉署についてから五人の刑事が取り囲み、入れ替り立替り、一二月末の行動についてきかれる。それが一四日の晩まで続いた。一四日の午後三時半頃、玄米窃盗についての弁解録取書できる。一五日に窃盗についての自供調書ができている。同日検察庁に行く。同日凶器のことで川辺川でよき(斧)をさがす。その晩二時くらい留置場へいく。翌一六日一二時ころ釈放され、すぐ再逮捕される。同日の夜一〇時半ころ本件の自白調書がつくられている。そこでしばらく休んで国警の留置場に行った。国警の留置場に行ったのは一三日に連行されてからその時が初めてである。」旨述べ、同第一三回公判では「一四日私はそのころは疲れていたので途中で机に突伏して寝てしまって何時ころまで調べられたか覚えていない。目が覚めたら毛布をかけてくれていた。夜が明けてから朝食を漬物だけですませ、その後午後二時ころまで一人で放っておかれた。眠ったと思う。」旨述べている。

(ハ) 被告人の弁解についての検討

検察官は以上の被告人の弁解をみて「その内容は供述する度に変遷し、全く一貫性が認められない。被告人の弁解は、被告人が刑責を免れるために想定し得るありとあらゆる虚偽の事実を手当り次第に供述したにすぎない。」という。

すなわち、原第一審公判の段階では、前記のような弁解しかしていなかったのに、再審請求段階に至ると、①警棒で体をつつかれた、②首筋をつかんで机に押し付けられた、③床の上を引きずられたり押し転ばされ平手で頬をはったりされた、④一月一三日から一八日までの間、舎房では一晩だけしか寝させてくれなかった(以上、38・5・20四次本人調書)、⑤床にけ倒され踏んだり蹴ったりされた、⑥上着やジャケットを脱がせ裸同然にされた、⑦平手とげんこつで頭を殴られた、⑧警棒で尻や胸を打たれた、⑨両手を逆手にねじり正座させられた(以上民事本人調書)、⑩当時猟銃を所持していた件で進駐軍に渡すと脅された、⑪昭和二二年ころ事故で頭を打ちその後記憶がはっきりしなくなった(以上六次本人調書)などと弁解しているが、その弁解内容は供述する度に変遷し、四次再審請求が棄却された後は、猟銃の件とか頭の怪我とかそれまで全く述べていなかった新たな弁解をつけ加えているというのである。

そうして、なるほどなぜ自白したかについて被告人が原第一審でいうところは前示のように簡単であり、かつ取調べ状況につき取調べに当たった福崎巡査部長、益田、多良木、馬場各巡査は原第一審において、すでに暴行脅迫等の事実は全くなかったと証言し、なお多良木巡査及び馬場巡査が「被告人に腕立伏せをさせたり、板張りの上に座らせたりしたことはない。」旨証言したのに対し、その都度裁判長から「被告人は証人を尋問することができる。」旨告げられたが、いずれも「証人に尋ねることはない。」と答えていることが公判調書の記載から窺われるところである。しかし、取調べに当たった警察官等が暴行脅迫の事実はなかったと証言したからといって、直ちに被告人のいうところが虚偽であると速断するのは相当でないこというまでもなく、さらに取調べの経緯やその他客観的に認められる状況に基づいて判断すべきであろう。

まず、原第一審公判において被告人の述べることが極めて簡単であることについて考えるに、それが犯行を明白に否認した同第三回公判において裁判長の追及的な質問に対して答えている中の一齣として現われたにすぎないという点に注意を要する。原審における弁護人本田義男の45・11・4民事証人調書によれば、同弁護人は「公判で被告人が供述する内容と自供調書に書いてある行動とまるで様相が変ってきたので、私もびっくりしました。」というのである。同第三回公判における供述経過を見れば明らかなように、同公判では、被告人は裁判長の質問に対し、二三年一二月末から翌二四年一月にかけての自己の行動を、特に一二月二九日と同月三〇日の行動を中心に詳しく供述することによってアリバイが成立することを強調した内容のものである。警察でどのような取調べを受けたとか、なぜ警察や第一回公判でそのような供述をしたかということはもとより裁判官をはじめ訴訟関係者としては強い関心を示さざるをえないことではあるが、被告人としては何よりも自己のアリバイを主張することで頭がいっぱいであったであろうことがその供述内容を見て推測にかたくないといえる。第三回公判での被告人の供述の展開は弁護人にとっても意外のことであったというのであり、そのような状況の下で取調べ等に関する弁護人による詳細な質問もなされなかったことから、被告人が警察の取調べで最も強く印象に残った「警察に初めて引っ張られ、三日三晩自白せんと腕立伏せをしろとか板張の上に座っておれといわれた」という事実を吐露したに止まったといえるのではなかろうか。一般的に考えて、なぜ警察でありもしない事実を認めたかといきなり質問された場合、その理由について最初から具体的事実をこと細かに摘示して供述できるとは限らないのであって、後になって考えてみるとああいう事実もあった、こういう事実もあったという具合に、多くの事実が重なり合って意に反した供述をしたということに気付くということの方がむしろ多いのではなかろうかとさえ考えられ、自白するようになった原因と自白との因果関係はしかく単純でないことが多いのではなかろうか。そのような観点から被告人の右簡単な供述を見るならば、それはむしろ率直な答えとみることができるのであって、原第一審の公判で述べられていないことが再審請求の段階になって色々出てきたとしても、右の経過を見るならばそれほどおかしなことではないようにも思われる。

猟銃の件や頭の怪我の点はそれまでの主張と相当趣を異にするようであるが、二四年一月一〇日伊藤イチ方へ行ったときには現に猟銃を持って行ったことも、橋の穴から落ちて頭部に怪我をしたことも間違いない事実であることが窺われるところ(被告人の上申書や供述)、当時猟銃を所持していることについて進駐軍が極めてきびしい態度をとったであろうことは推測にかたくないことなどを考えると被告人のいうところがあながち虚偽とも決めがたく、検察官がいうように刑責を免れるために、想定しうるありとあらゆる虚偽の事実を手当り次第に供述したにすぎないとするのは明らかに行きすぎではなかろうか。

死刑の判決が確定した者、すなわち死刑囚は、被告人の陳述をまつまでもなく毎日が死の恐怖との対決であったろうと思われる。三次、四次と再審請求は結局棄却されている。そのような状況のとき自己の冤罪を訴える者がいくらかの誇張や思い込みが仮りにあったとしても、これをこと細かく弁解の不合理として指摘しとりあげるのは人間の心情を理解しない憾みがありはしないか。しかも、被告人がいっていることは右にみたようにありとあらゆる虚偽の事実を手当り次第に主張していると直ちにいえないものばかりである。

そうして、被告人は四次本人調書で裁判官の質問に対し、人吉署で調べられて「一番辛かったのは眠らせて貰えなかったことです。」と述べ、「一月一三日から同月一八日までの間で舎房で寝たのは一晩だけでした。」ともいう。少なくともこの趣旨は被告人の全供述を通じて一貫しており変遷はないといえる。

つぎに、被告人が原第一審において多良木巡査及び馬場巡査の各証言に対し、反対尋問をしなかった点についてであるが、一般に弁護人がいる場合、まず弁護人が反対尋問するのが通常であって、弁護人をさし置いて、あるいは弁護人が反対尋問をしないのに敢えて被告人自ら証人に尋問するというのは特別の場合であることが裁判実務を通じて明らかな事実である。反対尋問において効果的な尋問を発することは法律の専門家でも容易でなく、まして敵対証人である取調べ警察官に対し、「取調べの状況」という密室の中の出来事について反対尋問するということはよほど明白な客観的証拠を手の内に持たない限り、せいぜい水かけ論に終るかあるいはそれどころか自己が立証したいと思う事実と反対の事実を強調した駄目押し的な証言に終ってしまうことの方が多い。

当時の被告人の能力をもって取調べ警察官に対してはたして反対尋問することができたであろうか。「証人に尋ねることはない。」旨述べていることをとらえて被告人が嘘をいっている証拠であるとするのはいささか酷に思われる。

(ニ) 睡眠時間及び取調べの状況

そこで、被告人が警察での取調べの際最も辛かったと強調する問題の睡眠時間についてみてみる。

前記「捜査の経過」で見たとおり、被告人は二四年一月一三日午後九時すぎころ、伊藤イチ方で警察官に人吉署まで同行を求められ、一四日午前二時三〇分ころ同署に到着し、直ちに二三年末の動向について取調べを受けた。そのうち、別件窃盗事件と籾窃盗事件を自白し、翌一五日右各窃盗事件について調書を作成されたが、同日になって白福事件についての犯行を一部認め、斧を探しに警察官と共に高原付近へ行くが発見できず、その後被告人は白福事件(本件)の自白を翻した。翌一六日正午ころ、一たん別件窃盗事件について釈放されるも、同日午後二時ころ、本件で緊急逮捕され、同日夕刻から馬場刑事の取調べを受け、白福事件を全面的に自白した。続いて福崎部長の取調べを受け同日付弁録と自白調書が、同月一七日と同月一八日に自白調書が作成され、同月一九日検察官の取調べを受けて検面調書が作成された経過が認められる。

そうして、前記のように被告人は一三日から一八日までの間舎房で寝たのは一晩だけ(四次本人調書)といい、また、一四日午前二時ころから一六日の午後一一時まで舎房での睡眠時間を与えられず、ぶっ続けで調べられた(45・2・18民事本人調書、六次本人調書、当再審公判供述)という(二四年一月一四日は一晩眠らされずに調べられたが、途中で机に突伏して寝てしまった((四次本人調書))ともいう)。この点につき浦川清松の49・9・21六次証人調書は、「昭和二四年一月一六日白福事件で逮捕した日で逮捕年月日と時間はわからないが逮捕した刑事が取調べ終った夜だった。松本係長の命令で下の電話交換室に仮眠のため連れていく。非常に寒かった。免田から疲れたから長くならせてくれんかと相談があった。手錠は一方は免田の右腕、他方が私の左腕だった。そのうち免田が腰を曲げがたがたふるえだした。毛布とふとんをかけさせた。それでもとまらないのでもう一枚かける。えびが二つ折りになったようにしていた。しばらくしてからぐうぐういびきをかいてぐっすり休み出した。仮眠させたのは逮捕した晩に間違いない。それから球磨地区署に留置のため連れていく。昭和二四年一月当時人吉署の建物内には、留置場が設置されてなかった。球磨地区署に留置した。」旨供述し、被告人の供述するところとほぼ一致する。

右検討したところによれば、一月一三日午後九時すぎころ伊藤イチ方で逮捕されてから一月一六日午後一一時までは舎房での睡眠を与えられることなく取調べが続けられたとする被告人の供述に対しては、これといった反証もなく、かえって浦川清松巡査の前記証言は、被告人が一六日の夜取調べが終った段階では睡眠不足や寒さのため相当疲労していたことを窺わせるものとして、右被告人の供述するところを裏付けるものと評することができる。

つぎに取調べの状況について検討を加えるに、前記被告人が主張する取調べ警察官による暴行、脅迫的言辞や着衣をぬがされた事実があったということは、前記のように取調べ警察官において否定するところであり、取調べに当たった四名の警察官とも口をそろえて、被告人が改悛の涙と共に自白したと証言する(福崎良夫、益田美英、多良木利次、馬場止の原第一審各証人調書)。

この点に関しては先にも触れたように、被告人と取調べに当たった当の警察官といういわば当事者の供述以外に決め手になるような証拠はなく、わずかに、一月一八日に人吉署の面会に行った蓑毛厳が「服装は兵隊服一枚着とったと思う。シャツのようなものは着ていなかったと思う。寒そうにふるえていた。ほほのあたり両方がはれあがるかむくんだような格好だった。」旨証言しているのみである(45・8・13同人の民事証人調書)。

しかし、取調べ官が否定したからそのような事実は全くなかったと速断すべきでないこと前に述べたとおりであり、また被疑者が自白を始めるときの状況について、例えば益田巡査は「わっと男泣きに泣いてこれから話しますといって自白した。」と証言し、右は一見臨場感あふれ、迫真性に富むようではあるが、同巡査は同じ調書で「その晩一緒に寝た浦川巡査の話では『(被告人は)一切を正直に話してしまったのでこれで安心した、勤めが終ったらお礼に上がります。』と答えたということです。」とまで証言し(前記原第一審証人調書)、このような証言は関係者の心証に少なからぬ影響を及ぼすものがあると思われるのであるが、当の浦川清松巡査は、六次再審請求の段階で前示のように一月一六日被告人と一緒に仮眠した事実を詳細に供述しながら、被告人からそのような話を聞いたことがないと明白に否定しているのである。取調べ官の証言がオーバーになり勝ちであることを物語っているのではなかろうか。このような一例をみても取調べ官四人が口をそろえて「改悛の涙と共に自白した」という点を文字通り受取るのは危険というべきであろう。

なお前記益田巡査の証人調書について一言すると、同人に対する証人尋問は検察官の都合で途中で中断され反対尋問がなされないまま終っていることが記録上明らかであり、その後このことについて何らかの手当がなされた形跡もない。当時の訴訟関係人の手続的保障に対する関心の薄さが窺われるところである。

右のように捜査官の証言するところがにわかに措信できないとして、それでは被告人の主張するところが全面的に信用でき間違いないものと認定できるかというと、睡眠時間の点や鑑定のため着衣が脱がされたであろうことは客観的な裏付けを有しそのとおり認定してよいと思われるが、その他の暴行や脅迫的言辞については、前記蓑毛巌の証言はあるけれども客観的な裏付け資料が十分でないといわざるをえない。

しかしながら、前記のように「刑責を免れるために、想定しうるありとあらゆる虚偽の事実を手当り次第に供述したに過ぎない。」ものとは到底いえず、それなりの迫真性と合理性を備えた供述と評価すべきものと解する。

(ホ) 当時の被告人の知識能力と健康状態

免田小学校長作成の成績証明書(二通)によれば、被告人の小学校一年から六年の評定平均が全部「丙」であり、算術は全学年を通じて「丁」であること、本田義男弁護人が民事証人調書で被告人のことを「いやそれはもう非常に私はこれは遅鈍な男だなという感じをいだきました。」と述べており、何よりも被告人の24・1・16員面調書の添付見取図署名部分も説明部分も誠にたどたどしい片仮名文字であることは、当時の被告人の知識能力が極めて低度のものであったことを物語っているといえよう。さらに被告人には頭の怪我があった。すなわち、被告人の六次本人調書によれば、「闇夜を無灯の自転車にのって橋の上の穴から落ち頭を打ち割った。冬寒い時とか、つゆ時なんか左半分がわんわんし、深く物事を考えるとぼうとなってくる。このため警察で記憶を追及された時にしどろもどろになったことがある。」旨述べ、当再審第一二回公判では、自転車を無灯でのっていて橋の上の穴から落ち頭を怪我したこと(同公判では二三年といい、六次本人調書では二二年という。)、当時の体の調子は肋膜を患い、頭を怪我して仕事ができず遊んでいたというのである。

検察官は頭の怪我の点は六次段階で初めて主張されたもので、自白の任意性とは何の関係もないというのであるが、被告人は頭の怪我が原因で記憶回想が十分でなく、ためにアリバイを追及されてしどろもどろになったというのであるから自白をした結果との関係ではやや間接的な原因といえよう。したがって被告人が後になってなぜ取調べのときアリバイを思い出せなかったかを色々考え、頭の怪我の点に思い至ることも十分ありうることであり、それ以前の段階で供述していないとしても全く不合理とまではいえないのではなかろうか。

取調べを受けた当時知識能力が普通より相当劣り、健康状態もすぐれなかったことは、肋膜が原因で炭坑での採用を拒否された事実などから窺うことができよう(24・1・17員面調書など)。

(ヘ) 警察官の取調べについての結論

右検討を加えたところから被告人は、同月一三日午後九時三〇分から約五時間かかって人吉署まで連行(翌午前二時三〇分着)され、直ちに白福事件のアリバイ等二三年一二月下旬の行動について追及されたこと、二四年一月一四日は机の上に突伏して一時仮眠したこと、当時人吉署(人吉市警)には留置場がなく、国警球磨地区署にあったこと、同月一六日午後一一時ころ白福事件の自白をとられた後留置場で寝たこと、したがって、同月一三日から同月一六日まで留置場では休んでいない疑い(四次本人調書は同月一五日も留置場で休んだことをいう部分もあるが、他の個所では、同月一三日から同月一八日までの間舎房で寝たのは一回だけで、それが一六日であるといっているのであるから、一五日というのは勘違い供述と思われる)、取調べ期間のうち、おそらく鑑定のためと思われるが、上衣やズボンを脱がされたまま取調べを受け、その際は寒さが身にしみたであろうこと(被告人は体が硬直したという)、以上の点は事実もしくは少なくともその疑いがあるものとして指摘されよう。

つぎに、被告人がいう(イ)正坐、腕立て伏せ、(ロ)その他警棒でこづく、殴る、ふみつける等の暴行、(ハ)猟銃の件、(ニ)頭部の怪我の件及び当時の健康状態などが問題になるが、右のうち(ハ)と(ニ)については、これらが自供の任意性とどのように関連するのかはさて置くとしても、そのような事実があったことは認められよう。

問題は(イ)と(ロ)の存否及び被告人は二四年一月一三日から同月一八日ころまで一体どの程度の睡眠をとることができたかであろう。被告人は取囲んでの取調べも含め、正坐や腕立て伏せ、その他の暴行の事実があったと強く主張し、取調べ警察官は、すべてきっぱりと否定しているところであるが、前記蓑毛巌の証言や浦川の証言によれば、被告人は相当疲労し、寒さが身にこたえていたことは認めるにかたくなく、相当きつい調べがなされたであろうことは考えられるが、この点の存否を断定することは、証拠上しかく容易ではないといわざるをえない。しかし前記杜撰な信用しがたい自白調書の内容に徴すれば、被告人の述べるところもあながち誇張や虚偽といいきれず、そこに述べる程度の強制や暴行があったのではないかとの疑いは警察官の証言によっても払拭できないところである。

睡眠時間については、二四年一月一三日から同月一八日まで留置場で寝たのは一回だけという事実及び浦川の証言から考えて、被告人のいうところは誇張でないように思われる。

以上のようにみてくると、本件では睡眠時間、寒さ、健康状態、当時の被告人の知識水準及び手続的違法の事実が任意性を判断するにあたり、十分考慮されねばならないことになろう。

(五) 別件逮捕等弁護人の主張する点について

なお、本件の送致が二四年一月一八日か同月一九日か、強盗殺人緊急逮捕の資料に記載されている資料は後に記載されたとみるほかないなど、手続面に杜撰さが示されているが、これらはそれ自体で手続を違法たらしめるものとまではいえないだろう。

そうして、別件窃盗についての逮捕勾留が一体いわゆる別件逮捕・勾留になるかは問題であるが、しかし、六次抗告審決定がいうように「別件窃盗事件の逮捕につき、事案の内容は深夜免田町で敢行された酒井喜代治方の玄米一俵の窃盗事件であるが、被害は軽微とはいえず、同じく免田町で深夜犯した犬童清作方の籾七俵の窃盗事件もあって、当時考えられていた被告人の犯罪性向はたやすく看過しがたいものであり、しかも被告人は当時家出して定まった住居も有していなかったものであることから、身柄確保の必要性も存したことが認められるので、被告人を別件窃盗事件で緊急逮捕したことは違法不当であるとはいえない。もっとも、警察官としては本件についての取調べの意図を有していたもので、別件逮捕中に本件についても被告人を取り調べたこと(被告人は犯行の一部を自白した後これを翻した)は認められるけれども、この間に別件窃盗事件につき被告人を取り調べてその自白調書を徴し、自白の翌々日には被告人を釈放していること、右窃盗事件については逮捕だけで勾留には至っておらず、しかも本件については被告人の供述調書が作成されていないことなど取り調べ状況をみても、主として本件のために取り調べが行われたものとは認められず、別件窃盗事件の逮捕が不適法であるとは断じがたい。」ということであり、捜査官において、もっぱら白福事件の捜査のために別件窃盗事件で被告人の身柄を拘束したと断じがたく、したがって、別件窃盗事件についての逮捕がいわゆる別件逮捕として違法性を帯びると断じがたい。

(六) その他

最後に、被告人は原第一審第三回公判で裁判長から自供調書につき「うそにしては詳しいことはいわれないと思うがどうか。」と追及され、同第四回公判においては弁護人からも「被告人自身が本件の凶行をやっていないのによう昭和二四年一月一六日付員面調書添付図面が書けたものだね。」と質問されている。

そうして、被告人の捜査段階における自白調書をして「詳細かつ具体的で整然としており、終始一貫している。」との見方もある。なるほど、自白調書の内容が詳しいとか具体的であるとかいうことが、自白の信用性や任意性を判断する資料になりうるものであることはいうまでもないが、今日ではむしろいわゆる秘密の暴露の有無とか客観的事実との符合、不符合、客観的証拠による裏付けの有無等がより重要な判断要素にされ、より緻密な考察が要求される。

そもそも本件自白調書の一体どの点を称して詳細といい具体的かつ整然とし終始一貫しているというのか疑問であり、強盗殺人事件の調書としては裏付けを欠いた多くの点で客観的事実と重大なくいちがいを示し、不自然な通り一遍の調書であることはすでに信用性のところで詳細に論じたところである。まさに「供述者は自己が経験したことのない事実について客観的証拠を示されて、これに合致した、あたかも自己が経験した事実であるかのように供述することもありうるのである。」という認識に立ち、それ故に秘密の暴露の有無、客観的事実との不符合を検討しなければならないのであって、単に「詳しい」とか「客観的事実に合っている」とかの事実から自供の信用性を云々することは、ことを誤る危険性がある。調書に記載されている内容が、捜査官の何らの追及も誘導もなく、被告人の口からすらすらとすべて述べられたという認識前提に立つならばともかく、例えば犯行現場の状況にしても、ほぼ主要な大まかなところは捜査側において証拠を収集していることである。

原第一審第一一回公判における「お宮さん」の存在に関する弁護人の質問など、原第一審公判においては、裁判長からはもとより弁護人からも被告人に対する追及的質問がなされている場合が多く、それはともかくとして、取調べの状況や取調べ時の苦痛などについて積極的かつ詳細な質問は全くなされておらず、片手落ちの印象が非常にきわ立っており、手続面での保障とか自供の任意性に対する配慮というものが当時二四年ころの刑事裁判でははなはだ軽視されていたのではないかと窺わせるものがある。

そのような審理過程の中では被告人も、弁護人すらもアリバイ立証に力点を置き、自白の任意性や信用性について原第一審において例えば同房の留置人を調べるとか、面会した肉親を調べるとかするなど十分なる弾劾をしていない。このことが後に検察官をして、手当り次第の主張をしているといわしめる原因をつくっているといえる。

(七) 結論

以上の諸点に鑑みると、被告人の自白調書にたやすく証拠能力を認めることが許されるか否かについても問題があるといえるが、本件がすでに確定判決を経た事件の再審公判であり、自白調書の信用性が争点の中心に据えられて審理がなされてきた経緯及び三十数年前の取調べの状況等につき、これを現段階に至ってこれ以上明確ならしめる方法、証拠が発見されたり出現したりする可能性はもはや考えがたく、この点については前記程度の事実認定しかできない以上、任意性を全面的に否定することは留保せざるをえないが、少なくとも、その信用性の判断がいっそう慎重になさるべきことは当然であるし、また右のようにかくも粗雑な矛盾に満ちた自白内容の調書であってみれば、自ずからその任意性についても疑いが残るといわねばならないのではなかろうか。

三  原第一審第一回公判で認めたことについて

1 第一回公判における供述

被告人が取調べ段階で自白したことについての被告人の言い訳が相当か否かはともかくとして、もし被告人が本当にやっていないのであるなら、肉親や弁護人と面接した後の原第一審第一回公判で自白したのはどういうことであろうかという疑問は当然であり、本件では特にこの点について言及する必要があろう。

二四年一月二八日本件住居侵入、強盗殺人、同未遂事件が起訴され、同事件の原第一審第一回公判は二四年二月一七日開かれた。同事件の右第一回公判調書には、その冒頭手続において、被告人は事件について、「白福角藏外三名を殺す気でやったのではなく、発見されたと思って逃げるため無我夢中になって同人等に斬りつけました。又同人方に刺身包丁もあってそれで白福角藏を傷つけたことは相違ありませんが、傷害の部位程度等は判りません。その他は起訴状記載の通り相違ありません。」と述べ、弁護人は「被告人には殺害の意思はなかった。又公訴事実中『強取しようと決意した』『矢庭に家人を殺害する意思をもって』『長女イツ子、次女ムツ子に対しては同人等が即死したものと誤認して』とある部分は否認する。」と述べたとの記載があり、さらに証拠物の取調べに際し、被告人は裁判長の質問に対しつぎのように答えている。

問「この刺身包丁に見覚えがあるか(原第一審証第一号、再審昭和五六年押第一七号の1)。」

答「本件犯行当時白福角藏方にそんな刺身包丁があって、私はそこにあった刺身包丁を使って白福角藏を刺したことはありますが、それがその当時使った刺身包丁かどうか覚えません。」

問「この鉈は誰のものか(原第一審証第二号)。」

答「私のものです。」

問「この鉈を本件犯行に使ったのか。」

答「左様です。私は左利きでありますので、この鉈を左手に握って刃を下向きにして角藏に斬りつけました。」

問「この鉈は何のために持っていたのか。」

答「木を切り倒したり枝を下ろすのに使うためです。」

さらに、マフラー、ズボン、地下足袋について証拠調べがなされ、袢天につき「この絆天は私のもので、本件犯行当時私が着用していたものです。私はこの袢天を白けた国防色の作業服の上から着て帯は締めないで、この袢天の両方の裾を寄せて腹の処でから結びに結んでいました。」、また、草刈鎌につき「その草刈鎌はよく判りませんが、柄の処に梅の花の形の焼判が押してあるので、私の家のものではないかと思う。先程お示しの鉈の柄にも、これと同様の梅の花の形の焼判があり、その焼判は私の家のものです。この草刈鎌は本件とは何の関係もありません。」と答えている。

右各記載は速記録ではないので、被告人の供述がそのまま記載されているわけではなく、ある程度要約され、問答も包括的にまとめられて記載されているとみるべきではあるけれども、被告人が原第一審第一回公判おいて、同調書に記載されているような趣旨の供述をした事実は間違いないものと認められる。

すでに詳しく述べたように被告人の捜査段階における自白は疑問点が余りに多く到底真実を述べたとみることができないこと前述のとおりであるとしても、被告人が真実犯人でないのに右第一回公判期日において、なぜ前示のような罪状を認める供述をしたかは、その供述がそれなりに具体的なものを持っているが故に世人を納得せしめるだけの理由が示されねばならないといわれても致し方ない。

弁護人や肉親と面会して第一回公判に臨み、公開の法廷で黙秘権を告げられた後になおかつ自己の犯罪事実を認めたということは、特段の事情がない限り信用性を備えた自白というべきであろう。しかし当裁判所はすでにみたように証拠を検討した結果、被告人にはアリバイが成立することが明らかであるとの結論に達しその結論の正当性を十分論証したつもりであり、これを裏付けるかのように被告人の捜査段階での自白の信用性がないことについても述べた。それでなおかつ被告人が第一回公判で認めた事実について論及するのは、検察官が論告において特に取り上げ、自白が信用できる根拠として強調していることでもあるし、ここでもやはりアリバイが成立するとの当裁判所の結論が正当なることを確認する意味において、もし被告人が真実犯人でなければ、第一回公判において犯行を認めたことがどうしても納得しがたいことなのか、世人を納得させるような事情はないのか、それとも本件ではそれなりの特段の事情が存在するのかという観点から、敢えて検討してみることにする。

2 第一回公判で認め第三回公判で翻したことについての検討

(一) 捜査段階での自白と第一回公判での自白

被告人の第一回公判における各供述は、検察官がいうように「ただ単に公訴事実に関して間違いありません。と概括的に犯行を認めたというのではなく、犯行についての具体的な状況を織り込み、更に否認すべき点は否認し、自白すべき点は自白するという有利、不利のけじめをつけた供述を行い、かつ証拠物である鉈及び刺身包丁についても説明している。」と一応いわれるような内容であり、かつ第一回公判までに肉親や弁護人と接見して事件の打合わせをし、手続的にも任意性や信用性が十分保障されていると考えられる公判廷における供述であるから、真実被告人が犯人でなかったら、なぜそのような供述をし、その後なぜ犯行を否認するに至ったか、その理由が世人を納得せしめるほどの合理性があるかは十分検討されねばならないであろう。

しかし翻って、そもそも被告人の第一回公判における供述が、はたして検察官がいうように「犯行について具体的な状況を織り込み、更に否認すべき点は否認し、自白すべき点は自白するという有利、不利のけじめをつけた供述」であると決めつけることができるかは慎重なる検討を要するところであり、またなるほど証拠物についても一つ一つ具体的な供述をしているけれども、それがはからずも自白調書の信用性の個所で指摘したような重大な矛盾をそのまま引きついだ供述になっていることを見逃すわけにはいかない。

まず、検察官がいう有利、不利のけじめをつけた具体的供述という点であるが、右供述部分は要するに確定的殺意を否認しているにすぎず、この種事案において、ごく普通にみられる陳述にすぎないのではないか。そうして実は捜査段階においても被告人は確定殺意を一度も認めていないのである(もっとも勾留尋問では認めているようであるが)。24・1・19検面調書にかろうじていわゆる理詰めの未必の殺意を録取してはいるものの、問題の員面調書では「発作的に」とか「無我夢中になり」斬りつけたとなっており、右被告人が第一回公判で述べるところと実質的にたいして違いはない。検察官がいうように被告人が第一回公判において、何か特別な供述をしたように受取るのは行きすぎであるように思われる。

つぎに、証拠物について具体的に供述している点であるが、まず捜査段階では前示のように、鉈や刺身包丁を右手に持って殴ったり刺したりしたと供述しながら、右第一回公判では突然「左利きでありますので鉈を左手で握って刃を下向きにして白福角藏等に斬り付けました。」となっている。自分が捜査段階で述べたことをも記憶していない疑いがある。第一回公判当時の状況について被告人は前記のように「ぼうとしていた」「何が何だかよくわからないまま認めた」と説明するのであるが、そのような心理状況に符合する供述といえるのではなかろうか。

また、被告人は、本件犯行当時第一回公判において証拠物として示されたマフラーを首に巻いていたこと、同じくズボンも犯行当時着用していたものであること、同じく地下足袋を犯行当時履いたまま行ったこと、同じくはっぴは犯行当時着用していたものであることなど一つ一つ示されて具体的に供述しているところ、検察官はなぜか被告人の右第一回公判における供述としてマフラー、」ズボン、地下足袋、はっぴの証拠調べの部分をとりあげていないが、すでにみたようにこれらのものを本当に犯行当時着用していたとすれば当然血痕付着が認められるはずであるのに前記伊藤一夫作成の24・1・18鑑定結果書によれば、右の袢天(はっぴ)などにつき「血痕付着の証明を得ず」となっているのは、被告人の自白の信用性に重大な疑問を投げかけるものであることすでに自白調書の信用性の個所で詳しく述べた。そうしてそこで述べた疑問はすべてこの第一回公判での供述についてもあてはまるということになる。

検察官もこの疑問点(矛盾点)は認めざるをえなかったようで、「マフラーは首に巻いていなかった(ポケットにでも入れていた。)。地下足袋、ズボンは実家で履きかえたもので押収されたものは犯行当時着ていたものとは異る。袢天も犯行当時着ていたものとは異なる可能性が大」としていることもすでに触れた。そうすると、被告人はこれらについて第一回公判廷でも嘘をいっていることになる。公開の法廷で、弁護人もつき、手続的にも任意性、信用性が十分保障されているはずの第一回公判において、被告人が虚偽を述べたということは一体何を意味するのであろうか。捜査段階での自白の影響が約一か月後の公判においても切断されていなかったと見ざるをえず、後にみるように、やはり被告人が本件で逮捕勾留され、睡眠不足の状態における取調べがこたえていたのではないかという事実を推測させるのではなかろうか。

検察官は一方において、原第一審第一回公判における自供の具体性ことに有利、不利を認識して殺意のみ否認している供述部分などを指摘して被告人の自供は信用できるというが、しかし同様に具体的な供述である鉈以下の証拠物についての真実に反すると思わざるをえない前記供述を無視するのは片手落ちといわれても致し方ないのではないか。

このようにみてくると、被告人の原第一審第一回公判での供述は、検察官が主張するようには有利不利のけじめをつけた具体的な供述とまではいえず、捜査段階での自白の不合理と矛盾をそのまま引き継いだ、右手を左手と言いかえるなど若干不可解な供述はみられるものの、実質的には捜査段階における自白と同様の供述をしているにすぎないというべく、その信用性については、捜査官に対する自白調書について述べたのと同様の疑問があるというべく到底信用することができないことになる。

そうだとすれば、自白調書の任意性に関して述べたと同様の問題、すなわち警察段階での取調べの影響が第一回公判にも引き継がれたのではないかとの見方も理由なしとしない。しかし本件ではさらには被告人の弁解するところに立入って検討を加える。

(二) 第一回公判で認めたことについての被告人の弁解の内容

被告人は、二四年三月二四日の原第一審第二回公判(起訴は同年一月二八日、同第一回公判は同年二月一七日である。)の石村文子に対する証人尋問の最後に、裁判長から同証人の証言に対する意見を求められ、「自分が登楼したのは二九日の晩であったと思う。」と答えたのを皮切りに、同第三回公判(同年四月一四日)の被告人質問で犯行を明確に否認し、詳細にアリバイを主張したのであるが、原第一審第一回公判で認めたことについて、はっぴに関し「それは人吉警察でそう云ったからやむを得ずそういったのであります。」、また、本件につき「警察に引っ張られたのが初めてなので嘘を作ってそう言うてきました。」「人吉警察で三日三晩そんなことはないと言うたが、白状せんと腕立て伏せをせろとか板張りの上に座っておれとか言われるので、私は嘘を作って言うたのであります。」とそれぞれ答え、裁判長の「嘘にしては詳しいことは言われないと思われるがどうか。」との質問に対し、「最初から公判で調べて貰えば判ると思っていました。」と答えている。38・5・18四次本人調書では「八代に送られて来てからは暫くは落着いて物事を考えるゆとりがありませんでした。」となっており、45・2・19民事本人調書ですでに被告人に対し、尾崎弁護人からきびしい追及がなされている。すなわち

問「けれども裁判所では、あなたはべつに拷問も受けないわけだから、あなたの真実を述べたらよかったじゃないですか。」

答「そのときはですね、さきほども申しましたとおり、肉体的な疲れと、それから、私の子供が死んでおりまして、妻の離婚がちょうで合致しまして、ちょうど私精神的に混乱しておりまして。」

問「なぜ本田弁護人に訴えなかったのですか。」

答「そういうところまでの知識はありませんでした。」

問「裁判所でなぜ裁判官に詳しい説明をしなかったのですか」

答「確信を得るまで待つということと、その証拠を見るまで待つということと、裁判という知識をよく理解しておりませんでしたから。」

問「しかし、人を殺したか、殺さないかということは裁判の知識があるということとは関係なく。」

答「しかし私が警察のときから主張して来ましたけれども通らなかったから。」

問「だれも取り上げてくれなかった。」

答「取り上げてくれなかったのです。」

となっており、「第一回公判の時分は、警察での取調べのむごさとか恐ろしさというものをまだ忘れておりませんでした。」旨答えている。

また、45・2・18民事本人調書では「認めたというのは警察の調書を認めたのであって、そういう意味で認めたということを認めたわけです。」「公判前に二回くらい弁護人さんがお見えになりまして第一回公判前に聞いたことですが、私の子供が私の逮捕された明けの日に死んでまして警察で取調べ中にですね。それで私が人吉の警察から八代に送られて来て、その明けの日に父と私の結婚の仲立ちであります山並政吉との二人来てから、私がこうなって事件を犯してということになってから離縁状を取りに来てるわけです。妻の離縁状ね。そういうことから非常に私は混乱してしまって、そのときはものの判断といいますか、そういうことができないような状態といいますか、非常に苦しんでおりまして、で、一審の第一回裁判のときに、詳しく事情を言ったらよかったのじゃなかろうかと今そう考えております。」「八代の拘置支所に来て最初は独房に三か月くらいおりまして、そしてそれから収容者が多くなってから独居に三人、四人はいるようになって、いろいろ裁判というものを経験のある方から教えられたり、それと疲労しておった体力が自然と回復して私なりに物の判断というものがつくようになりましたから。」「最初本田弁護人と拘置支所で面会したとき、とにかく非常に疲れていて、警察で受けた調べの苦痛が出てきていた。」「今言ったら弁護士という人の立場をよく理解していなかったと思う。」「裁判所、警察、弁護士の区別もはっきりした知識がなかったように思う。」と答え、50・7・14六次本人調書では「その時は裁判というものをよう知りませんでしたから、弁護士さんとも会いましたけれども、弁護士さんもそういうことに対しては詳しく事情を話して聞かせられませんでしたからね、どうするもんかと思って、そういうことを……、前、私がちょうどそのころ猟銃を持っておりましたからね。で、この猟銃が警察官の取調べのときにこういうふうになる一つの原因にもなっているわけですね。で、それがまたこりゃ盛り上がってきはせんだろうかというおそれもありましたし、とにかく法律を知りませんでしたから……。」「(猟銃を所持していたことで)、進駐軍に渡す、といって再三おどかされましたからですね。やっぱりそのときはどうしてもそうありませんでしたから、それを真に信じてから警察の言ったとおり言ったわけですね。」と答え、裁判長の「裁判の時には真実を訴えようという気持はなかったんですか。」との問いに対し「そういうところまでの余裕はありませんでした。」と答え、続けて、「毎日が独房に入っていたから、なんていうか恐怖ていいますかね、落着いた生活できませんでしたから。」「その当時の心理はわかりません。」「警察で言ったとおりのことを言っとこうという気持になったのは、これを言えば執行猶予ということは結局調べた上で許されるということに……。」となっており、殺意を否認した心理については「私もそのところはどうもはっきりしませんですね。」「その当時のことはようわかりません。」と答えている。

さらに、五七年六月二五日当再審第一二回公判において「その時はあいまいでした。」「証拠があるとかそういうことで非常に警察で追及されましたから、体力的には病んでいましたから、それだけはっきり言える勇気がなかったわけです。」「体力も回復してきた。人から聞き、本も読み、これは自分がだまされていると思ったので第三回でやっていないと供述した。」「拘置所内で運動時間内に同じ留置されている人から雑談の中でお前は間違っている。アリバイがあったらアリバイをはっきりしなさいといわれた。」「何か北海道の方で殺人事件が無罪になった記事を回覧雑誌か何かで読んだ。」と答え、同年七月一六日同第一三回公判では、確信が得られなかったということについて「まあ、アリバイなんかもですね、すべての面において、こう私の主張が通らなかったからですね。」と述べ、警察、検察庁、弁護人、裁判所の区別について「普通でしたら分かってましたでしょうけれど、非常に疲れていましたからですね。その時は。……だれがだれやらよう記憶しておりませんです。」と述べている。

以上の被告人の陳弁を通覧し、検察官は、被告人は否認に転じたあと各裁判の段階で否認するに至った理由、心境を裁判官等に尋問されるや、その都度異る理由を述べ、弁解自体一貫性に欠けるばかりでなく、一見して不自然、不合理とみられるものが多いという。

なるほど、右大部にわたって引用したところをみると、そのいっているところ一貫しているといいがたい面があり、特に原第一審第三回公判では裁判長の質問に答えられずに沈黙した場面も見られ、捜査段階での自供調書につき裁判長から「しかし、うそにしては詳しいことはいわれないと思うがどうか。」と追及され、「最初から公判で調べてもらえばわかると思っていました。」と答える個所があり、もしそうだとしたら、公判の開廷を待ちかねて訴え出たであろうと思われるのに、同第一回公判において前記のような供述をするのは一体どういうことであろうかと疑問視されるところがあるなど、人を納得させるほどの理由は見出しがたいように思われるかも知れない。しかし、果たしてそうであろうか。

(三) (二)についての検討

ここで、原第一審第一回公判前に面会した前記弁護人の本田義男及び蓑毛巌の証言をみるに、45・11・4本田義男の民事証人調書によれば、「二月二日に初めて面会し、選任届を取る。父親としては大変君の身上を心配して弁護の依頼にみえたといったら、本人はそうですかといってうなづいて下を向いておっただけでもうあまりそれに深入りしてこんなことをしたのか、あんなことをしたのかということも聞かなかった。」「拘置所の金網越しに立ったので免田の顔を数分間ながめていた。私の気持はこの若さでもしあの犯罪をこの人がやったとすれば恐らく極刑をまぬがれないだろうと、かわいそうだという感じで、しばらく顔をながめていた。」「君は大変なことをしでかしたんだなといったら本人も申訳ありませんという答えをした。これはてっきり間違いないんだと私も思い第一回公判にのぞんだ。」「非常に遅鈍な男だなという感じをいだいた。」「第一回公判前に会ったかどうかはっきりした記憶ない。」「弁護人選任届をとった状態で第一回にのぞんだ。」「第三回公判で自供調書に書いてある行動とそこで供述する内容がまるで様相がかわってきたのでびっくりした。」「それではじめてアリバイの立証にとりくむ。」旨述べており、また、45・8・13蓑毛巌の民事証人調書によれば、榮策の実弟兼田龍治と二人で二四年一月一八日人吉署へ面会にいき、衣類とにぎりめしを差入れたのであるが、「連れて来られたら、こうして持ってきたからといって警察の人に頼んだ。連れてくると同時に、話すなといって、榮に言われた。それで何にも話す余裕はなかった。」「服装は兵隊服一枚着とったと思う。下はズボン下(ズボンのこと)一枚、シャツのようなものは着ていなかったと思う。」「寒そうにふるえていた。」「その場でにぎり飯をひもじかったような表情で食べていた。」「ほほのあたり両方がはれあがっているようだった。又はむくんだような格好だった。」「最初に目を合わせたときに涙ぼろっと流した。」旨述べている。

そうして、前示のようにすでに床に就いていたところを夜間突然警察官に踏み込まれ、深夜寒気の中を警察官五名の看視下に約二時間ほど山道を歩行させられた後、那良口から人吉まで自動車に乗り同月一四日午前二時三〇分ころ人吉署まで違法に連行され、それまで、被疑者として警察で取調べを受けたことがなかった田舎育ちの教育及び知識水準の低い青年が、一月一四、一五、一六日と連続して取調べられ、一六日の午後一一時ころ自白したというのであるから三日三晩舎房で休まされることなく取調べを受けたことになり、その間自己の言い分は全く認められなかったことが窺われる。そうだとすれば、被告人が主張するように疲労困ぱいして、ついに前記のような自白調書が出来上り、起訴され続いて裁判を受ける身になってしまったことになり、そのような立場に立たされた人間の心境はやはり通常の者には考えられないものがあったのではなかろうか。この点につき被告人は前記のように45・2・19民事本人調書において「私が警察のときから主張してきたけれど通らなかった。」「だれも取り上げてくれなかったのです。」と述べている。つまり、いくら自分がやっていないと無実を主張しても全く取り上げてもらえず追及にへとへとになった当時の被告人の絶望的心情が吐露されているといえよう。

当時の被告人の知識からすれば、警察や検察庁、裁判所、弁護人の役割の違いについても、ほとんど知らなかったのではないかという疑問も存する。警察と検察庁については現在でもその違いを知らない人が多い。そうして、被告人は検察庁での取調べを受け引き続き裁判所で勾留尋問を受け、前記のように弁護人さえも被告人がやったものと思い込み、第一回目の面接に際しては被告人が犯人に間違いないとの先入観と態度をもって面接していることが窺われ、面接も二回きり、しかもほとんど打合せらしい打合せもしていないことが認められる。検察官は十分な協議をしたのち公判に臨んでいるというが、到底そのようにいうことはできない。逮捕勾留され、独房の中で無知な被告人は体力気力を喪失し、本当になす術を知らないまま第一回公判をむかえてしまったのではないか。

昭和二三、四年当時の世相はまさに戦後の混乱期であり、テレビがなかったのはもちろんラジオの普及もそれほどでなく各種マスコミによる報道も現在とは格段の違いがあったことは当然であり、ことに裁判の記事が報道されるということは現在と比較し、比べものにならないほど少なかったであろうことは推測にかたくない。したがって田舎で育った知識の少ない被告人にとって、前記のような状況下にあって裁判において冤罪を強く主張して争うということは、それほど容易なことではなかったのではなかろうかと疑われるところである。本当にやっていないのであれば、少なくとも裁判の段階では無罪を主張するのが当然であろうという見方は、現在では一応言いうることであろうが、現在の平均的一般市民が裁判というものに対して抱いている観念とははなはだ異ったものがあったように推測されるのである。なお現在でも一般の人は警察がどのような仕事をするところであるかということについては、比較的はっきりした知識を有しているといえるが、いわばその上の段階である検察庁や裁判所の仕事の内容や違い、判検事の違いなどに関し十分に認識していないことが多いし、二三、四年当時は裁判所と検察庁が同一の建物で仕事をしていたことも公知の事実である。

前記のところによれば、被告人は警察での取調べの厳しさを強調し、否認すればまた警察での厳しい取調べがあると思ったという(この点は検事調べのとき「また地獄へ行くぞ」といわれた旨被告人は38・5・20四次本人調書で供述している)。いかに厳しい取調べがあろうと本当にやっていないのであれば、自分はやっていないと訴えるはずであり、その間肉親とも面会しているし、弁護人とも面会しているのであるから、その機会はいくらでもあったはずであるというのが検察官の主張である。しかし、ここで弁護人という者に対する当時の被告人の認識を考慮しなければなるまい。弁護人が裁判で冤罪であることを立証すべく活動してくれる者であるとの認識を持たないまま、あるいは持ちえないまま公判に臨んだのではないかと思われることが、前記弁護人との面会の状況から窺われることなどについては先に触れた。そうして、親族である蓑毛巌との面会ではお互い一言も口を聞くことができないような状況であったことも前示蓑毛証人調書によって認められる。さらに免田榮策、山並政吉との面会の状況は、被告人の供述によれば、離婚届の話と子供の死の話があって大変ショックを受け、心理的に動揺していたという(45・2・18民事本人調書)。

第一回公判前における被告人の心理状態や当時の知識能力、気力及び体力といったものが、もし被告人が主張するような状況であったとすれば、たとえ肉親が面会に来たとしても、拘置所の面会室において看守立会いの下で金網越しにはたしてどこまで話ができたか疑問なしとしない(30・4・7被告人上申書九項など)。

つぎに、捜査段階の取調べの影響が、公判まで承継されるといえるかを検討する。ある日突然、犯罪の嫌疑を受け、身のあかしを立てうといわれたとき、約半月前の自己の行動を明確かつ整然と述べ、自己が潔白であることを明らかならしめることは、日記とか正確なメモなどを欠かさずつけたりとったりしている場合はともかく、そうでなければそれほど容易なことではない。被告人は前記のように伊藤イチ方にいたとき、いきなり警察官から訊問を受け、驚き、あわてたことも加ってうろたえ、しどろもどろの答をしたようである。そうして後述するように被告人には丸駒泊の事実を人に知られたくない弱みもあった。午前二時三〇分人吉署に着き、直ちに二三年一二月二九日前後の行動について追及を受けている。なぜ伊藤イチ方で丸駒泊をいわなかったか、強い疑いを持たれ、厳しい追及がなされたであろうことは容易に推認しうる。そうして被告人の前記供述するところによると、二二、三年ころ頭を怪我して、それ以来冬などボーツとして記憶が低下する状態にあったといい、そうだとすれば、よけい警察官の追及に曖昧な答しかできなかったことも考えられ、警察官に「我々の経験からすれば、君は自分のしたことを忘れる病気にかかっている。」などといわれ、確信を持てない曖昧な気持になったというのも、あながち創作した供述とも思われない。それに前記睡眠不足と寒さが加わり、警察官の追及に反論する気力と体力を喪失してしまったのではないか(それと猟銃の件や無知に乗じた執行猶予の件などその真偽及び自白についての影響などにわかに断定できないところがあるとしても)。一度警察の取調べで自白した場合、特段の事情がない限り、それに引き続いて行われる検察庁での取調べや裁判所での勾留尋問の際、これを翻すことはないというのが実務の教えるところであり、警察における取調べの影響の承継といわれるものである。

原第一審第一回公判は、二四年二月一七日であり、捜査官の取調べが終ってから約一か月後ということになり(起訴は同年一月二八日)、その間肉親にも弁護人にも面会しているが面会の状況は前記のようなものであった。独房で何が何やらわからないうちに、原第一審第一回公判をむかえてしまったが、そのうち徐々に体力と気力が回復し、同じ留置人からいわれたり、雑誌の記事を読んだりして、自分は警察に騙されているということに気付いたというのが被告人の言い分である。

一般人、ことに現在情報化されたスピード社会に生きる者の目から見た場合、考えられないような遅鈍な対応ぶりと評されよう。しかし、被告人の知識水準に関してはすでに若干触れたが、被告人の第一回目の24・1・16員面調書添付図面に記載されている片仮名による被告人の説明書と署名部分(漢字で署名できたと被告人自身当公判廷で供述しているが、右添付図面には片仮名で署名されている事実から考えて、漢字による署名はできることはできたとしても榮の字が誤字であることも含めると被告人にとってそれほど容易なことではなかったことが窺われよう)をみれば、いかに当時の被告人の知識水準が低いものであったかがわかるし、当時の被告人の応待ぶりは弁護人をして精神鑑定を申請せしめるほどのものがあったようである。三三年間再審を請求し続けてきた現在の被告人からは想像もできないような状態だったのではなかろうか。六次本人調書によれば、「余裕がなかった。」「落ち着いた生活ができなかった。」「その当時の心理はわかりません。」「どうもはっきりしません。」と述べており、また、当再審公判における被告人の「体力的に病んでいたからはっきり言える勇気がなかった。」「非常に疲れていた。」などの供述にあらわれているものは、何かはっきりしないままに公判が始まり、よくわからないまま供述したというつかみどころのないものである。一体自分が強盗殺人などという重罪で裁判を受けているというのにしては誠に頼りない心理状態だったということになるが、やはり、いきなり逮捕され、睡眠時間を制限されて厳しい追及を受け自白せざるをえないようになったことによる衝撃から、病身で遅鈍なる当時の被告人は脱却していなかったのではないかとの疑いを抱かしめるものがあるといえよう。検察官は被告人が公判廷で否認したのは、重刑だけは免れたい気持からであるとし、また、被告人が検事調べの際一度否認したことについて「何とかして重い罪から免れたいという気持で否認」したと述べている点を指摘しかつ引用する。しかし、すでに検事調べの段階に至った際にも、黙秘権を告げられて「身に憶えのないことです。」と一度否認していることは、時間的には逮捕後比較的早期に自白したといいうる本件ではあるが、原第一審で多良木、馬場、福崎等の警察官が証言するようにはすんなり自供に至っていないことを物語っているという見方も可能であること、また原第一審第三回公判(二四年四月一四日)に至って初めて否認したわけではなく、同年三月二四日の同第二回公判で文子の証人尋問の最後に「自分が登楼したのは一二月二九日である。」と意見を述べている点も捜査段階での被告人の態度を窺わせるものとして無視できないことである。すなわち、弁護人本田義男は同第三回公判で初めて被告人の供述が思いがけなくアリバイを主張する方向へいくので驚いたと述べているとおり、右第二回公判の文子証言の段階では弁護人さえも被告人にアリバイがあるなどとは考えていなかったと思われるところ、被告人は文子の証言を聞き、自分自身でどうしても納得できずに前記の意見を述べたとみることができ、右検事の前で一度否認したことや、第二回公判で二九日登楼を述べたことは一面二九日丸駒泊の事実が捜査段階から問題になっていたことを窺わせるものがあるということができるのではなかろうか。

(四) 結論

当裁判所は(一)において被告人の第一回公判における自白は、その内容からみて基本的に捜査段階での自白をくり返したにすぎないものであること、したがって、捜査官に対する自供調書についての問題点は、すべて第一回公判についての自白にも存在することを指摘した。それにも拘らず敢えて第一回公判で自白し、第三回公判でこれを翻したことの合理性を被告人の弁解にそって詳しく検討したのは、前記のとおり被告人の弁解にそれなりの納得的なものがあるのか、それとも検察官が主張するように到底世人を納得させるものがあるといえないのかを明らかにせんがためである。

その結果、なるほど自己が真実犯罪を行っていないのに公開の法廷で犯罪事実を認めるというようなことは、このような重大犯罪では誠に考えにくいことであり、第一回公判で認め、第三回公判でこれを翻したことについての被告人の弁解には、検察官がいうように必ずしも一貫しているとはいいがたく明確でない面があることは否定できないが、警察での取調べ状況及びそこでの自白の影響が強かったことが窺われ、当時の被告人の知識、能力及び健康状態、原第一審段階における弁護人の活動を考えると、被告人の弁解はたどたどしく、一見不合理と見られ勝ちのところがあるとはいえ、それなりの迫真性を備えたものを評することができると解する。本件では、結局捜査段階での取調べの影響を第一回公判まで承継したと考えられるのであるが、逆にいえば取調べの影響をしゃ断しないような特別な事情が余りにも重なっていたとみることもできよう。

3 その他

被告人の言動中、従来特に不利に評価され勝ちだった事実について便宜ここでまとめて論及する。

まず(1)被告人の原第一審第三回公判での否認自体すでに破綻があるとされる点についてであるが、被告人は原第一審第三回公判において「白福角藏は知らない。きとう師をしていることも知らない。同人方に行ったことはない。」旨供述しているけれども、24・1・17員面調書、同19検面調書で角藏を知っていることについて詳しく供述しているうえ、原第一審第一一回最終公判(二五年五月一六日)において、弁護人の「被告人は弁護人と初めて八代拘置支所で面会したとき、被告人は以前白福方の前を通りがかって、きとう師があると知っていたと述べたことは記憶ないか。」との問いに対し、「さようなことを言った気がします。」と答えている点をとらえ、従来被告人の原第一審での供述自体すでに破綻があると指摘されているのであるが、弁護人が続いて「なおその際白福方の庭先に小さな御宮があったともいったがそれはどうか。」と問うたのに対し、「左様にいいました。それは人吉警察で左様にいいましたのでいったのであります。」と供述している。被告人の右第一一回公判における供述は、その内容から明らかなように被告人が角藏方を真実知っていて、これを目ざして行ったという事実を認めているわけではなく、弁護人と面会した際、弁護人から聞かれたので警察で述べたとおりを答えたという趣旨である。もっともなぜ警察でいったとおりのことを弁護人に対してもいわなければならないのかは確かに一つの問題ではあろうが、当時の被告人の前記のような精神的、身体的状況からすれば、あながち理解できないことではないし、その問いの後に続く「お宮があった」というくだりは、証拠上角藏方の庭先にお宮があると認定できないのであるから、警察では口から出まかせに嘘を供述したのではないかという疑いをもたせる事実にこそなれ、被告人が弁護人に面会の際真実を吐露したことの根拠にはなしえないことである。いずれにしても原第一審第三回公判での否認が第一一回公判での供述で破綻しているとみるのは相当でない。

つぎに(2)一勝地村の伊藤イチ方において、二三年一二月末ころ人吉を訪れたことはないかとの警察官の問いに対し、被告人は曖昧な返答をなしたこと、(3)被告人は丸駒に泊った際、文子に対し「熊本から出張して来た警察の刑事だ。事件を調べに来た。」などと云ったこと(文子の24・3・24原第一審二回証人調書、同人の24・1・24検面調書)、(4)本件発生の数日後、宮地村において、被告人は人吉署の刑事であると名乗り、人吉の殺人事件で捜査に来たと村上キクヱに申し向けたこと(村上キクヱの24・1・18((五枚綴りのもの))巡面調書、前記文子の証人調書、被告人の30・3・16上申書)などが問題になろう。

まず(2)の点に関し検察官は多良木利次原第一審第八回証人調書に基づき、被告人が「二六日頃山に登って以来一度も人吉方面に下りたことはない」旨いったと認定しているようであるが、これは同じく益田美英の同八回証人調書、木村善次の三次証人調書及び被告人の各供述に照らし疑問なしとしない。すなわち右益田の証言によれば「被告人は事件当時吉井とか西村にいたので全然人吉に行っていない」旨述べたとなっており、また右木村は「私と田山部長だけが部屋に入った。」と証言しながら人吉に行っていない云々については何も触れていない。そうだとすれば、被告人は、夜突然踏み込んで来た警察官にいきなり事件当時の行動を聞かれ、しどろもどろになり、曖昧な返事しかできなかった、にすぎないのではないかと認定する余地があり、そのように解すれば無理もないことであって、敢えて被告人に不利益な言動とまで考える必要がないことになる。

右のように警察官に突然踏み込まれ驚きと狼狽のあまり、約半月前のことでもあり、曖昧な返事しかできなかったためにますます怪しまれ、被告人の方としては動揺をきたしたとみることができるのみならず、さらに考察してみると、二三年の一二月末ころの自己の行動につき正確に何日に何をしたという釈明をすることができなかったであろうことは容易に推認しうるところであるが、年末に丸駒に登楼し文子と一夜を共にした事実を忘れたとは考えにくい。文子には三一日にも会い、一月一日にはわざわざ文子の実母村上キクヱ方を訪ねているのである。したがって被告人は一月一三日夜警察官に踏み込まれ聞かれたとき年末ころ丸駒に宿泊した事実を敢えていわなかったと認定されてもやむをえないであろう。それではなぜ丸駒泊をいわなかったのであろうか。正確な日日がわからなかったというのも一つの理由にはなろうが、それよりも前記のように被告人は一二月二八日ころ、父榮策が井上倉藏に売却した馬の残代金四、〇〇〇円を父に無断で右井上から取り立てて現金を入手し、当時の金として大金ともいえる右四、〇〇〇円を孔雀荘の支払及び丸駒での遊興にほとんど使いはたしており、その当時家業の農業に余り精を出さず、折角もらった嫁アキエとの離婚話が出るなど父榮策に顔向けができなかった被告人としては、丸駒での右遊興の事実を父親や親族などに知られたくなかったであろうと推測される事情があることを考慮する必要があろう。被告人は24・1・17巡面調書においてさえも人吉に来たとき持っていた現金は親父から貰った金である旨述べ、勝手に取り立てた金であることを隠しているふしが窺われること、そのような金を遊郭で使いはたしたということが知られるようなことになれば、被告人がおそれている父榮策の怒りを買うことは必至であり、またもう一度戻ってもらいたいとの未練を持っていたアキエが被告人のもとから完全に去っていくことを覚悟しなければならなかったと考えられるからである。

被告人が父親をおそれていたことは、被告人が原第一審第三回公判において一月九日自分の家に布団を取りに来ても泊らなかった理由を聞かれ「父に黙って家を出ているので、父に顔を合わせたくなかったからです。」と述べていること、その他年末から正月にかけて家に寄りつかず知人の家を転々し、父親を避けていることが窺われることからいえるし、被告人がアキエに未練を持っていたことは被告人自ら述べていることであり、また山並方をしばしば訪れていることからもいえる。

そうして、一月一三日の夜警察官に踏み込まれたのであるが、その時いかなる嫌疑をかけられているのか知りうべくもない被告人としては、身の明かしを立てることの重要さに思い至らず、右のような事情からつい丸駒登楼という遊興の事実を隠す方に意識が働いてしまったのではなかろうかと考えられ、このことが警察官に深い疑惑の念を与えることになり、その後人吉署において厳しい追及を受ける要因になったといえる。

さらに検察官は、(3)(4)の言動につき、被告人が本件のような凶悪重大な事件を犯したあと、内心の動揺と捜査追及に対する恐れから、むしろ犯人としての立場を模糊するためにとった言動であるとみざるをえない。また被告人としては自己がその犯人であることを文子に察知されまいとして、逆に犯人を検挙する側の刑事であると称したものと理解されるとする(論告三一五、三一六頁)。

そうしてなるほど、(3)はともかく(4)はもし事実とすれば不審な言動といわれても致し方ない。しかし、逆に一体自己が真実犯人であるとすれば、わざわざ人に疑われるようなそのようなことをいうであろうか。検察官はこの種事犯の犯人において、しばしば自らを刑事と称し、その捜査に従事している者のように装う例があるように、被告人も本件犯行を敢行したことが脳裏を離れず、前記のような不審な言動に及んだものと推認するけれども、検察官がいうようにあるいはそのような事例があるかも知れないが、常識的に考えてしばしばあるものと想定しがたく、むしろ極めてまれなことではなかろうか。また別の見方をすれば、被告人がわざわざ村上キクヱ方を訪れたということは、文子に並々ならぬ関心があったことを物語っているということであろうが、そうだとすれば田舎育ちの被告人が初対面の文子の母親の気を引くため後記のように自己があこがれていた刑事を軽率にも名乗ったとみれないだろうか。なお被告人は、白福事件を一二月三〇日朝丸駒を出て孔雀荘で朝食をとったとき溝辺ウキヱから聞いて知ったという(被告人の30・3・16上申書)点は一つの問題であろう。検察官はこの事実は、三次再審に至って初めて述べられたことであって信用できないというが、平川飲食店に荷物を取りに現われるまでに、どこかで朝食を取っているのは当然であろうと推測されるところ丸駒で食事していない(文子らの証言に全く出ていない)以上、他のところで食事しているはずである。孔雀荘で朝食をとったということは特に不自然なことではなく、むしろ朝食をとっていないと考える方が不自然であろう。さらにいえば、狭い人吉地方で本件のような大事件が発生すれば大騒ぎになり当然どこからか情報が入るものと思われる。被告人が一月一日村上キクヱ方に行ったとき白福事件を知っていたとしても何らおかしいことではない。

そうして、文子に対する(3)の言動は不審とまでいえるか疑問である。被告人自身は当再審第一三回公判において、文子に対してそのようなことをいったとする点を否認しているが、被告人がよく刑事に間違えられたり、刑事にあこがれていたことがあるというのである(溝辺ウキヱの24・1・16巡面調書第一一項)。また、検察官は「文子に察知されまいとして」とった言動というが、一体そこまでの必要性があったであろうか。もしそれほどまでに疑われることが心配ならば、当夜わざわざ人目につく丸駒に登楼したり、人吉市内をぶらぶらすることがそもそもおかしいことになってしまうのではなかろうか。

いずれにしても、右(3)及び(4)の言動は、被告人が文子や村上キクヱの気を引くためにとった言動にすぎないと解する余地のある事柄であろう。

このようにみてくると、従来ややもすれば被告人に不利な言動と評され勝ちであった前記各事実は、いずれも不審な言動でかつ被告人に不利な事項であると断定するのには相当でないものがあるように思われる。

第六血痕鑑定

一  はじめに

本件鉈と本件犯行との結びつきに多くの疑問点があり、むしろ結びつきは証拠上切断されているとみるべきことすでに述べた。すなわち、途中いくらでも放棄したり隠したりする場所があるにもかかわらず鉈を高原の山中まで持って行って埋めたということ、犯行に使用した凶器をせっかく埋めて隠したのにわざわざ掘り出すということ、暗闇で荒漠たる荒地に埋めた鉈を後日掘り出しうるかということ、これを持って昼間逃走経路と同様の道を歩き六江川まで来て、しかも血痕が付着していた柄は洗わず刃の部分のみを洗ったということ、柄の部分に一見して血とわかるような大きさのものが固まったようについていたとすれば、鉈の血を洗い落とそうとした犯人が気付かないはずがないのではないかということ、実家に入るとき付近の山中に隠さねばならないほどの鉈を井川方で荷造りし、俣口に持参し、人目につくところで使用し放置しておくということ、そうして、被告人が原第一審第三回公判でいうように一月九日の日に家から持ち出したとする事実に副うトメノの巡面調書、溝辺ウキヱ、平川ハマエの供述等が存在することなどである。

しかし、被告人の自白に基づいて押収された本件鉈の柄部に、O型の血痕が付着している旨の伊藤一夫の鑑定結果報告書がある。右伊藤鑑定の存在が本件において被告人の自白と相俟って有罪認定の重要な根拠とされたであろうことは多言を要しない。

右伊藤鑑定の信用性を判断するために、当再審公判では船尾鑑定(同鑑定人及び同鑑定人共同作成にかかる血痕の型判定に関する鑑定書、同意見書、同鑑定人の鑑定証言を総合して便宜船尾鑑定という)及び原鑑定(同鑑定人作成の各鑑定書及び同鑑定人の鑑定証言を総合して便宜原鑑定という)を取調べたのであるが、その結果、本件血痕鑑定の信用性を判断するうえで最も重要なことは、米粒大といわれる本件血痕が、固まったように盛り上がりのある態様でついていたのか、それとも、しみのように盛り上がりがないものであったのかという点であることが明らかになったことであるといえる。もし前者であればともかく、後者であれば型判定までは不可能であろうとすることで両鑑定は一致しているといってよいからである。

そこで、本項ではまず、血痕の付着態様を検討し、しかるのちに必要な限度で問題点を指摘することにする。

二  血痕の付着

1 態様

本件鉈に血痕が付着していたか。付着していたとしてどのような態様のものであったか。

まず、はじめに各証拠をみてみる。

(ア)田山二夫巡査部長の24・3・4原第一審証人調書には「鉈の柄に血痕のようなものが着いていたので鑑定を頼んだ。」とあり、(イ)馬場止巡査の六次証人調書では「鉈の柄をすげてあるところの下っかわですね、下っかわの曲ってて、この鉈がささってその下っかわに血痕の固まっとっとの着いとったのははっきり覚えています。」(赤マジックペンで図に血痕付着部位記入)、「相当肉眼で見えるように固まったごとして着いとったですけん、そぎゃんこもう(細かく)はなかったですよ。」「米粒大と言いますか、それぐらい以上に着いとりましたですね。」「血痕にその時非常に注目しましたですね。(伊藤イチ方の)前庭に出てから、ああ、血痕のここに着いとるたいということで多良木と二人でそこを見たつですたいね。これはやっぱり唯一の血液型の証拠として重要なもんだというようなことをその時、多良木君と話したですからね。」と証言している。

そうして、被告人の24・1・19検面調書ではその末尾に「只今お示しの鉈は、私が白福方に持参し、家人に切りつけた鉈に相違ありません。一月一〇日頃血痕が着いて居たので洗いおとしましたが柄の内側の新しい削り傷は私が付けたのではありません。」との供述があり、また、45・2・18、同19各民事本人調書では、「警察の調べの時、多良木刑事から、ここに血がついておったと言って鉈の柄の削ったところを見せられた。それは米粒大二点ぐらいで削った分だけ木の本質が出ていた。」と供述し、さらに当再審公判では「柄入れから五、六寸ぐらいのところに米粒大に削り口が二つあった。」と述べている。

右各供述によれば、鉈の柄に米粒大の削り傷が二個あったことが窺われ、これは伊藤鑑定人が血痕検査のため血痕及び対照資料を削り取った跡のように推認される(当再審における原三郎及び船尾忠孝の各証人調書参照)。

以上の各証拠ことに六次馬場証言をもとに検察官は、本件鉈にはその押収時において少なくとも米粒大の盛り上がりのある血痕が付着していたと結論づけるのであるが、はたして妥当であろうか。

本件血痕の形態や量に関しては、右馬場巡査のほかにも、多良木利次巡査、福崎良夫巡査部長、上田勝治巡査ら本件捜査に当たった各警察官もそれぞれ証言している。すなわち、(ア)多良木巡査は六次証人調書において「血痕と思われるものが柄の付け根付近にこびりついているのが肉眼でわかりました。」「どんな具合てちょっと記憶にございませんけれども、米粒の半分ぐらい、粟粒ぐらいじゃなかったかと思います。」「色はやはり血の固まって少し黒みがかったような色じゃなかったかと思いますが。」と述べ(49・10・28六次証人調書)、(イ)福崎巡査部長は、六次証人調書において、「まあ、血痕といえば血痕のような、本当の、もう鉛筆の芯にちょっとそのくらいの芯のつはあったような感じがしました。これは血痕といえば血痕、単なる汗のなんであれば汗の何かの脂肪の固まりか、血痕と断定するような血痕の付着状況じゃございませんでした。」「まあしみがついていたという程度でした。」「場所は柄の上のほうに近いほうじゃなかったかと思うがはっきりした記憶はない。」「まあ血というのかはっきりそれが血として、まあ、うす黒い血のようだったというふうな感じでした。」旨証言している(49・12・21六次証人調書)。また、(ウ)上田勝治は、民事控訴審において、控訴代理人の「鉈のルミノール反応検査の結果、血痕が付着していたか。」との質問に対し「血痕らしいというのは……、どうも血がついているのかどうかはっきりしていません。」と証言し(48・5・17民事証人調書)、さらに、当再審証人尋問においても

問「今ルミノール反応の話が出た……、その際に鉈についてのルミノール反応はどうでした。」

答「鉈を意識して見たのはそのときが初めてで、柄のところに茶かっ色になったところのしみがありまして、そこが血痕じゃないかということ……、鉈の金属と柄の接合部分に血液が流れているとすれば、こういうところにたまっていることがあるからということでピンセットで何かの液にしたしてそこをふいて検査をされた覚えがあります。」(二三八項)

問「それから柄の付近に赤いしみのようなものとおっしゃいましたか。」

答「赤いというか茶かっ色というかですね。」(二六四項)

問「どこでご覧になったんですか。」

答「本部の鑑定室の中で初めて気が付きました。」(二六六項)

問「どれくらいの大きさですか。」

答「親指でついたような感じだったような気がしますけれども……。」(三八四項)

問「母印ですか。」

答「長いほうで一センチ、左右で六~七ミリのだ円形というかそういう感じだったように思います。数字的なことは一切当てになりませんけれども今言った何センチとか。」(三八五項)

問「何個ですか。」

答「一個だけです。」(三八六項)

問「どの辺りですか。」

答「右か左かということも分かりませんが、大ざっぱに言うと刃のほう、なたの継ぎ目に近いほうだったと思います。」(三八七項)

問「それからさっきしみとおっしゃったですが、これは柄の地膚に色変りの部分があったというような意味ですか、それともその他のしみということになりますか。」

答「色変わりの部分があったという感じの方が強いです。」(三九四項)

問「そうしますとさっきのしみというのは一見して血とは分かるんですか。」

答「一見して血とは分かりませんけれども、血液が付いていたらこれじゃないかという程度のもので、それが血だと分かるものではありません。」(三九八項)

と証言している(56・9・28((実施))当再審証人調書)。

しかし、検察官はこれら証言はいずれも正確な認識と記憶に基づくものではなく、馬場巡査の前記証言と対比すると不正確であり、それらの証言によって血痕量を認定することは相当でないという。

以上の各供述を分類すれば、前記田山、馬場(三次)の証言は「血痕のようなものがついていた」あるいは「血痕らしいものがついていた」というものであり、上田勝治の48・5・17民事証人調書では、「どうも血がついているのかどうかはっきりしません。」となっている。しかるに馬場、多良木の各六次証人調書は「米粒大固まったようについていた」あるいは「米粒の半分ないし粟つぶ大、こびりついていた」というものであり、福崎の六次証人調書は「しみのようなもの、血痕かどうか不明」ということで上田の当再審における証人調書も、この点に関しては右福崎の証言と同様のものである。

そうして、はじめに述べたように船尾及び原両鑑定の結果明らかになったことであるが、本件血痕鑑定の信用性をめぐって最も重要なことは、血痕の大きさよりもその付着の仕方が「固まったように」ついていたのか(馬場六次証言)あるいは「こびりついていた」(多良木六次証言)のか、または血痕かどうかわからないが(茶かっ色の)しみのようなものであったのか(福崎六次証言、上田民事証人調書及び当再審証人調書)という点である。そこで右各供述の信用性を以下に検討する。

ところで、馬場巡査は、原第一審第八回公判及び三次再審請求段階においても証人となり、右原第一審公判では、伊藤イチ方で鉈を押収したことを証言したが、鉈の柄に血痕が付着していたことを述べておらず(右原第一審24・11・26証人調書)、三次再審請求段階においても「柄と金部の際の附近に血痕らしいものが少し見えましたので、血液型の鑑定のため県本部に送ったと思いますが、その結果は記憶していません。」と述べている(30・2・14三次証人調書)が、血痕の色調や形態、量については具体的に述べていない。検察官は、右の証言の時点において、血痕の付着やその量などについて証言している部分がないのは、そもそも本件鉈の血痕量が裁判上の問題として取り上げられてきたのが、六次再審請求段階以後のことであり、かつ、原第一審や三次再審請求段階においては、馬場巡査に対し、その点に焦点をあてた尋問そのものがなされていなかったことによるものであるから、これらの証言内容をもって、六次再審請求段階の馬場証言を弾劾することはできないとする。

原第一審段階においての証言に関してはなるほど検察官がいうことが当てはまらないこともないが、三次再審請求段階の証言は、それが血痕について全く触れていないならともかく「柄と金部の際の附近に血痕らしいものが少し見えました。」と証言しているのである。すなわちすでに六次証言の時点より一九年余り前に血痕について「血痕らしいものが少し見えました。」という内容の証言をしていることは軽々に無視できず、これはむしろ検察官のいうところとは逆に、血痕量が裁判上問題として取り上げられていない段階での他ならぬ鉈を押収した警察官の証言であるからこそさりげない供述として信用性が高いということもいえるのではなかろうか。そこには「米粒大以上固まったごとついていた」という趣旨の表現は全くないのである。そうしてまた、鉈の血痕に関する証言中最も古い前記田山証言は「血痕のようなもの」が着いていたとの証言内容であるところ、これはむしろ馬場三次証言と類似した内容といえる。

検察官は、前記多良木証言のうち「血痕と思われるものが……こびりついていた」との証言部分は信用できるが、血痕量に関する証言は「ちょっと記憶にございませんけれども」というのであって正確な記憶がないまま米粒大の半分位ないし粟粒位と証言したのだという。しかし、「大きさはちょっと記憶にございませんけれども」との言葉をとらえて、馬場証言は信用できるが多良木証言は信用できないとするのはやや短絡的との批難を免れず、前記馬場六次証言がいうように「唯一の血液型の証拠として重要なもんだということを、その時多良木君と話した。」というのであれば、少くとも多良木証言の信用性は馬場証言と同等と見ざるをえないのではなかろうか。けだし、血痕の付着状態とその付着量とはいわば一体不可分のものとして印象に残るべきはずのものだからである。

そうして、検察官は、前記福崎六次証言について、同人は血痕か否か、その色調、付着個所などについて、ほとんど記憶していないことが証言自体から明らかであるとする。馬場巡査は鉈の押収に直接タッチし、当初から被告人の取調べに当たった警察官であるから鉈の血痕については特に関心が深かったであろうと一応いうことができよう。しかし、その点は多良木巡査もほぼ同様である。そうして、福崎巡査部長は本件被告人の警察段階での自白調書を作成した中心的捜査官であったし、「鉈は山から持ってきたときに見たような記憶がする」(前記六次証言)といい、自ら一月一六日に鉈は伊藤方にある旨の調書を取り翌一七日に押収してきた鉈を見ているのであるから、馬場や多良木に劣らぬほど鉈や鉈の血痕に関心を示してみたであろうと考えるのが相当である。

鉈に米粒大の血痕が固まったようについていたとすれば、どうして鉈を見た福崎がこれを見落したか、しかも「しみのようなものだった」と証言するかという疑問がある。全く記憶がないというのであれば別として、正確な記憶でないとしても鉈を見ている以上(見ていないとは考えられない)、いわば捜査主任的立場にあった福崎が米粒大の血痕の固まりを血か何かわからないしみのようなものと間違えて記憶したとは考えにくいことである。さらに馬場六次証言ひいてはこびりついていたという多良木六次証言の不審点は原詳細に引用した前記上田証言によって一段と浮き彫りにされてくることがわかる。

検察官は、上田民事証人調書について、本件発生後約二四年を経て初めて証言したのであるから、血痕量に関する記憶が薄れていたと認められるという。この点をいうのであれば、馬場三次証言は六年後の証言であるが、馬場六次、多良木六次証言はいずれも二五年以上経過した後の証言であるから片手落ちの批難というべきであろう。

検察官はさらに馬場六次証言は、人吉市からはるばる約十数キロメートル離れた山奥の俣口まで赴いて目的の鉈を押収し、血痕の付着状態についても極めて具体的に述べているから十分信用に価する旨主張する。しかし、他方、前述のように福崎も本件のいわば主任捜査官であるし、上田勝治も当時人吉市署の鑑識係をしていた警察官であったことを忘れてはならない。血痕付着についてはそれぞれの立場で職業意識をもって十分観察なり見分をしているであろうと思われるからである。上田勝治は本件鉈等証拠物件を持って国警熊本県本部へ赴き、ルミノール反応検査などに立ち会い、説明を受けたりしていること、「ルミノール反応検査は衣類、鉈の順にしてもらった。鉈は柄の差込み部分(金の輪がはめてあるところ)について、これが凶器とすればそういう個所に血が流れているはずだと唾液検査のように脱脂綿でぬぐって試験液を入れて検査するのを見た。」(民事証人調書。当再審でもほぼ同旨の証言をしている)と供述しているように鑑識係員として相当関心をもって細かく観察していることが窺われる証言である。

検察官は、右上田証言を前記のように事件発生後二四年を経た後の証言であること(この点は馬場証言も同じであること前述)の他、上田巡査が人吉市署鑑識係として多くの証拠品を扱っていたので、他の証拠品の血痕とを取り違えて供述した疑いもあり、また、本件鉈を国警熊本県本部へ持参するまでは「どうせ鑑定すれば分かると思い、鉈の柄などを詳細に見ておらず、国警熊本県本部の鑑定室ではじめて見た。」旨の証言(当再審証人調書)に照らし、同証人の右証言部分を採ることは相当でないという。しかし、上田巡査が本件鉈と他の証拠品とを取り違えて供述した疑いを持たせるような証拠は全く存在せず、右検察官の指摘は単なる根拠のない憶測といわれても致し方ないところであり、検察官が同証人が鉈の血痕などをよく見ていないことを窺わせるものとして引用する部分は同証人の証言全体を見ると明らかに検察官が趣旨を取り違えて引用しているものと思われる。すなわち、当再審における証言は正確には「今ルミノール反応の話が出た、……その際に鉈についてのルミノール反応はどうでしたか。」との質問に対し、「鉈を意識してみたのはそのとき(本部の鑑定のとき)がはじめてで柄のところに茶かっ色のしみがありまして、そこが血痕じゃないかということ……。」(二三八項)と答え、二六四項から二六六項の問答に続いて、「人吉市警からその証拠物を一つずつ全部包んでまとめてお持ちになるときに鉈の柄というのは意識してご覧になった記憶はないんですか。」との質問に対し、「品物だけでその一つ一つについてどこに付いているかとかどうせ鑑定すれば分かるということで思っていますから特に一つ一つ詳細には見ていません。」と答えており、右証言の趣旨は一〇点に及ぶ証拠物件を「事前」には詳細に見ていないという趣旨で、逆に本部の鑑定室の中ではよく見ていたため血痕か何かまぎらわしいけれども茶かっ色のしみのようなものに初めて気が付いたという趣旨であることが明らかである。そうだとすれば「こびりついている」とか「かたまっている」血痕を鑑識係員で立会して観察している上田が見落すことは考えられず、それをしみのようなものと証言するはずはないのではなかろうか。この点につき原三郎鑑定人は当再審第一一回公判において「三週間くらいでは子供が見ても血ということが、少なくとも室内に置きました場合では容易に判定できると思う。」旨証言していることも参照されねばならない。

つぎに、これら血痕の付着状態やその大きさに関する各証言の信用性を検討するに際して念頭に置くべきと思われる点をあげると、前記田山の二四年証言、馬場の三〇年証言を除くといずれも本件発生から二四、五年を経過した後の証言であるということ、証言する者がすべて本件の捜査に関与した警察官であるということ、そのうち馬場、多良木、福崎は被告人を直接取調べた刑事であり、上田は鑑識係員であったということである。

検察官は、馬場六次証言が具体的ではっきり証言しているから信用性があるというが、前述のように馬場巡査自身一九年余り前の三次証言では「血痕らしいものがついていた」としか証言していないこと、他の警察官も馬場巡査に劣らぬほど鉈の血痕には関心を寄せたであろうこと、しかるに馬場証言とは異った趣旨の供述がなされていること、馬場六次証言は鉈の血痕がどのようなものであったかが血液型鑑定との関係で問題になっていることを十分認識したうえでの証言であるから、より詳しく証言される可能性があるという反面、証言する者が被告人の取調べに当った警察官といういわば事件の過中にある者ということから十分記憶にないことについてあたかもはっきりしているように証言されたり、血痕といわれるものの量や形状についても誇張されて供述される可能性も考えられること、これに対し、上田勝治は同じ警察官ではあっても人吉市警唯一人の鑑識係員として指紋の採取とか写真撮影等いわば科学的裏付け証拠の収集にたずさわっていた者で馬場、多良木、福崎ら被告人の自供を得べく取調べに当った警察官と若干立場を異にし、鉈の血痕等については特に冷静に鑑識者の目でしかも鑑定の現場で観察していることが窺われること、どちらかといえば右三名の取調べ官よりは第三者的立場にあることなどを考えると、これらの証言の中では上田証言が最も信用性が高いものというべく、少なくとも検察官がいうように馬場六次証言が最も正確であるとは到底いうことができないものと解する。なお、検察官は馬場六次証言が最も正確であるというが同証言は主として被告人の取調べの経過を内容とするものであるところ、同証人取調べの際、同証人は、被告人が例えば「鉄道線路の上に県道の橋があり、ガードになっているところ、その先付近から木上往還に上った。」(検証の結果上がることができないこと判明)、「免田と深田に通じるふたご橋の付近でズボンと上から着ていたハッピを洗った。」(これは被告人もそのような話が出たことを認めている)、「西村の実母のもとえ(実家)に寄って朝食を食べた。」などと供述していた旨述べ、被告人の供述調書が前述のように信用性に乏しく真実を述べていないとしても、右馬場が被告人が供述したと証言するところは右供述調書の記載と重要な点でくいちがいを示している。馬場六次証言のうち血痕の量と付着状態についてだけは正確であるといいがたい面がありはしないだろうか。

そうして、被告人の前述供述等によると、鉈の柄に米粒大の削りあとが二個あったことが認められ、一つは対照検査に使用するためのものであり、もう一つは検体を得るために削ったあとであろうことも前述した。ところで、もし血痕がこびりついているとか固まったようについている形態、すなわち、盛りあがりのあるものであれば、固まりの部分のみを削り取ればよく、柄の部分まで削り取る必要がないこと(当再審公判における原三郎の証言)にも注意すべきである。なるほど、原三郎一次鑑定書添付別紙の写真によれば血粉を取るためにわざわざ木質部分を削る必要はないことがよくわかるしむしろ削らないであろうとさえ思われる。

したがって、この削り口があった事実はとりもなおさず、血痕といわれるものが「しみのようなもの」であったという上田証言を客観的に裏付けるものといえる。

馬場六次証言、さらには「こびりついていた」という多良木六次証言は、馬場自身の三次証言、福崎六次証言、上田民事及び当再審証言によって完全にその証明力は弾劾されたとみるべきは当然である。

そうして、前示田山証言、馬場三次証言、上田各証言を総合すれば、本件鉈には、せいぜい血痕かどうか一見してはっきりわからないが、茶かっ色の血痕らしいしみのようなものが付着していたとしか認定できないことになろう。

2 付着部位

つぎに、血痕が付着していた部位については証拠上必ずしも明らかでないように思われる。

馬場三次証言によれば「柄と金部の際の附近」となっており、同人の六次証言では「柄をすげてあるところの下っかわ曲ってて、鉈がささってその下っかわ」と述べ、図示しているが、文字通り柄の付け根付近ぎりぎりのところであると証言する。つぎに、多良木の六次証言では「柄の付け根付近」と述べ、福崎の六次証言では「柄の方じゃなかったかと思う。」「柄の上のほうに近い方じゃなかったかと思う。はっきりした記憶はない。」と述べ、上田の当再審における証言では「右か左かということも分かりませんが、大ざっぱにいうと刃のほう、鉈の継ぎ目に近いほうだったと思う。」と述べている。また、被告人は「柄入れから五、六寸ぐらいのところに米粒大に削り口が二つあった。」(当再審公判供述)(「手で握って左のわき、柄の末端から三分の二ぐらいの所」((45・2・19民事本人調書))、「柄の上から二、三寸のところ」((右同)))、「付け根の所にあったという記憶なし」(当再審公判供述)と述べている。さらに、上田勝治の当再審における証言をみるに、検察官の「だから先程言ったしみのほかに継ぎ目の透き間があるでしょう。そこにあったのもピンセットでふいたという趣旨ですか。」との質問に対し、「検査するためにそこをふいたという、あとはまあ抜いてみなければ分からないということです。」と答え(四〇〇項)、「その辺には血痕はあったんですか。」との質問に対し「あったかなかったかは分かり兼ねます。」と答え(四〇一項)、弁護人の「今、ルミノール反応の話が出た……その際に鉈についてのルミノール反応はどうでしたか。」との質問に対し「鉈と金属の接合部分を何かの液にしたしてピンセットでふいて検査をされた覚えがある。」旨答え(二三八項)、検察官の「じゃあなたの検査に立ち会って覚えているのはどういうことがありますか。」との質問に対し「脱脂綿で柄と付け根の付近をふいたということ」と答えている(三四二項)。

馬場三次及び六次の各証言や多良木の六次証言によれば、付着場所は柄と金部の際の付近ということになりそうであるが、馬場六次証言のような場所というのは、これを明確にいっているのは同証人だけである。被告人は柄入れから五、六寸のところといい、福崎はもちろん、多良木も「付け根付近」、上田は「継ぎ目に近い方」と証言している。そうして、これに「いわゆるしみは継ぎ目以外のところにあり、継ぎ目には血痕があったかどうか分からない。」という趣旨の前記引用した上田証言部分を総合すれば、血痕は継ぎ目に近い方にあったが、むしろ馬場のいうように「継ぎ目そのもの」にはなかったと認定するのが相当のように思われる。そうして、血痕らしいしみについては削り取って鑑定したことは明らかであるところ、右上田証言によれば継ぎ目を削り取っていないというのであるから、そうだとすれば、他の場所に削り取るべきしみがあったことになる。

被告人の柄入れから五、六寸のところに削り口があったというところが、母トメノの赤ぎれの血との関係で若干問題視される余地がないわけではないとしても、削り口が継ぎ目そのものでないことについては右上田証言等裏付ける証拠が存在すること、そうして本件において、米粒大の削り口の唯一の目撃供述者であることを考えると、血痕の付着部位に関する被告人の前記各供述は軽々に無視しえず、そうだとすればここでも馬場、多良木各六次証言の信用性が問われることになりそうである。

3 大きさ

本件において血痕といわれているものが、茶かっ色のしみのようなものだとして、その大きさはどの位であったかであるが、上田勝治の当再審における証言では「長い方で一センチ左右で六~七ミリ」と思うと供述し、ただ「今言った何センチとか数字的なものは一切当てにならない。」とつけ加えているが、同証人の証言によればかなり大きな印象を受ける。しかし、被告人は前述のように鉈の柄に米粒大の削りあとを二個見たといい、本件においてこれを覆すに足りるほどの証拠は存在しないといわざるをえないのであるから、しみの大きさは、せいぜい米粒大とみるべきであり、以下大きさについては米粒大ということを前提に検討するのが相当ということになる。

そうして、船尾忠孝の当再審における証言によれば、米粒大、正確にいうと米粒面大とは、生米で長径五ミリ、短径三ミリ、炊いた米飯で長径七~八ミリ、短径四、五ミリといい、六次証言(五四年四月二〇日実施)では、長径七~八ミリ、短径四~五ミリであると証言しているので、大体その程度の大きさと認定される。

三  血痕量と鑑定(凝集素吸収試験とO型判定)

船尾忠孝の六次証言(五四年四月二〇日実施)によれば、血痕の血液型を鑑定するのに必要な諸試験を行うためには最低二ないし三ミリグラムの血痕が必要であり、しかもそのうち半分にあたる一ないし一・五ミリグラムはいわゆる血液型検査だけに必要といい(検体の量が少ないところから、一個の試験管に検体をとり、これにO型血清を入れ、その後検体を除いて残った液が凝集能力を有するかどうかを検査する場合においてである。元来凝集素吸収法においては、試験管二個を使うのが普通であり、これに抗A血清、抗B血清を別々に入れたものにそれぞれ検体を入れて吸収操作するので、このやり方に従えば、前者の場合に比べて倍の量の検体が必要である。そして、下田亮一の六次証言((五三年六月二三日付))によれば、昭和二四年当時熊本県警では後者のやり方がとられていたことが認められるので、必要量は前者の二倍ということになる。)、米粒大(米粒面大)でもせいぜい〇・八ないし一ミリグラムしかないので、いかに吸収時間をかけても正確な判定は不可能であるという。そうして、当再審証人調書において、さらに、原鑑定人が包丁の木製の柄に約二・五センチメートルの高さからマイクロピペットで血液を滴下して米粒大の血痕を作成し、削り取って血粉状にし、その重さを測ったところ約一・五ミリグラムであった(原第一次鑑定)ということに関して、なぜこのような違いが出て来たか、その原因について、まず米粒大という表現がそもそもそれほど正確な表現ではないこと、もっと大きな原因は原教授がマイクロピペットで米粒大の滴下血痕を作成したため厚みのある血痕ができたためと考えるという。

原三郎の当再審第一〇回公判(五七年三月一九日実施)における証言は、「大体〇・〇一ccを木片の上に滴下した場合、いちばん米粒大に近似する大きさを示す。」「この血痕部分を削り取って重さを測ったら大体一・五~一・七ミリグラムであった。一・五ミリ強なので、実験には一・五ミリグラムを使った。」「矢田教授のいう四分の一平方センチメートルというのは被付着物はおそらく紙か切れではないかと思う。多少盛り上がりがある血痕の場合はかならずしも四分の一平方センチメートルを必要としないように思う。」と証言し、実験結果及び文献等を総合すれば、おおよそ一ミリグラム以上の血痕量があれば、血液型の判定は可能であると結論し、原一次鑑定書(六三~六四頁)では、(イ)ほぼ米粒大の血痕で柄の表面から多少とも盛り上がったものであれば、一ミリグラム強を削りとることは比較的容易であり、六時間吸収にても型判定は可能と考えるが、(ロ)「次に盛り上りが全くなく、しかも色調が著しく薄くなった状態の血痕では一ミリグラム以上を削りとることは困難であり、予備試験、人血証明は可能であっても吸収試験による型判定は出来難いと考えられる。」とし、(ロ)のような場合とは「例えば水の中につけるとか、非常に湿った土の中にはいっているとかを想定したもので、水などを受けて周囲に流れていき、輪郭が不鮮明になることをいった。」旨証言し、室温でそのまま放置した場合には鑑定書(一次)の写真のように盛り上がりのある血痕になるという。そうして、俗にしみというのは右六四頁(ロ)のところと鑑定主文にいう「被付着物体よりの盛り上りは全くなく、辛じて米粒大の大きさは認め得るが、血液固有の色調をかなり失って周囲に拡がり、輪郭不鮮明になった血痕の場合」がほぼこれに当たり、そうしてその場合には一%ないし〇・五%の血球浮遊液を用い、力価六四ないし一二八倍の抗血清を力価八倍に調整したものをさらに力価四倍に調整したものを用いても型判定は困難であり、その他の抗血清では一層困難で恐らく不可能ではなかったかと考えられる。」(右鑑定書七七~七八頁)という。この点に関し、船尾証言はつぎのようにいう。「盛り上がりがなくてしみのようなものはその付いているものを削らなければならないから、どうしてもその物も入ってきて遊離した部分がなくなってくるので血粉が作りにくいことになる。」(当再審における証言一八九項)と述べ同証言二〇三項でも同旨のことを述べているのは注目に価する。

ところで、鉈の柄に付着していたとされるもの(「血痕らしいもの」((馬場三次証言))、「血痕のようなもの」((田山証言))、「しみのようなもの」((上田、福崎証言)))の大きさについては先に触れたように結局米粒大と考える以外ないとの結論に達したわけであるが(前記第六、二、3参照)、大きさだけに限ると馬場六次証言は「米粒大ないしはそれ以上」、多良木六次証言は「米粒大の半分ぐらいないし粟粒大」、福崎六次証言は「鉛筆の芯大」、上田当再審証言は「たて一センチよこ七ミリぐらい」とそれぞれあるが、決定的なものはなく、前記のように証拠上結局被告人のいう削りあとから考えて、せいぜい米粒大とするのが相当である。

しからば、本件鉈の柄に付着した血痕について考える場合、それは「米粒大のしみ状のもの」を前提にしなければならないことになる。そうだとすれば、船尾鑑定によってはもちろん、原鑑定によっても血痕の量の面からすでに血液型判定は不可能という結論にならざるをえない。

検察官が論告において、るる主張するところは、すべて「米粒大の盛り上がりがある血痕が付着していた」ということを前提とするもので、この前提が右のように崩れてしまった以上、本件では全く適切でないことに帰する。

以上のように本件鉈の柄部に着いていた血痕が米粒大のしみ状のものであると認定せざるをえないとすると(あるいは少なくとも米粒大の盛り上がりのある血痕が付着していたものと証拠上到底認めることができないとしたら)、血液型判定についてその余の論点について判断するまでもなく、本件血痕をO型と判定した伊藤鑑定は信用性を欠くという結論になる。

したがって、本件においては血痕鑑定についてこれ以上さらに検討を加える必要はないことになるが、六次再審開始決定や検察官が特に問題にしている経緯を考え、なお若干の点について付言する。

四  船尾鑑定と原鑑定

血液型判定に関する船尾鑑定と原鑑定とは一見きわ立った対立を示しているように見えて、実は基本的な点ではそれほどの対立はないと考えられ、異なる結論が導かれるのは主として、そもそも前提とする事実が異なることに起因することが多いように思われる。

これらの点につき当裁判所において、両鑑定を対比する場合に重要と思われるいくつかの点をとりあげてみることにする(なお、船尾鑑定人、原鑑定人とも証人として証言する場合はすべて鑑定証人であるが、便宜上単に鑑定人と表示する。)。

(一) まず原鑑定は、実験室内で作成した米粒大の盛り上がりのある血痕を前提とし、その血粉の重さを一・五ミリグラムから一・七ミリグラムとするのに対し、船尾鑑定は盛り上がりのないしみ状の米粒大の血痕を前提にし、その重さをせいぜい〇・八~一・〇ミリグラムとする。原鑑定は滴下血痕を考えるが、船尾鑑定は飛沫血痕を考えるので米粒大(直径五ミリメートルの円ぐらいと考え)、重さは大体一ミリグラムとする。両鑑定の米粒大血痕の重さの違いは右の点から生じている。そうして、血液型判定について船尾鑑定は二~三ミリグラムを必要とし、原鑑定は一ミリグラム以上あれば判定可能という。

(二) 血痕の陳旧度は、本件ではそれほど問題にならないとしても、血痕の汚染を考えているか否かの違いがある。船尾鑑定はルミノール試薬、手あか、汗、水分、土の成分などのしみこみなど汚染を十分に考慮しなければならず、そのためにも十分な浸出時間をかける必要があるとするに対し、原鑑定は実験室で作成した一九日ほど経過した血痕を前提にし、いわゆる汚染ということはそれほど重視しなくてもよいと考えているようである。原鑑定人は、変質した場合は素人が見て血痕とわからないような色調になっているといい、船尾鑑定人は肉眼で見て血痕の陳旧度や変質腐敗はわからないとする。

(三) 血痕から血液型を検査するためには、血痕予備試験、血痕本試験、人血試験、血液型検査の順に検査を実施することを要すること、二四年当時血液型の検査は抗A血清と抗B血清のみを使用し、いずれにも吸収がみられないときにO型と判定される、いわゆる凝集素吸収法によってなされていたところ、船尾鑑定と原鑑定の最も主要な違いは(イ)人血試験に必要な浸出液を作成するに要する時間が二四時間位を要するか(船尾鑑定)、約一〇分位でよいか(原鑑定)という点と(ロ)凝集素吸収法の吸収操作時間が二六~二七時間を要するか(船尾鑑定)、五~六時間でよいか(原鑑定)という点である。

(イ)の点について、船尾鑑定はつぎのようにいう。人血試験に用いる抗ヒトヘモグロビン(抗血清)は、二四年当時大体一万五、〇〇〇倍ぐらいの力価があればいい抗血清といわれていた。そうして、右抗血清の上に血痕から抽出した食塩水を乗せて白濁のリングができるかどうかを見るわけであるが、抗血清の力価がもし一万倍のものであるならば、その上に乗せる抽出液が一万倍より薄い場合には人血であっても反応が出ない。一万倍より濃いものが必要である。しかし、抽出液が何倍の浸出液になっているかの判定は肉眼ではできない(ほとんど透明である。)。現在ではその濃度がわかるけれども、二四年当時では経験的に判定する以外なかった。十分時間をかけて浸出すればするほど濃い浸出液が得られる(変質していると浸出がスムーズにいかない。)。だから、一二時間、場合によっては二四時間を要するといっているので三時間とか六時間というのは非常に危険であるとする。もっとも血痕量が十分ある場合とか、原鑑定がいうような実験室で作成した汚染の考えられない血粉のような場合はそのようにいう必要がないであろうとする(同人当再審証人調書)。

(ロ)の点について、いわゆる血球濃度の調整と抗血清の力価の調整の問題がある。船尾鑑定では「非常に薄い〇・一%の血球浮遊液も今はざらに使っているが二四年当時、通常は一%ないし二%くらいを使っていたと認識している。下田証人は二%から五%使っていたといっているようだが肯ける。とすると一・五ミリグラムから型判定は実験的に行われた場合でも疑問視しなければならない。」と述べ(同証人調書)、原鑑定書(57・8・23二〇頁)によれば「高希釈の浸出液の場合、力価三万倍、四万倍の抗血清を用いれば人血証明は可能」という。そうだとすれば、二四年当時力価三万倍、四万倍の抗血清を作成できたか否かを確定せねばならないが、この点に関し船尾鑑定は「運がよくて二万倍の抗血清にめぐりあえた」という(前同証人調書)。

これに対し原一次鑑定書によれば、衣類などに付着して年数を経過したような血痕などでは、一〇分内外では浸出が困難で、一夜浸出が必要な場合もあることから、法医学書には包括的に一夜ないし二四時間浸出という記載がなされているが、すべての検体に二四時間の浸出時間を必要とする趣旨であると解するのは誤りであるとする。

つぎに、凝集素吸収法の吸収時間については、いろいろむずかしい問題が多い。原鑑定はまず抗血清の内容、つぎに血痕が抗血清に混和され易いかどうかが問題としつつ、五~六時間で可能とする(原一次鑑定書)。福山武外一名の「型的凝集素吸収試験における吸収時間について」(日本法医学雑誌三四巻四号)では、二時間ないし三時間で可能とする。矢田昭一は最低一二時間で普通二四時間とし(同人の50・2・18証人調書第六八項((四九年一二月二六日実施)))、船尾忠孝及び小谷淳一は最低二六、七時間必要とする(同人らの47・7・29鑑定書)。そうして、船尾鑑定人は当再審において、吸収時間が短かすぎるということが汚染を考えていない証拠であるという(当再審57・6・25証人調書第五五項及び第五六項((同年五月二九日実施)))。

これに対し原一次鑑定書は、ここでも「これら(法医学書)は非常に古い血痕や汚染、変質した血痕など吸収に長時間を要する検体もあることを想定し、一般的包括的に最大限必要な吸収時間を記載したものであって、あらゆる検体につき一様に一夜間以上の吸収操作を必要とする趣旨で書かれたものではなく、吸収時間についても、具体的な検体の性状に応じて、検査担当者の学識経験に基づく裁量がある程度容認されている。」とする。

結局、船尾鑑定人の当再審における証言は、(1)原鑑定と福山鑑定が前提にしている血痕と船尾鑑定が前提にしている血痕とは異ること、すなわち、前者は実験室で作成した米粒大の盛り上がりのある血痕から削りとったいわば新鮮かつ純粋な(汚染されていない)血粉であり、後者は米粒大の盛り上がりのない陳旧度及び汚染程度が不明な血痕を前提にしていること、そうして、この点が両者の違いをもたらす最大の原因をなすように考えられること。(2)米粒大の重さの違いは米粒大血痕の作り方の違いにより滴下血痕か飛沫血痕かで厚みに違いが生じ盛り上がりの有無が生じる(原二次鑑定は滴下か飛沫かは必ずしも厚みに関係ないという。)。厚みがあれば一・五~一・七ミリグラムも不当でない。厚みがない血痕を考えればせいぜい一ミリグラムである。(3)しみ状の血痕から血粉を削り取ることはむずかしい。なぜなら、木質がどうしても混入するからである(原鑑定証人の当再審第一〇回公判における供述でも「しみ状のものからも多少とれますが、型判定を行う程の量はとれないと思います。ただ、人血の証明は可能だと思いますけれども。」という((一六〇項)))。(4)浸出時間一〇分程度、吸収時間五~六時間というのも原、福山鑑定が前提とする血粉であれば、実験結果としてはそのとおりで正しいと思う。しかし、一般に米粒大の血痕の型判定をする場合、そのような浸出時間や吸収時間では採証学的に正しい型判定ということはできない。したがって、原鑑定や福山鑑定はたまたまそのような血粉について同所で述べられているような実験をしたらそのような結論が出たという限りでは、それはそれで正しいのであるが、一般に血痕を鑑定する場合には、血痕の陳旧度や量、汚染をも考え、浸出には一二~二四時間、吸収には二四~二六時間をかけるというのが採証学的に正しい態度である。(5)また、本件血痕の型判定については、昭和二四年当時ということを前提にしなければならない。凝集素吸収法という型判定方式の基本は二四年当時も現在もかわっていないが、抗血清の力価(二四年当時は二万倍が幸運で、現在は一〇万倍も存する((原鑑定)))、血球浮遊液の濃度(二四年当時は二~五%、現在は〇・一%)などの違いも考えねばならない。このような条件の違いも存する。(6)結局二~三ミリグラムの量が必要で、一・五ミリグラムの量で、吸収時間五~六時間というのでは実験室的に行ったものとしても疑問といっているように思われる。そうして、これらの問題点に関し、船尾、原両教授以外に矢田昭一教授が、一般論的ではあるが、「吸収時間が短かい場合、血痕量が少ない場合、血痕が古すぎて変質してしまった場合には全部O型になります。」(50・2・18矢田六次証言)と証言している点も注目しなければならない。

これらの点について、さらに原二次鑑定の批判もあり、なおその当否については論議を呼ぶものと思われ、いずれを正当とすべきかはこの段階でにわかに断定できないものがあるといわざるをえないし、すでにみたように当裁判所としては本件の有罪無罪を決するに必要な争点とは解していないのであるから、この点に関しこれ以上の審理は不要と考える。

さて、前記のように本件鉈に付着していたとされる血痕様のものは、二四年一月一八日国警熊本県本部鑑識課警察技官伊藤一夫によって鑑定され、O型と判定された。

ところで、六次抗告審決定は、船尾鑑定及び矢田証言に基づき本件鉈の柄に付着していた血痕が微量で、変質、汚染の可能性があるのに、伊藤鑑定は約六時間で血液型を判定しており、浸出時間、吸収時間が不十分であるから、右O型の判定結果は信用性が極めて乏しいものであるとした。

しかるに、検察官は、当再審公判において取調べられた原一次鑑定書、同二次鑑定書及び同人の再審公判証言等によって、本件血痕をO型と判定した伊藤鑑定は十分信用に価するものであることが明らかになったという(論告七七頁)。

そうして、なるほど検察官が掲げる原鑑定等によって浸出時間や吸収時間に関する検察官の主張が論証され、一見船尾鑑定や矢田証言に対する反論が成功したかのようにみられるかも知れない。しかし、すでにみたところから明らかなように、船尾鑑定と原鑑定ではその前提とする血痕の態様(しみ状のものか盛り上がりのあるものか)及び米粒大といってもその量などに根本的ともいえる違いがあり、したがって船尾鑑定と原鑑定はその意味でややすれちがいの様相を呈しており、原鑑定が船尾鑑定に対する反論として、検察官が評価するようには効を奏していないといわざるをえない。

それどころか、原鑑定においても、すでにみたように俗にいわゆるしみ状になった米粒大の血痕では一ミリグラム以上を削りとることは困難であり、型判定はできがたいとするなど結論としては重要な点で船尾鑑定と一致し、結局は、本件を考えるに当たり最も大切な点が鉈に付着していたとされる血痕がいかなるものであったかということに関する事実認定であることを浮き彫りにしたとさえいえる(もっとも船尾鑑定は、血液型判定には結局二~三ミリグラムの量が必要で、一・五ミリグラムの量で吸収時間が五~六時間というのでは実験室的に行ったとしても疑問であるとするが)。

したがって、船尾鑑定や矢田証言が伊藤鑑定に投げかけた疑問は、原鑑定等によって氷解したものとは到底いいがたく、最後に取調べられた原二次鑑定によっても、前記船尾鑑定が指摘する問題点(二七二頁以下)は、なお論議を呼ぶと思われるけれど、疑問としてさらに残されているものとみざるをえないところである。

五  その他

つぎに、船尾、原鑑定を通じ最も問題と思われる点についての当裁判所の考えを二、三述べる。

1 飛沫血痕と滴下血痕

検察官は、船尾鑑定人が「凶器に滴下血痕が出来ることは通常考えられず、飛沫血痕が付くのが普通であるのに、原鑑定人は、米粒大の滴下血痕を作って実験、鑑定を行っている。」「原鑑定人が作った米粒大の血痕は滴下血痕であるから盛り上がりが生じ、一方飛沫血痕は、盛り上がりが生じないから、滴下血痕の方が飛沫血痕より重量が重くなる。」旨証言する(同人の当再審証人調書)のに対し、原二次鑑定書に基づき、盛り上がりが生じるのは、血痕を滴下したためではなく、被付着物が木質の柄であるからで、飛沫血痕(!)の場合でも「・」の部分は血量の多少にかかわらず、柄から多少とも盛り上がった血痕を形成し易く、特に本件犯行は、鉈で角藏ほか三名の頭部を滅多切りにしているので、打ち込んだ鉈の柄と創口とが近接していることから飛沫血痕の量も多く、また創口から出る血液が刃やこれに近い柄の上部に直接多量に付着する可能性も大であるから、鉈の柄に盛り上がりのある血痕を生じる可能性は極めて高いと批難し、さらに船尾鑑定人の実験は、米粒大の孔をあけた紙の下に布を置き、これに筆に含ませた血液を振り掛けて布に米粒大の血痕を付着させたものであるから、本件血痕の被付着物が木質の柄であることを無視した実験であるという(論告九五、九六頁)。

しかし、まず、検察官の指摘する船尾証言一三項の答は「布地とか、あるいは場合によりますと木のようなものに、ちょうど今私が言ったような米粒大ないしはそれぞれいろんな大きさの血痕ができるわけです……。」となっており、「布」に限っていないのであるから、この点についての検察官の批難は正鵠を得ていない。ただ、なるほど布地などしみ込み易い被付着物の場合には付着した血液が広がるので少量でも米粒大になってしまう可能性が強いであろうから、布地に広がった米粒大の血痕量は、しみ込まない木の柄に付着した盛り上がりのある米粒大の血痕量より少ないであろうことは容易に推測しうるところであり、したがってその限りにおいて検察官の右見解は正当のものを含んでいるといえよう。

しかしながら、検察官の右立論の最も問題な点は、はたして凶器として使用された鉈の柄に、約二・五センチメートルの高さからマイクロピペットで滴下された血液がそのまま静かに室温状態に置かれ、水分が蒸発して盛り上がりのある血の固まりができあがるというようないわば実験室的現象が、実際にもありうるかということである。もちろん全くその可能性がないとはいえないかも知れないけれども、常識的に考えて、血液は液体であるから凝固するまでは流れる性質を持つ、したがって血液が付着してそのまま静かに長時間放置されていたのであれば格別、そうでない限り凶器に盛り上がりのある米粒大の血痕として残る可能性は少ないのではないかと思われるし、まして被告人の自白によれば犯行後高原まで持ち歩き、土中に埋められたというのである。被告人の右自白が信用できないものであることについてはすでに詳しく述べたが、検察官としては、右自白が真実であるとの立場に立っているのであるから、鉈の血痕を検討する場合にはこれを前提にして事を論じなければならないのは当然である。

そうだとすれば、ますます凶器として使用されたものに滴下血痕ができにくいという前記船尾証言の指摘は、原二次鑑定の反論にもかかわらず首肯しうると思われるうえ、仮りに滴下血痕なり大量の血液が凶器に付着したとしても、それが、原鑑定人が実験室で作成したような盛り上がりのある固まった状態で残っている可能性は極めてまれといわざるをえないのではなかろうか。

本件血痕鑑定についての検察官の立論は、血痕の付着状態やその量に関し、あくまでも馬場六次証言を拠り所にした立論で、もし馬場証言が崩れると、全体的にその根拠をなくしてしまう内容であることすでに述べた。

検察官は右馬場証言を信用し、本件血痕が盛り上がりのある米粒大のものとの観念にとらわれてしまったために、右のような実際を無視し、原鑑定人が、たまたま前記のような方法で、実験室で作成した盛り上がりのある米粒大の血の固まりと同じ様な血痕が本件鉈にも付着していたとの前提で終始してしまったのではなかろうか。

2 血痕の汚染、変質

船尾当再審証人調書によれば、同証人は、ルミノール試薬、手あか、土砂、土壌、肥料、雨水等による血痕の汚染、変質の可能性を問題にし、他方六次抗告審で問題にされていたバクテリヤによる汚染ということは余り考えていないといい、一方原鑑定人も血液の型物質を分解する細菌はまれな存在であるうえ、摂氏一〇度以下の温度では細菌の増殖力は非常に低下しているので細菌による汚染、変質は考えられないとするので、バクテリヤによる変質というのは余り相当でないかも知れない。

そうして、検察官は、右船尾鑑定人の「土の成分のどのようなものが浸出液を作る時障害を起こすかわからない。」との証言部分(当再審証言)をとらえて、具体的な根拠がないのに、汚染変質の可能性を強調するものであると批難し、本件血痕が付着していた場所が、鉈の柄を差し込む金具のすぐ下の部分で、通常鉈を握る部分ではないので、汗や脂による汚染も考えられないとする。

しかし、まず、すでに触れたように(二六六頁以下)、そもそも本件血痕が鉈のいかなる部分に付着していたかは、検察官が断言するようには証拠上明確ではないのである。検察官は血痕付着の場所についても全面的に馬場六次証言に依拠するようであるが、これには前記上田証言や被告人の供述という有力な反証があることを忘れてはならない。もし被告人の供述するように、「柄入から五、六寸のところ」(当再審公判)とか「柄の上から二、三寸のところ」(民事45・2・19本人調書)だとすれば、手あかや脂、汗による汚染は当然考えられることになる。

つぎに、船尾当再審証言は「雨水によるとなおさら土の成分が血痕に浸透し易くなる。」旨述べている。

この点については誤解のないよう説明を加えると、被告人の自白によれば鉈は高原の土中に埋められたことになっており、もしこの事実が真実だとすれば、いわゆる秘密の暴露として自白の信用性を裏付ける重大な事実であることはすでに触れた。しかし、鉈を埋めたという右事実が、本件でははなはだ根拠の弱い、不自然なことであり、証拠上も認めがたいこともすでに詳しく述べたところである。

しかし、本件血痕鑑定の信用性を検討するに際しては、右自白が真実であるか否かは別にして、仮りに自白でいうように約一〇日間高原の土中に埋められていたとしたら一体血痕はどのようになり、型判定は可能であろうかという吟味もなされねばならない。なぜなら、伊藤鑑定結果報告書を有罪の証拠とするためには、本件鉈と犯行の結びつきが立証されねばならず、それには犯行後鉈が高原の土中に埋められ、約一〇日後に掘り出されて伊藤イチ方へ持参されたことまで立証されなければならないからである。

さて、鉈が土中に埋められていたとしたらどうなるであろうか。自白によれば鉈は、二三年一二月三〇日から二四年一月九日まで一〇日余り畠の土中に埋められていたことになり、前記気象記録によれば、その間一月七日を除いては雨か雪「積雪は記録されていないから溶けたとみるべき)が降っているようである。右船尾証言にいう雨水と土壌による影響を十分考慮しなければならないのではなかろうか。

原二次鑑定書にによると、米粒大の血痕を付着させた柄を、冬期戸外の土中に放置し、三週間後にとり出して型検査を行った場合、判定可能な例もあれば不可能な例もあり、一定しなかったとなっている。原二次鑑定の右部分を型判定可能との結論の根拠とみるか(検察官)、あるいは不可能とする結論の根拠とみるか(弁護人)、論が分かれるかも知れない。しかし、少なくとも、血痕と土とが付着したところに雨水がそそいだら、はたして原鑑定人が実験室で作成したような盛り上がりのある血痕が残るであろうかという常識的な疑問は、汚染や変質以前の問題としてあるのではなかろうか。そうしてまた、刑事裁判における事実認定の基本に立つ限り、前記冬期戸外の土中に放置した原鑑定人の実験結果は、自ずから型判定が不可能な場合があるとの根拠、換言すれば伊藤鑑定結果報告書がO型と判定したことに対する疑問を投げかける証拠と評価すべきこと多言を要しない。

つぎにルミノール試薬による汚染についてみるに、まず、本件鉈についてルミノール検査が行われたか否か争われているが、上田勝治の再審公判における証言によれば「まず暗幕が引いてある部屋に入ってルミノール反応という検査を最初衣服のほうからやったと思う。ルミノール検査をやったあと型検査をやった(二三九項参照)。」という趣旨の証言をしているところ、検察官は右証言の趣旨を、ルミノール検査は、肉眼による観察で血痕の付着が認められなかった被告人の衣類や地下足袋について行われたという趣旨に解釈し(論告一〇四頁)、素人の馬場巡査でさえ明らかに血痕の付着を認めた本件鉈について、ルミノール検査が行われたとは考えられないこと、ここでも馬場証言を持ち出す。

しかし、血痕が付着していた個所及びその量、態様とも馬場証言のいうようにはにわかに断定できず、むしろ同証言とは異なる可能性が強いことすでに触れたとおりであるが、それはさて置くとしても右上田証言は、たしかに明確でない点があろうけれども、これを素直に読むならば、「鉈についてルミノール検査をしなかった」という趣旨にはどうしても読めず、むしろルミノール検査をしたうえで型検査をしたとの趣旨にとれるのではなかろうか。

そうして、船尾当再審証言によれば、昭和二四年当時は、明らかに見えているしみなりはんこんの部分にルミノール試薬がかからないような配慮はしていない(現在ではルミノール試薬がかかると一段階程度の吸収の障害を受ける場合があることがわかっているので避けているが、二四年当時はわかっていなかった)というのであるから、検察官のいうように、本件鉈の柄の血痕にはルミノール試薬をかけていないとみることは相当でなく、本件ではやはりルミノール試薬による影響ということをも念頭に置く必要があると解する。

もっとも原二次鑑定は「通常の一、二回程度のルミノール噴霧であれば、凝集素吸収試験の判定にとくに支障をきたすようなことはないと考えられる。」とするが、他方「不注意に何回も噴霧したような場合には、凝集素吸収試験の倍数希釈法で一段階程度の吸収の障害がみられることがあるが、この場合でも六時間吸収と二四時間吸収との間に、とくに吸収成績の差は生じないと考えられる。」とする。

しかし、これに対し前示船尾証言は、ルミノール試薬がかかったような血痕は短時間の吸収ではだめで、長時間吸収して初めて吸収が可能になるとし、十分な吸収時間が必要である旨を強調している。

これら両者の論からいずれを正当とすべきか、にわかに断定できないものがあるといわざるをえないが、本件ではルミノール試薬による影響も無視しえないということはいえるのではなかろうか。

六  伊藤鑑定結果報告書

いわゆる伊藤鑑定書はO型と判定すと結論が記載されているのみで、結論に至る経過が全く記載されていない。したがって、これは鑑定書というよりも報告書と呼ぶのが適当かも知れない。

鑑定書というためには、その結論が正当であることを吟味し、論証する根拠が記載されていなければ、やはりそれだけ信用性が弱いといわれても致し方ない。一体どの程度の量でどのような態様、色調の血痕であったのか、どのような検査がなされたか現在ではほとんど例外なしに記載されていることが全く欠けているのである。この点も伊藤鑑定の信用性を考えるに当たって看過できないことである。

第七結論

以上のように、被告人には本件につきアリバイが成立し、被告人に対する昭和二四年一月二八日付起訴状記載の公訴事実(原第一審判決判示第三の事実)は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をなすべきものである。

(原第一審判決判示第一及び第二の罪となるべき事実に関する刑の量定)

すでに述べたように原第一審判決判示第三の事実については無罪の言渡をなすべきところ、原第一審判決は、同事実を含む判示第一ないし第三の事実が刑法四五条前段の併合罪の関係にあるとして、これら全部の事実に対して一個の刑を言渡しているので、右第三の事実を除く原第一審判決判示第一及び第二の事実(いずれも窃盗の事実)について原判決の認定したところに基づき、あらたに刑の量定を行うこととする。

被告人の原第一審判決判示第一及び第二の所為はそれぞれ刑法二三五条に該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から一年間右の刑の執行を猶予し、訴訟費用のうち証人犬童清作に支給した分は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 豊田圭一 裁判官松下潔は、転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 河上元康)

〈以下省略〉

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